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灯し火の番人  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第21話】 沈黙という砦に残された微光


 遠(とお)くに、いくつかの灯(とも)し火(び)が揺(ゆ)れていた。


 それは今(いま)にも濃密(のうみつ)な闇(やみ)に吸(す)い込(こ)まれそうな、極(ごく)薄(うす)い琥珀(こはく)色(いろ)の瞬(まばた)きだった。


 絶(た)え間(ま)なく吹(ふ)き付(つ)ける夜(よる)の静寂(せいじゃく)に晒(さら)され、形(かたち)を失(うしな)いかけながらも、その光(ひかり)は最後(さいご)の一点(いってん)で粘(ねば)り強(づよ)く地(ち)に踏(ふ)み止(とど)まっている。


 消(き)えそうで、けれど決(けっ)して絶(た)えることのない不器用(ぶきよう)な明滅(めいめつ)は、震(ふる)える指先(ゆびさき)で命(いのち)の端(はし)を握(にぎ)り締(し)めているかのようだった。


 本当(ほんとう)は、幾度(いくど)も口(くち)に出(だ)そうとしたのだ。


 「消(き)えてしまいたい」という、肺(はい)の底(そこ)に澱(よど)んだ熱(ねつ)を。


 けれど、喉(のど)まで競(せ)り上(あ)がった言葉(ことば)は、外界(がいかい)に触(ふ)れる直前(ちょくぜん)で凍(い)てつき、鋭(するど)い氷(こおり)の破片(はへん)となって私(わたし)の内壁(ないへき)を傷(きず)つけるだけに終(お)わる。


 「助(たす)けて」という叫(さけ)びを紡(つむ)ぐよりも先(さき)に、心(こころ)が深(ふか)い沈黙(ちんもく)を選(えら)んでしまう。


 弱(よわ)さを晒(さら)せば、辛(かろ)うじて繋(つな)ぎ止(と)めている日常(にちじょう)が音(おと)を立(た)てて瓦解(がかい)してしまうのではないか。


 過剰(かじょう)な自制(じせい)という名(な)の鎖(くさり)を身(み)に巻(ま)き、私(わたし)は自分(じぶん)を消(け)し去(さ)る儀式(ぎしき)を整(ととの)える。


 孤独(こどく)という名(な)の深(ふか)い水底(みなそこ)に沈(しず)み、呼吸(こきゅう)の仕方(しかた)を忘(わす)れていくことだけが、唯一(ゆいいつ)の救(すく)いのように思(おも)えた。


「誰(だれ)の耳(みみ)にも届(とど)かぬ慟哭(どうこく)を、深(ふか)い沈黙(ちんもく)の底(そこ)に秘(ひ)めておられるのですね」


 音(おと)もなく、銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が傍(かたわ)らに立(た)っていた。


 彼(かれ)の背後(はいご)では、幾(いく)千(せん)の純白(じゅんぱく)の羽根(はね)が豊潤(ほうじゅん)な層(そう)を成(な)して重(かさ)なり合(あ)い、圧倒的(あっとうてき)な慈悲(じひ)の質量(しつりょう)を湛(たた)えた巨大(きょだい)な双(そう)翼(よく)が、影(かげ)を優(やさ)しく払(はら)うようにして静止(せいし)している。


 手(て)に持(も)った角灯(かくとう)の中(なか)で、黄金色(こがねいろ)の光(ひかり)の粒子(りゅうし)が静(しず)かに回遊(かいゆう)していた。


 彼(かれ)は、私(わたし)が恐(おそ)れる「過度(かど)な干渉(かんしょう)」を決(けっ)して選(えら)ばない。


 ただ、凪(な)いだ海面(かいめん)を照(て)らす月(つき)のように静(しず)かな距離(きょり)を保(たも)ち、透明(とうめい)で温(あたた)かい眼差(まなざ)しを向(む)けている。


「消(き)えたいと願(ねが)うのは、貴方(あなた)がそれほどまでに、自分(じぶん)という存在(そんざい)を純粋(じゅんすい)に護(まも)ろうとしている証(あかし)なのですよ」


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)は消(き)えかけの灯(とも)し火(び)を指(さ)し、低(ひく)い声(こえ)で告(つ)げる。


「言葉(ことば)を失(うしな)うほどの沈黙(ちんもく)は、貴方(あなた)の心(こころ)が最後(さいご)の防壁(ぼうへき)を築(きず)き、侵(おか)されたくない尊厳(そんげん)を隠(かく)し通(とお)そうとした結果(けっか)なのです。助(たす)けを呼(よ)べなかったのは、誰(だれ)の手(て)も煩(わずら)わせたくないという、痛(いた)ましいほどに清(きよ)らかな、密(ひそ)やかな証(あかし)。消(き)えかけながらも灯(とも)り続(つづ)けるその光(ひかり)は、絶望(ぜつぼう)の果(は)てではなく、生(い)きようとする魂(たましい)の最後(さいご)の拠点(きょてん)なのですよ」


 私(わたし)の脳裏(のうり)に、凍(い)てついたある一日(いちにち)の光景(こうけい)が過(よ)ぎる。


 何十人(なんじゅうにん)もの人(ひと)に囲(かこ)まれながら、自分(じぶん)という個(こ)が決定的(けっていてき)な断絶(だんぜつ)の中(なか)に独(ひと)り在(あ)るのだと、骨(ほね)の髄(ずい)まで冷(ひ)え切(き)る認識(にんしき)に沈(しず)む正午(しょうご)。


 他者(たしゃ)との境界(きょうかい)は峻烈(しゅんれつ)な氷(こおり)の壁(かべ)となり、誰(だれ)の体温(たいおん)も届(とど)かない絶海(ぜっかい)の孤島(ことう)に独(ひと)り棄(す)て置(お)かれていることを再(さい)確認(かくにん)する。


 その耐(た)えがたい静(しず)かな寒(さむ)さこそが、私(わたし)の日常(にちじょう)そのものだった。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が大(おお)きく翼(つばさ)を広(ひろ)げると、世界(せかい)の全(まった)き安寧(あんねい)が私(わたし)を包(つつ)み込(こ)んだ。


 それまで知(し)っていた何(なに)よりも深(ふか)く、静(しず)かな暗(くら)がり。


 幾(いく)万(まん)の羽根(はね)が空気(くうき)を孕(はら)み、凍(こご)えきった心(こころ)を深(ふか)い淵(ふち)から掬(すく)い上(あ)げるような、根源的(こんげんてき)な慈(いつく)しみの熱(ねつ)。


「あ……、あ……っ」


 長(なが)い間(あいだ)、渇(かわ)いた喉(のど)に刺(さ)さっていた沈黙(ちんもく)という棘(とげ)が、彼(かれ)が纏(まと)う柔(やわ)らかな生命(せいめい)の灯(とも)し火(び)に中(あ)てられて、微(かす)かな音(おと)を立(た)てて砕(くだ)け散(ち)った。


 堰(せき)を切(き)ったように溢(あふ)れ出(だ)したのは、誰(だれ)のためでもない、私(わたし)自身(じしん)を悼(いた)むための真実(しんじつ)の涙(なみだ)。


 寒(さむ)さに震(ふる)えていた魂(たましい)は、彼(かれ)の白(しろ)い輝(かがや)きに洗(あら)われ、静(しず)かな安堵(あんど)の中(なか)へと融(と)け入(い)っていく。


「消(き)えたくない」


 本当(ほんとう)は、ただ一(ひと)言(こと)、誰(だれ)かに「其処(そこ)にいていい」と許(ゆる)されたかったのだ。


 彼(かれ)の慈悲(じひ)の色(いろ)に抱(いだ)かれ、私(わたし)は子供(こども)のように声(こえ)を上(あ)げて泣(な)いた。


 銀(ぎん)髪(ぱつ)の青年(せいねん)が力強(ちからづよ)く一(ひと)度(たび)翼(つばさ)を羽(は)ばたかせると、視界(しかい)が眩(まばゆ)い白(しろ)に染(そ)まった。 



……。



 心地(ここち)よい微睡(まどろ)みを揺(ゆ)り動(うご)かすように、遠(とお)くで冬(ふゆ)の暖房(だんぼう)が唸(うな)る音(おと)が聞(き)こえ始(はじ)める。


 冷(つめ)たく、けれど確実(かくじつ)な現実(げんじつ)の手触(てざわ)りが、私(わたし)の意識(いしき)を引(ひ)き戻(もど)していった。


 目(め)を開(あ)けると、そこは昨日(きのう)と同じ、色(いろ)の薄(うす)い朝(あさ)だった。


 山(やま)積(づ)みの責務(せきむ)、感情(かんじょう)を殺(ころ)す対話(たいわ)、窒息(ちっそく)しそうな社会(しゃかい)の檻(おり)。


 解決(かいけつ)したことなど何(なに)ひとつない。


 けれど、私(わたし)は毛布(もうふ)の中(なか)で、凍(い)てついていた指先(ゆびさき)に確(たし)かな鼓動(こどう)を感(かん)じていた。


 胸(むね)の奥(おく)に、宵闇(よいやみ)で研(と)ぎ澄(す)まされた小(ちい)さな一(ひと)欠(かけ)らの光(ひかり)が、琥珀(こはく)色(いろ)の熱(ねつ)を宿(やど)している。


 それは「孤独(こどく)」という絶海(ぜっかい)を耐(た)え抜(ぬ)いた、私(わたし)自身の尊厳(そんげん)という名(な)の灯(とも)し火(び)だった。


 私(わたし)はゆっくりと身(み)を起(お)こし、皺(しわ)の寄(よ)ったシャツの袖(そで)を丁寧(ていねい)に整(ととの)える。


「……まだ、消(き)えていない」


 誰(だれ)にも届(とど)かなかった沈黙(ちんもく)の日々(ひび)を、今日(きょう)からは自分(じぶん)を愛(いとお)しむための静寂(せいじゃく)へと変(か)えていく。


 私(わたし)は確(たし)かな足取(あしど)りで、眩(まぶ)しすぎる光(ひかり)が満(み)ちる現実(げんじつ)の中(なか)へと私(わたし)という影(かげ)を鮮(あざ)やかに刻(きざ)んでいった。



第(だい) 21話(わ)(完(かん))


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