遠くに、いくつかの灯し火が揺れていた。
それは幾重もの厚い着色ガラスに遮られた、外からは一滴の揺らぎも見えぬ密閉の光だった。
完璧な調和を装う硝子の奥で、内なる焔は激しく身を悶えさせているというのに、その狂おしさは誰にも知られることはない。
他者を安らがせるために自らの乱れを徹底して隠し、静寂を貫くその輝きは、美しい嘘の裏に本音を葬り去った、気高き職人の横顔のようだった。
胸の奥が、冷たく尖った硝子の破片で突き刺されるように痛む。
「さすが先代の名作だ。裏まで一点の曇りもない」
街の人々の無邪気な賛辞が、の修復士である私の心を容赦なく抉る。
偉大な師が遺したステンドグラスの裏面に、私は気づいてしまったのだ。
晩年の師が病いと焦りから犯してしまった、致命的な歪みと補強の手抜きに。
もし真実を告げれば、亡き師の名誉は失墜し、それを信じる人々の美しい記憶も砕け散る。
だから私は「傷つけないための沈黙」を選んだ。
自らの持てるすべての技を尽し、名を伏せたまま、完璧にその歪みを直す。
それは私の職人人生における最高峰の仕事となるだろう。
けれど、その手柄はすべて先代の幻へと捧げられ、私の名前はどこにも残らない。
「お前の仕事はどこにある」と、内なるプライドが激しく揺れ、叫びを上げる。
その激しい葛藤を誰にも分かち合えぬまま、私の呼吸は細かくひび割れていくようだった。
「愛しい人の面目と、世界の美しさを守るため、自らの名を消し去る誇り高き星よ」
静かな夜の底に、透明な鈴の音のような声が響いた。
銀髪の青年が、黄金色の光の粒子を足元に遊ばせながら、確実な足音と共に現れる。
彼の背後には、幾千の純白の羽根が、世界の哀しみの影を半分背負うように重なり合い、巨大な双翼が静かに脈動していた。
掲げられた角灯の中では、琥珀色の輝きを湛えた尊き誇りの灯し火が、外を灼くことなく、内側だけで静かに息を潜め、密やかに瞬いていた。
青年は、私が誰にも言えずに抱いてきた、血を流すような優しい嘘を、すべて見届けていたかのような温かい眼差しで私を見つめていた。
「貴方が選んだその沈黙は、臆病ゆえの逃ではありません。大切な想い出を守るための、最も高潔な職人の矜持なのですよ」
青年は適度な距離から、私の誇り高く張り詰めた輪郭を優しく解すように語りかける。
「名を残したいという本音と、師への敬愛の狭間で、貴方の魂は内側だけで激しく揺れてきました。声を上げじ、己の最高峰の技術を影に伏せることは、身を削るような痛みを伴うでしょう。けれど、硝子の裏面に刻まれた貴方の完璧な仕事の跡は、誰に知られずとも、この世界の美しさを確かに支えています。その誰をも傷つけないための美しい嘘こそが、夜の底に溜まった澱を照らす、最後の灯し火なのですよ」
「今だけは、その誰にも誇れなかった最高の仕事の誇りと、隠し続けた悔しさを、私の翼の中で解き放ってください」
青年が繭のように翼を広げると、赤ごの頬が触れ合うような圧倒的な熱と優しさが、私を包み込んだ。
それは自らの存在を全て肯定してくれるかのような、至上の祝福の光。
誰にも認められず、闇に葬るはずだった自らの極致の技を、この青年だけが完璧に理解し、称えてくれた。
その救いに、頑なに閉ざしていた沈黙が熱く融け出し、涙が眼から溢れて止まらなくなる。
「あ……っ、私の、私の仕事だ……っ! 誰に知られずとも……っ!」
溢れ出したのは、消え去る悔しさではなく、師の影を完璧に超えてみせた自らへの凄じいまでの誇り。
揺れを内側に隠し続けた魂は、青年の白い光に抱かれ、真の平穏を宿しながら、深い眠りの底へと沈降していった。
銀髪の青年が一度、その気高き沈黙を祝福するように羽ばたかせると、視界は純白の光に灼き尽くされた。
……。
遠くで響く、工房の古びた時計が朝を刻む規則正しい秒針の音が、現実の扉を静かに開け放つ。
目を開けると、そこは昨日と何ひとつ変わらない、色硝子の破片が散らばる薄暗い工房だった。
作業台の上には、修復の大詰を迎えた、先代の大窓が横たわっている。
現実は何ひとつ変わらない。
私の名前が歴史に記されるわけでもない。
けれど、私の瞳の奥には、もう焦りの色はなかった。
硝子に映る、静かな覚悟を湛えた自分の顔を見つめ、その奥に宿る琥珀色の微かな光を確認する。
誰の目にも触れぬ硝子の裏面に、私は一筋の完璧なハンダの線を走らせる。
それこそが、私と世界を繋ぐ、私だけの不滅の灯し火。
私は重いハンダゴテを確かな手つきで握り直し、静かに微笑む。
「……さあ、仕上げだ」
己の名を伏せる、気高き無銘の職人の心に、もう迷いはない。
師の彩りを裏から支える美しい嘘を誇らしく胸に抱き、私は朝の光が射し込む現実の硝子へと、静かに熱を灯していった。
第 26話(完)