遠くに、いくつかの灯し火が揺れていた。
それは暗い海を漂う小さな舟の篝火のように、寄せては返す夜の波に洗われ、今にも消え入りそうに心もとない。
手を伸ばせば届きそうな距離にありながら、一歩近づけば同じ分だけ遠ざかっていくその光は、求めても決して触れることのできない、忘却の彼たへと流れ去る記憶の残照のようだった。
肺の奥に溜まった冷ややかな澱が、呼吸を変えるたびに鋭く胸を突く。
「勝手にすればいい」という最後の怒声と、乱暴に閉め出した玄関の重い音が、十年以上経った今も鼓膜を震わせ続けている。
強がりを鎧のように纏い、一度も振り返らずに歩み続けてきた。
不義理なままの歳月を、誇りという名の呪いに塗り潰してきた。
けれど、届いた一通の訃報が、積み上げてきた虚飾を呆けなく崩し去る。
「帰りたくない」のではなく、「帰る場所がなくなった」という静かな絶望が、底のない沼のように足元を絡め取っていた。
謝りたかったのか、許されたかったのか、それとも愛していると告げたかったのか。
行き場を失った想いが、冷たくなった心臓の傍で凍てついていた。
「辿り着くべき岸を失い、暗い潮に身を任せているのですね」
凪いだ水面を撫でるような、透明な声が響いた。
銀髪の青年が、足元に黄金色の波紋を描きながら、音もなく現れる。
彼の背後には、幾千の純白の羽根が光の層を成して重なり合い、追憶の全てを包み込むような巨大な双翼が静かに脈動していた。
掲げられた角灯の中には、琥珀色の光の粒子が、穏やかな揺り籠のように渦を巻いている。
青年は私の嘆きを全て知っているかのような、痛むほどに優しい眼差しで私を見つめていた。
「帰るべき場所を失ったという悲しみは、決して空虚な喪失ではありません。それは、貴方の中に、それほどまでに尊い『守りたかった記憶』が息づいている証なのですよ」
青年は一歩、迷える私の心を掬い上げるように歩み寄る。
「素直になれなかった強がりも、遠ざけてしまった歳月も、その全ては自分という一つの灯を守り抜こうとした誠実な証です。物理的な家は消えても、貴方が抱き続けてきた『帰りたかった』という祈りそのものが、今は亡きあの人にとっての救いとなっているのです。戻れぬ静けさを受け入れようとするその痛みこそが、夜の底で貴方を導く最後の灯し火なのですよ」
「今だけは、独りきりで背負ってきた後悔を、私の翼の中で預けてください。魂を安める温もりを知るために」
青年が柔らかな光を纏って翼を広げると、最高級の絹が肌を滑でるような、至福の感触が私を包み込んだ。
それは幼い頃に見た、日溜まりの匂いのような、圧倒的な慈悲の色。
凍てついていた胸の中の氷が、その温もりに触れて一気に融け出し、熱い涙となって頬を伝い落ちる。
「あ……っ、ごめん……、ごめんなさい……っ!」
溢れ出したのは、謝りたかった幼い心と、十年間、誰よりも帰りたかった自分への許し。
戻れぬ岸辺を見つめ続けた孤独な魂は、青年の白い光に抱かれ、静かな安らぎを得て、深い眠りの底へと沈んでいく。
銀髪の青年が一度、全ての未練を祝福するように羽ばたかせると、視界は純白の光に満たされた。
……。
遠くで聞こえる雨音のリズムが、止まっていた現実の秒針を静かに動かし始める。
目を開けると、そこは昨日と何ひとつ変わらない、古びたアパートの一室だった。
机の上には、開封されたままの訃報と、荷造りもされない鞄が置かれている。
けれど、私の肺を浸していた冷たい澱は、今や静かな湖のような平穏へと変わっていた。
鏡に映る、泣き腫らした跡を残しながらも、どこか吹き切れたような自分の瞳を見つめる。
帰るべき家はもう形を失ったけれど、私の心の中に、誰にも侵されぬ黄金色の灯が灯っている。
それは「戻る」ための光ではなく、あの人の想いと共に「生きていく」ための、消えることのない道しるべ。
私は黒い上着に袖を通し、静かに扉へ手を掛ける。
「……やっと、会いに行けます」
胸の奥で静かに凪いだ琥珀色の灯し火が、もう迷うことのない路を優しく照らし出している。
戻れぬ岸辺の静けさを抱いたまま、私は雨上がりの冷たく澄んだ空気の中を、あの人が待つ静かな場所へと歩みを進めていった。
第 25話(完)