遠くに、いくつかの灯し火が見えた。
それは規則正しくはないけれど、寄せては返すさざ波のように、穏やかに、ゆっくりと揺れていた。
そこは、深い眠りの底のような、心地よい重みに満ちた場所だった。
重い身体を引き摺るようにして、私は自分の部屋へと辿り着いた。
時計の針は午前二時を回っている。
十九歳の冬。
憧れの都会で美容師の見習いとして働き始めて半年が過ぎていた。
毎日、たくさんの人が抱えている疲れや、言葉にならない想いまでも、そっと流せたらと髪を洗う。
薬剤を混ぜ、床を掃く。
鏡に映る世界は華やかだけれど、その裏側にある自分の日常は、湿ったタオルの臭いと、消えない手の痛みに支配されていた。
電気を点ける気力もなく、暗い部屋の中で座り込む。
窓から差し込む街灯の光が、私の荒れ果てた指先を冷たく照らし出した。
節々が赤く腫れ、ひび割れた皮膚は、まるでもう自分の身体ではないような感覚だった。
明日もまた、この手を熱いお湯に浸さなければならない。
誰かの幸福を編み上げるために、自分という糸を解き切ってしまう。
机の上に置いてあった、小さなオイルランプに火を灯す。
その小さな光は、震える私の心を写したように、青白く、いまにも立ち消えそうなほど細く揺れていた。
理由のない涙が、頬を伝って床に落ちた。
「手の温もりを分け与える仕事は、自分の熱を削る仕事なのでしょうね」
不意に、背後から穏やかな声がした。
驚きよりも、その声の優しさに身体が強張る。
振り返ると、そこには銀色の髪を長く伸した青年が立っていた。
彼の背中には、夜の闇を払い退けるような、巨大で白い翼が備わっていた。
部屋の狭さを忘れさせるほど、その翼は気高く、そして柔らかな光を放ッていた。
「誰……? どうして、ここに……」
私の掠れた問いに、彼はただ静かに微笑んだ。
「少しだけ、肩の力を抜いてくださいね。今夜は、きみ自身を甘やかしていい時間なのですから」
彼が翼を大きく広げると、停滞していた部屋の空気が、まるで春の訪れのように一変した。
白い翼の表面から、黄金色の光の粉雪が舞い降り、私の荒れた手を、傷ついた心を、優しく陽だまりのように包み込だ。
「あ、あたたかい」
彼は迷うことなく歩み寄り、その大きな翼を私の背中へ回し、繭のように大切に抱きしめた。
翼の感触は、現実のものとは思えないほど柔らかく赤子の頬に触れるような、あるいは陽だまりに溶ける雲に覆われているような。
何よりも、その圧倒的な熱が、私の芯まで冷え切った身体をも溶していく。
薬剤で強張っていた指先も、無理な姿勢で固まっていた腰も、彼の翼が触れた瞬間、氷が解けるように軽やかになっていった。
「苦しかったですね。自分が憧れた場所にいるはずなのに、自分が削られていくような毎日。誰にも言えず、一人で鏡を磨き続けたきみの孤独を、この翼は知っていますよ」
彼は耳元で囁きながら、一層強く、私を翼で引き寄せた。
白いダウンのように豊潤な羽毛の束が、私の張り詰めた神経を一本ずつ解していく。
首筋に触れる一筋の羽さえもが、愛を持った温もりとして浸透していく。
「ふれられることがこんなに暖かく、安らぎになるなんて」
涙が自然と溢れ落ちた。
彼の中で、私は自分が思っていたよりもずっと小さく、震えている存在であることを認めた。
都会で一人、大人の振りをして笑っていた「強がり」が、翼の温かさに当てられて、崩れ落ちていく。
「いいんですよ。この翼の中では、完璧なアシスタントである必要はありません。きみの弱さも、痛みも、すべてこの翼が吸い取り、消し去りますから」
彼は愛おしげに私の頬を撫で、額を静かに重ね合わせた。
「誰かの為に尽くさんとする無言の激励は、蓋し、不言の誠実として相手の胸中に響き渡るものなのですよ」
翼から溢れ出す幾千万の粒子が、瞬きの合間に意識を白く染め上げていく。
そのとき、机の上で震えていた青白い灯し火が、変化し始めた。
それは激しく燃えるのではなく、人間の静かな呼吸のように、豊かに、穏やかに、確がな熱を持って揺れていた。
「……ありがとう。私、まだ頑張れるかもしれない」
涙に濡れながら、自分の体温を取り戻し、掠れた声で呟いた。
すると彼は再び翼を大きく羽ばたかせ、淡い黄金色の光の粒を部屋全体に振りまいた。
……。
朝、アラームの音で目を覚ます。
鏡に向かうと、そこには昨日までと同じ、未熟な自分がいた。
けれど、手の赤みは引き、指先には確かな力が宿っていた。
心の中に灯った琥珀色の火が、消えることなく小さく揺れているのがわかる。
「……行こう」
自分でも戸惑うほどの柔和な言の葉が、春の気流に運ばれる花香のように、微かな香りを残して空間へと融け合っていった。
その温もりは、彼の翼が残した勇気そのもの。
私の心に灯った小さな光を絶さないように、今日もまた、誰かの笑顔を編むために、穏やかな一歩を踏み出した。
第 6話(完)