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灯し火の番人  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第24話】 無銘の刃が熱を研ぐ夜


 遠(とお)くに、いくつかの灯(とも)し火(び)が揺(ゆ)れていた。


 それは深夜(しんや)の厨房(ちゅうぼう)で静(しず)かに息(いき)を潜(ひそ)める、青(あお)白(じろ)い種(しゅ)火(び)の列(れつ)に似(に)ていた。


 静止(せいし)を許(ゆる)されぬ運命(うんめい)を呪(のろ)いながら、それでも熱(ねつ)を失(うしな)うまいと明滅(めいめつ)を繰(く)り返(かえ)すその輝(かがや)きは、研(と)ぎ石(いし)に身(み)を削(けず)り、火(ひ)花(ばな)を散(ち)らして鋭(するど)さを求(もと)める鋼(はがね)の悲鳴(ひめい)のようだった。


 夜(よる)の静寂(せいじゃく)を置(お)き去(ざ)りにし、風(かぜ)に抗(あらが)うように一(いち)度(ど)だけ鋭(するど)く跳(は)ねるその光(ひかり)は、誰(だれ)にも気(き)づかれずとも自(みずか)らの温度(おんど)を守(まも)り抜(ぬ)こうと孤(こ)高(こう)に瞬(またた)いている。


 指(ゆび)先(さき)から消(き)えることのない洗(せん)剤(ざい)と油(あぶら)の匂(にお)いは、湯気(ゆげ)と熱気(ねつき)に巻(ま)かれながら一途(いちず)に歩(あゆ)んだ二(に)年(ねん)という月(つき)日(ひ)の、何(なに)物(もの)にも代(か)えがたい勲章(くんしょう)だ。


 けれど、どれほど誠実(せいじつ)に道具(どうぐ)を慈(いつく)しみ、素材(そざい)と対峙(たいじ)し続(つづ)けようとも、私(わたし)という固有(こゆう)の名(な)が呼(よ)ばれぬ静寂(せいじゃく)は、容赦(ようしゃ)なく心(こころ)の底(そこ)へと澱(よど)んでいく。


 三(さん)年(ねん)目(め)という見(み)えない境界(きょうかい)線(せん)を前(まえ)に、道(みち)を絶(た)たれる予感(よかん)と、何者(なにもの)でもない自分(じぶん)への歯(は)痒(がゆ)さが、冷(ひ)ややかな霧(きり)となって足元(あしもと)を浸(ひた)していた。


「止(と)まるな、研(と)ぎ澄(す)ませ。昨日(きのう)の自分(じぶん)を超(こ)えて行(ゆ)け」


 包(ほう)丁(ちょう)だこで厚(あつ)みを増(ま)した掌(てのひら)を握(にぎ)り締(し)め、届(とど)かぬ高(たか)みへの渇(かつ)望(ぼう)に胸(むね)を焦(こ)がす。


 自分(じぶん)を諦(あきら)めきれないその痛(いた)みが、安(やす)らかな眠(ねむ)りさえも研(と)ぎ澄(す)まされた修練(しゅうれん)の時(とき)へと変(か)え果(は)てさせていた。


「熱気(ねつき)の中(なか)で、なお自(みずか)らを研(と)ぎ澄(す)まそうとする気(け)高(だか)き刃(やいば)ですね」


 張(は)り詰(つ)めた沈黙(ちんもく)を和(やわ)らげるように、凛(りん)とした声(こえ)が響(ひび)いた。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が、黄金色(こがねいろ)の粒子(りゅうし)が舞(ま)う闇(やみ)の向(む)こうから、迷(まよ)いのない足取(あしど)りで踏(ふ)み出(だ)してくる。


 彼(かれ)の背後(はいご)には、幾(いく)千(せん)の純白(じゅんぱく)の羽根(はね)が幾(いく)重(え)にも折(お)り畳(たた)まれた鍛(きた)え地(じ)の鋼(はがね)のごとき密(みつ)度(ど)で重(かさ)なり合(あ)い、揺(ゆ)らぐことのない真(しん)髄(ずい)の重(おも)みを湛(たた)えた巨大(きょだい)な双(そう)翼(よく)が、静(しず)かな余(よ)熱(ねつ)のように脈動(みゃくどう)していた。


 掲(かか)げられた角灯(かくとう)の中(なか)では、超(ちょう)高(こう)温(おん)の星(ほし)のように輝(かがや)く光(ひかり)が、迷(まよ)いを射(い)抜(ぬ)くように渦(うず)を巻(ま)いている。


 彼(かれ)は、私(わたし)が放(はな)つ熱(ねつ)を全(ぜん)身(しん)に浴(あ)びながらも、揺(ゆ)らぐことのない透明(とうめい)な眼差(まなざ)しで私(わたし)を捉(とら)えていた。


「貴方(あなた)が抱(いだ)くその歯(は)痒(がゆ)さは、足踏(あしぶ)みへの嘆(なげ)きではありません。未来(みらい)という未知(みち)なる一(ひと)皿(さら)を描(えが)き出(だ)そうとする、鋭(するど)すぎる感性(かんせい)の疼(うず)きなのです」


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)は一(いっ)歩(ぽ)、私(わたし)の孤独(こどく)を肯定(こうてい)するように踏(ふ)み込(こ)み、穏(おだ)やかに語(かた)る。


「名(な)を呼(よ)ばれぬ静(しず)かな歳月(さいげつ)は、誰(だれ)にも侵(おか)されぬ自分(じぶん)だけの味(あじ)を醸(かも)し出(だ)すための熟成(じゅくせい)の刻(とき)。声(こえ)を上(あ)げずとも、その研(と)ぎ澄(す)まされた仕事(しごと)の跡(あと)が、何(なに)よりも雄弁(ゆうべん)に貴方(あなた)の輪郭(りんかく)を浮(う)き彫(ぼ)りにしています。昨日(きのう)までの研鑽(けんさん)を誇(ほこ)りとし、なお高(たか)みを望(のぞ)むその冷徹(れいてつ)なまでの情熱(じょうねつ)こそが、雑念(ざつねん)という暗闇(くらやみ)に呑(の)まれぬための最後(さいご)の灯(とも)し火(び)なのですよ」


「今(いま)だけは、その熱(あつ)く研(と)がれた想(おも)いを、私(わたし)の翼(つばさ)の中(なか)で休(やす)めてください。真(しん)の夜明(よあ)けを掴(つか)み取(と)る力(ちから)を蓄(たくわ)えるために」


 彼(かれ)が柔(やわ)らかな風(かぜ)を巻(ま)き起(お)こして翼(つばさ)を広(ひろ)げると、全(ぜん)光(こう)量(りょう)が収束(しゅうそく)したかのような純白(じゅんぱく)の壁(かべ)が、私(わたし)を真正面(ましょうめん)から受(う)け止(と)めた。


 それは焼(や)き立(た)てのみずみずしい温(ぬく)もりのような、生命(せいめい)の奔流(ほんりゅう)そのものによる圧倒的(あっとうてき)な包摂(ほうせつ)。


 強(つよ)く握(にぎ)り締(し)めていた拳(こぶし)の力(ちから)が、その白(しろ)い輝(かがい)に当(あ)てられて、呻(うめ)きを上(あ)げた。


「あ……、私(わたし)は……っ!」


 溢(あふ)れ出(だ)したのは、焦燥(しょうそう)の残滓(ざんし)ではなく、二(に)年(ねん)間(かん)、一(いち)度(ど)も火(ひ)を絶(た)やさず厨房(ちゅうぼう)に立(た)ち続(つづ)けてきた自分(じぶん)への、凄(すさま)じいまでの敬(けい)意(い)。


 無(む)銘(めい)のまま牙(きば)を研(と)ぎ続(つづ)けた魂(たましい)は、彼(かれ)の白(しろ)い光(ひかり)に貫(つらぬ)かれ、静(しず)かな決意(けつい)を宿(やど)したまま、深(ふか)い淵(ふち)へと沈降(ちんこう)していく。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が一度(いちど)高(たか)らかに翼(つばさ)を羽(は)ばたかせると、視界(しかい)は全(ぜん)身(しん)の細胞(さいぼう)が目覚(めざ)めるような眩(まばゆ)い白(しろ)に灼(や)き尽(つ)くされた。


 

……。



 遠(とお)くで鳴(な)り響(ひび)く調理(ちょうり)タイマーの鋭(するど)い音(おと)が、仮容(かよう)のない現実(げんじつ)の幕開(まくあ)けを告(つ)げ始(はじ)める。


 目(め)を開(あ)けると、そこは昨日(きのう)と何(なに)ひとつ変(か)わらない、熱気(ねつき)と活気(かっき)に満(み)ちた厨房(ちゅうぼう)だった。


 山(やま)のような仕込(しこ)み、鋭(するど)い指示(しじ)、刻(とき)一刻(いっこく)と迫(せま)る開店(かいてん)時間(じかん)。


 けれど、私(わたし)の心臓(しんぞう)を焼(や)いていた無益(むえき)な苛立(いらだ)ちは、今(いま)や素材(そざい)を活(い)かすための冷徹(れいてつ)な意志(いし)へと鍛(きた)え直(なお)されていた。


 無心(むしん)に包(ほう)丁(ちょう)を動(うご)かす私(わたし)の背中(せなか)に、不意(ふい)に低(ひく)く、重(おも)みのある声(こえ)が掛(か)かる。


「長谷川(はせがわ)。今日(きょう)の仕(し)込(こ)み、筋(すじ)が良(よ)い。……次(つぎ)、デシャップやってみるか」


「えっ、盛(も)り付(つ)けですか」


 心臓(しんぞう)が、激(はげ)しく高(たか)なる。


 それは誰(だれ)にも見(み)られぬ夜(よる)を超(こ)えて、私(わたし)という存在(そんざい)が確(たし)かに世界(せかい)に刻(きざ)まれた瞬間(しゅんかん)。


 胸(むね)の奥(おく)に、宵闇(よいやみ)を踏(ふ)み越(こ)えて掴(つか)み取(と)った琥珀(こはく)色(いろ)の一(ひと)欠(かけ)らが、熾(おき)火(び)のように鋭(するど)い熱(ねつ)を放(はな)っている。


 それは自分(じぶん)を「急(せ)かす」のではなく、運命(うんめい)を「制(せい)する」ための、私(わたし)だけの不滅(ふめつ)の灯(とも)し火(び)だった。


 磨(みが)かれたステンレスに映(うつ)る、確(たし)かな光(ひかり)を宿(やど)した料(りょう)理(り)人(にん)の貌(かお)を誇(ほこ)らしく見(み)つめた。


「……はい。お願(ねが)いします」


 私(わたし)は迷(まよ)いなく一(いっ)歩(ぽ)踏(ふ)み出(だ)した。


 名(な)前(まえ)を呼(よ)ばれた、一(ひと)人(り)の料(りょう)理(り)人(にん)として。



第(だい) 24話(わ)(完(かん))




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