遠くに、いくつかの灯し火が揺れていた。
それは今にも濃密な闇に吸い込まれそうな、極薄い琥珀色の瞬きだった。
絶え間なく吹き付ける夜の静寂に晒され、形を失いかけながらも、その光は最後の一点で粘り強く地に踏み止まっている。
消えそうで、けれど決して絶えることのない不器用な明滅は、震える指先で命の端を握り締めているかのようだった。
本当は、幾度も口に出そうとしたのだ。
「消えてしまいたい」という、肺の底に澱んだ熱を。
けれど、喉まで競り上がった言葉は、外界に触れる直前で凍てつき、鋭い氷の破片となって私の内壁を傷つけるだけに終わる。
「助けて」という叫びを紡ぐよりも先に、心が深い沈黙を選んでしまう。
弱さを晒せば、辛うじて繋ぎ止めている日常が音を立てて瓦解してしまうのではないか。
過剰な自制という名の鎖を身に巻き、私は自分を消し去る儀式を整える。
孤独という名の深い水底に沈み、呼吸の仕方を忘れていくことだけが、唯一の救いのように思えた。
「誰の耳にも届かぬ慟哭を、深い沈黙の底に秘めておられるのですね」
音もなく、銀髪の青年が傍らに立っていた。
彼の背後では、幾千の純白の羽根が豊潤な層を成して重なり合い、圧倒的な慈悲の質量を湛えた巨大な双翼が、影を優しく払うようにして静止している。
手に持った角灯の中で、黄金色の光の粒子が静かに回遊していた。
彼は、私が恐れる「過度な干渉」を決して選ばない。
ただ、凪いだ海面を照らす月のように静かな距離を保ち、透明で温かい眼差しを向けている。
「消えたいと願うのは、貴方がそれほどまでに、自分という存在を純粋に護ろうとしている証なのですよ」
銀髪の青年は消えかけの灯し火を指し、低い声で告げる。
「言葉を失うほどの沈黙は、貴方の心が最後の防壁を築き、侵されたくない尊厳を隠し通そうとした結果なのです。助けを呼べなかったのは、誰の手も煩わせたくないという、痛ましいほどに清らかな、密やかな証。消えかけながらも灯り続けるその光は、絶望の果てではなく、生きようとする魂の最後の拠点なのですよ」
私の脳裏に、凍てついたある一日の光景が過ぎる。
何十人もの人に囲まれながら、自分という個が決定的な断絶の中に独り在るのだと、骨の髄まで冷え切る認識に沈む正午。
他者との境界は峻烈な氷の壁となり、誰の体温も届かない絶海の孤島に独り棄て置かれていることを再確認する。
その耐えがたい静かな寒さこそが、私の日常そのものだった。
銀髪の青年が大きく翼を広げると、世界の全き安寧が私を包み込んだ。
それまで知っていた何よりも深く、静かな暗がり。
幾万の羽根が空気を孕み、凍えきった心を深い淵から掬い上げるような、根源的な慈しみの熱。
「あ……、あ……っ」
長い間、渇いた喉に刺さっていた沈黙という棘が、彼が纏う柔らかな生命の灯し火に中てられて、微かな音を立てて砕け散った。
堰を切ったように溢れ出したのは、誰のためでもない、私自身を悼むための真実の涙。
寒さに震えていた魂は、彼の白い輝きに洗われ、静かな安堵の中へと融け入っていく。
「消えたくない」
本当は、ただ一言、誰かに「其処にいていい」と許されたかったのだ。
彼の慈悲の色に抱かれ、私は子供のように声を上げて泣いた。
銀髪の青年が力強く一度翼を羽ばたかせると、視界が眩い白に染まった。
……。
心地よい微睡みを揺り動かすように、遠くで冬の暖房が唸る音が聞こえ始める。
冷たく、けれど確実な現実の手触りが、私の意識を引き戻していった。
目を開けると、そこは昨日と同じ、色の薄い朝だった。
山積みの責務、感情を殺す対話、窒息しそうな社会の檻。
解決したことなど何ひとつない。
けれど、私は毛布の中で、凍てついていた指先に確かな鼓動を感じていた。
胸の奥に、宵闇で研ぎ澄まされた小さな一欠らの光が、琥珀色の熱を宿している。
それは「孤独」という絶海を耐え抜いた、私自身の尊厳という名の灯し火だった。
私はゆっくりと身を起こし、皺の寄ったシャツの袖を丁寧に整える。
「……まだ、消えていない」
誰にも届かなかった沈黙の日々を、今日からは自分を愛しむための静寂へと変えていく。
私は確かな足取りで、眩しすぎる光が満ちる現実の中へと私という影を鮮やかに刻んでいった。
第 21話(完)