遠くに、いくつかの灯し火が揺れていた。
それは昼と夜の境界が溶け合う、昏い紫紺の空に浮かぶ、淡い琥珀色の灯し火だった。
光は何かを堪えるように細かく震え、周囲の濃密な影に浸されていく。
風もないのに静かに明滅するその様は、まるで誰にも許されなかった言葉が、ようやく許しを得て漏れ出したかのようだった。
私の仕事は、他者が放り出す無遠慮な感情を受け止め、波み立たぬよう整える調整役だ。
受話器の向こう側や、会議室の空気を通して、理不尽な不満が礫となって私を打つ。
「申し訳ございません」
心にもない定型句を盾にするたびに、私の内面は削り取られ、自分という存在の芯が摩耗していくのがわかった。
白日の下では、私は個を持たない装置でなければならない。
けれど、独り宵闇に沈むとき、濾過しきれずに沈殿した毒が、熱を持って暴れ出す。
「私だって傷ついている」
「なぜ、私だけが耐えなければならないのか」
暗闇でしか、この醜い悲鳴を上げることは許されない。
静かな夜の底に溜まった澱みこそが、今の私を形作る唯一の真実だった。
「宵闇の帳が、ようやく貴方を見つけ出したようですね」
密やかなさざめきと共に、彼は影の中から滲み出るように現れた。
銀髪の一房一房が月光を含んだように淡く輝き、背後の白い巨大な翼は、夜の静寂を形にしたかのように厳そかに畳まれている。
彼の掲げる角灯の光は、射すような鋭さを持たず、ただ静かに私の足元を照らしている。
「夜の旅人さん。ここでは、飾り言葉も職業という名の鎧も、何ひとつ必要ありませんよ」
銀髪の彼は角灯の芯を静かに見つめ、透き通る声で語りかける。
「他者の暗い衝動を無害な祈りに変えようとする貴方の日々は、決して無為ではありません。内面を削りながらも微笑みを絶やさないのは、それが誰かの夜を守るための、静かな献身だからです。宵闇の中でしか本当の息ができないのは、それほどまでに貴方の魂が、純粋な光を求めて戦い抜いているという証なのですよ」
「今だけは、その器を空にして、心を委ねてください」
私の脳裏に、凍てついた一日の記憶が蘇る。
何時間もの間、受話器の向こうから浴びせかけられた、人格さえも否定する罵声の嵐。
「貴方は感情のない機械でしょう」
「私の憂さ晴らしの道具になれて光栄だろう」
指先が震え、視界が熱い膜に覆われそうになっても、私の声は完璧に穏やかで、完璧に冷たかった。
終業の合図と共に独り座り込んだ暗い室内で、私は自分の名前を呼ぼうとして、その音節を忘れていることに愕然とした。
世界に平穏を返すために、私は自分という人間を切り刻んで、差し出し続けてきたのだ。
誰にも愛されず、誰にも顧みられない犠牲の果てに、私は透明な虚無へと成り果てていた。
彼が翼を広げると、世界の全き静寂が私を包み込んだ。
最高級の絹のように滑らかで、陽だまりのような圧倒的な熱。
一枚一枚の羽根が慈悲の色を湛えて、石のように固まった私の心を解いていく。
「あ……、ああ……っ」
長い間、喉に刺さっていた言葉にならない棘が、彼の温もりに触れて静かに融け出した。
自分さえも見放した惨めな孤独を、彼の翼だけが正しく抱き留めてくれる。
宵闇にのみ許された真実の涙が溢れ、不純な澱みは、静かな光の水へと還っていく。
しばらくして銀髪の彼が再び大きく翼を羽ばたかせると、視界が眩しい純白に染まった。
……。
追憶の吹き溜まりのような微睡みを、遠くで響く踏切の音が引き裂く。
淀んだ空気が一掃され、冷たく鋭い現実の光が頬を刺した。
駅のホームに滑り込んできた電車の風が、私の頬を冷たく撫でる。
周囲は無機質な足音と、誰もが自分を守るために纏った沈黙に満ちていた。
今日もまた、何ひとつ解決しない喧騒の坩堝へと身を投じる時間が来る。
電車の窓硝子に映る無数の顔の中に、私という一つの影が混ざり込む。
けれど、その瞳の奥に一欠ら、宵闇で磨き上げられた琥珀色の静寂が沈んでいるのがわかった。
私は鞄の紐を握り直し、流れる群衆の中へと一歩を踏み出す。
宵闇にのみ許された真実を、誰にも侵されない護り石のように胸に秘めて
私は再び、逃げ場のない日常の中へと静かに消えていった。
第 20話(完)