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灯し火の番人  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第25話】 追憶の岸辺で灯る凪


 遠(とお)くに、いくつかの灯(とも)し火(び)が揺(ゆ)れていた。


 それは暗(くら)い海(うみ)を漂(ただよ)う小(ちい)さな舟(ふね)の篝(かがり)火(び)のように、寄(よ)せては返(かえ)す夜(よる)の波(なみ)に洗(あら)われ、今(いま)にも消(き)え入(い)りそうに心(こころ)もとない。


 手(て)を伸(の)ばせば届(とど)きそうな距離(きょり)にありながら、一(いっ)歩(ぽ)近(ちか)づけば同(おな)じ分(ぶん)だけ遠(とお)ざかっていくその光(ひかり)は、求(もと)めても決(けっ)して触(ふ)れることのできない、忘(ぼう)却(きゃく)の彼(かな)たへと流(なが)れ去(さ)る記憶(きおく)の残(ざん)照(しょう)のようだった。


 肺(はい)の奥(おく)に溜(た)まった冷(ひ)ややかな澱(おり)が、呼吸(こきゅう)を変(か)えるたびに鋭(するど)く胸(むね)を突(つ)く。


「勝(かっ)手(て)にすればいい」という最後(さいご)の怒(ど)声(せい)と、乱(らん)暴(ぼう)に閉(し)め出(だ)した玄関(げんかん)の重(おも)い音(おと)が、十(じゅう)年(ねん)以(い)上(じょう)経(た)った今(いま)も鼓(こ)膜(まく)を震(ふる)わせ続(つづ)けている。


 強(つよ)がりを鎧(よろい)のように纏(まと)い、一度(いちど)も振(ふ)り返(かえ)らずに歩(あゆ)み続(つづ)けてきた。


 不(ふ)義(ぎ)理(り)なままの歳月(さいげつ)を、誇(ほこ)りという名(な)の呪(のろ)いに塗(ぬ)り潰(つぶ)してきた。


 けれど、届(とど)いた一(いっ)通(つう)の訃(ふ)報(ほう)が、積(つ)み上(げ)げてきた虚(きょ)飾(しょく)を呆(あっ)けなく崩(くず)し去(さ)る。


 「帰(かえ)りたくない」のではなく、「帰(かえ)る場所(ばしょ)がなくなった」という静(しず)かな絶望(ぜつぼう)が、底(そこ)のない沼(ぬま)のように足元(あしもと)を絡(から)め取(と)っていた。


 謝(あやま)りたかったのか、許(ゆる)されたかったのか、それとも愛(あい)していると告(つ)げたかったのか。


 行(い)き場(ば)を失(うしな)った想(おも)いが、冷(つめ)たくなった心臓(しんぞう)の傍(そば)で凍(い)てついていた。


「辿(たど)り着(つ)くべき岸(きし)を失(うしな)い、暗(くら)い潮(しお)に身(み)を任(まかせ)せているのですね」


 凪(な)いだ水面(みなも)を撫(な)でるような、透(とう)明(めい)な声(こえ)が響(ひび)いた。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が、足元(あしもと)に黄金色(こがねいろ)の波(は)紋(もん)を描(えが)きながら、音(おと)もなく現(あらわ)れる。


 彼(かれ)の背後(はいご)には、幾(いく)千(せん)の純白(じゅんぱく)の羽根(はね)が光(ひかり)の層(そう)を成(な)して重(かさ)なり合(あ)い、追(つい)憶(おく)の全(すべ)てを包(つつ)み込(こ)むような巨大(きょだい)な双(そう)翼(よく)が静(しず)かに脈動(みゃくどう)していた。


 掲(かか)げられた角灯(かくとう)の中(なか)には、琥珀(こはく)色(いろ)の光(ひかり)の粒子(りゅうし)が、穏(おだ)やかな揺(ゆ)り籠(かご)のように渦(うず)を巻(ま)いている。


 青年(せいねん)は私(わたし)の嘆(なげ)きを全(すべ)て知(し)っているかのような、痛(いた)むほどに優(やさ)しい眼差(まなざ)しで私(わたし)を見(み)つめていた。


「帰(かえ)るべき場所(ばしょ)を失(うしな)ったという悲(かな)しみは、決(けっ)して空(くう)虚(きょ)な喪(そう)失(しつ)ではありません。それは、貴方(あなた)の中(なか)に、それほどまでに尊(とうと)い『守(まも)りたかった記憶(きおく)』が息(いき)づいている証(あかし)なのですよ」


 青年(せいねん)は一(いっ)歩(ぽ)、迷(まよ)える私(わたし)の心(こころ)を掬(すく)い上(あ)げるように歩(あゆ)み寄(よ)る。


「素直(すなお)になれなかった強(つよ)がりも、遠(とお)ざけてしまった歳月(さいげつ)も、その全(すべ)ては自分(じぶん)という一(ひと)つの灯(ともしび)を守(まも)り抜(ぬ)こうとした誠実(せいじつ)な証(あかし)です。物理的(ぶつりてき)な家(いえ)は消(き)えても、貴方(あなた)が抱(いだ)き続(つづ)けてきた『帰(かえ)りたかった』という祈(いの)りそのものが、今(いま)は亡(な)きあの人(ひと)にとっての救(すく)いとなっているのです。戻(もど)れぬ静(しず)けさを受(う)け入(い)れようとするその痛(いた)みこそが、夜(よる)の底(そこ)で貴方(あなた)を導(みちび)く最後(さいご)の灯(とも)し火(び)なのですよ」


「今(いま)だけは、独(ひと)りきりで背負(せお)ってきた後悔(こうかい)を、私(わたし)の翼(つばさ)の中(なか)で預(あず)けてください。魂(たましい)を安(やす)める温(ぬく)もりを知(し)るために」


 青年(せいねん)が柔(やわ)らかな光(ひかり)を纏(まと)って翼(つばさ)を広(ひろ)げると、最高級(さいこうきゅう)の絹(きぬ)が肌(はだ)を滑(な)でるような、至(し)福(ふく)の感触(かんしょく)が私(わたし)を包(つつ)み込(こ)んだ。


 それは幼(おさな)い頃(ころ)に見(み)た、日(ひ)溜(だ)まりの匂(にお)いのような、圧倒的(あっとうてき)な慈悲(じひ)の色。


 凍(い)てついていた胸(むね)の中(なか)の氷(こおり)が、その温(ぬく)もりに触(ふ)れて一気(いっき)に融(と)け出(だ)し、熱(あつ)い涙(なみだ)となって頬(ほほ)を伝(つた)い落(お)ちる。


「あ……っ、ごめん……、ごめんなさい……っ!」


 溢(あふ)れ出(だ)したのは、謝(あやま)りたかった幼(おさな)い心(こころ)と、十(じゅう)年(ねん)間(かん)、誰(だれ)よりも帰(かえ)りたかった自分(じぶん)への許(ゆる)し。


 戻(もど)れぬ岸(きし)辺(べ)を見(み)つめ続(つづ)けた孤独(こどく)な魂(たましい)は、青年(せいねん)の白(しろ)い光(ひかり)に抱(いだ)かれ、静(しず)かな安(やす)らぎを得(え)て、深(ふか)い眠(ねむ)りの底(そこ)へと沈(しず)んでいく。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が一(いち)度(ど)、全(すべ)ての未練(みれん)を祝福(しゅくふく)するように羽(は)ばたかせると、視界(しかい)は純白(じゅんぱく)の光(ひかり)に満(み)たされた。



……。



 遠(とお)くで聞(き)こえる雨(あま)音(おと)のリズムが、止(と)まっていた現実(げんじつ)の秒(びょう)針(しん)を静(しず)かに動(うご)かし始(はじ)める。


 目(め)を開(あ)けると、そこは昨日(きのう)と何(なに)ひとつ変(か)わらない、古(ふる)びたアパートの一(いっ)室(しつ)だった。


 机(つくえ)の上(うえ)には、開封(かいふう)されたままの訃(ふ)報(ほう)と、荷(に)造(づく)りもされない鞄(かばん)が置(お)かれている。


 けれど、私(わたし)の肺(はい)を浸(ひた)していた冷(つめ)たい澱(おり)は、今(いま)や静(しず)かな湖(みずうみ)のような平(へい)穏(おん)へと変(か)わっていた。


 鏡(かがみ)に映(うつ)る、泣(な)き腫(は)らした跡(あと)を残(のこ)しながらも、どこか吹(ふ)き切(き)れたような自分(じぶん)の瞳(ひとみ)を見(み)つめる。


 帰(かえ)るべき家(いえ)はもう形(かたち)を失(うしな)ったけれど、私(わたし)の心(こころ)の中(なか)に、誰(だれ)にも侵(おか)されぬ黄金色(こがねいろ)の灯(ともしび)が灯(とも)っている。


 それは「戻(もど)る」ための光(ひかり)ではなく、あの人(ひと)の想(おも)いと共(とも)に「生(い)きていく」ための、消(き)えることのない道(みち)しるべ。


 私(わたし)は黒(くろ)い上(うわ)着(ぎ)に袖(そで)を通(とお)し、静(しず)かに扉(とびら)へ手(て)を掛(か)ける。


「……やっと、会(あ)いに行(い)けます」


 胸(むね)の奥(おく)で静(しず)かに凪(な)いだ琥(こ)珀(はく)色(いろ)の灯(とも)し火(び)が、もう迷(まよ)うことのない路(みち)を優(やさ)しく照(て)らし出(だ)している。


 戻(もど)れぬ岸辺(きしべ)の静(しず)けさを抱(いだ)いたまま、私(わたし)は雨(あめ)上(あ)がりの冷(つめ)たく澄(す)んだ空気(くうき)の中(なか)を、あの人(ひと)が待(ま)つ静(しず)かな場所(ばしょ)へと歩(あゆ)みを進(すす)めていった。


第(だい) 25話(わ)(完(かん))


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