遠くに、いくつかの灯し火が揺れていた。
浅い泥濘の底に沈んだ燃え殻を掬い上げたような、力を失った光。
それは燃焼する熱さえも忘れ、ただ湿った静寂の中で弱く明滅している。
吹けば消えるほど浅いその瞬きは、叫ぶことさえ諦めて摩耗し切った、私の魂の残照だった。
三十代、人生の盛りであるはずの季節は、いつの間にか色のない砂漠へと変わっていた。
深夜のオフィスに響く無機質な打鍵音、謝罪と謙遜を繰り返すだけの機械的なメールの羅列。
誰かの期待に応え、組織の綻びを埋める消耗品として振る舞う毎日。
上司の不機嫌を宥め、部下の前では頼もしい先輩を演じるたびに、私の内側には冷たい空洞が広がっていった。
午前二時、コンビニの弁当を独りで掻き込む食卓には、温もりなど微塵もない。
鏡を覗けば、瞳の奥だけが腐り落ちたような男が、口角だけを器用に吊り上げて笑っている。
笑えば笑うほど、本当の自分が何を望んでいたのかさえ思い出せなくなる。
肺の奥に溜まった泥のような疲弊が、叫びたい衝動さえも重く押し潰し、ただ息を吸うことさえ苦痛に感じていた。
出口のない暗闇に膝を突き、乾いた嗚咽さえ出なかったその瞬間、背後から氷解のような静謐さが忍び寄った。
「……夜の旅人さん。貴方が背負っているのは、世界という名のあまりに冷酷な重圧ですね」
振り返えると、そこには銀髪に七色の光を宿した青年が、悲しみを湛えた眼差しで佇んでいた。
彼の携えた角灯が放つ淡い光が、背に畳まれた白銀の巨大な翼をおぼろげに浮かび上がらせている。
銀髪の青年は決して踏み込みすぎない距離で、凍り付いた私の心を解かすような、透き通った声を響かせた。
「貴方が浮かべるその空虚な笑顔は、誰にも弱さを見せられなかった孤独な戦いの名残です。責任や義務という鎖に繋がれ、自分を殺してまで歩き続けてきた、その不器用なまでの誠実さを、どうか誇りとして抱いてください」
青年の言葉は、心の裂け目に染み込む熱を持っていた。
「空っぽになっても、火が消えても、貴方が今ここに在るというだけで、それは奇跡なのです。今は、ただの一人の人間として、私の中で眠りなさい」
青年が静かに翼を広げ、私を深い慈愛で包み込んだ。
最高級の絹が肌を撫でるような感触と、冬の日だまりのような圧倒的な熱量。
その純粋な温もりに触れた瞬間、私を縛っていた「大人」という名の呪縛が粉々に砕け、喉の奥から堰を切ったような慟哭が溢れ出した。
三十を過ぎた男が、他者の前で声を震わせ、肩を揺らして泣きじゃくる。
翼の中の熱は、その無様な姿をすべて許容し、凍てついていた心臓を強引に溶かしていく。
流れる涙は頬を伝い、肺の奥に溜まり続けた暗い汚濁を洗い流していった。
やがて、世界を塗り潰すような白い羽ばたきが起きる。
視界が眩暈を起こすほど白濁し、現実という名の騒音が鼓膜を叩き始めた。
……。
目を開けると、無機質な蛍光灯の下、数時間前と変わらない絶望が横たわっていた。
鳴り止まない通知、積み上げられた書類、代わり映えのない苦役のような日々。
けれど、電源の落ちた漆黒の画面に映り込む自分の貌を見つめれば、赤く腫れた目蓋の奥に、あの銀髪の青年が灯してくれた微かな火が、静かに脈動しているのが分かった。
私は指先で、強張っていた頬をそっと緩めてみる。
それは誰のためでもない、私自身の痛みを慈しむための、本物の表情だった。
「……始めよう」
その一言は、震えながらも確かな質量を持って、白々と明け初める室内の空気を震わせた。
私は胸に宿った余熱を消さぬよう抱き締め、窓から射し込む仮借のない朝の光を受け止めながら、再び喧騒の渦中――液晶の奥へと、静かに魂を沈めた。
あの夜、白銀の一本の羽根が胸に宿した温かな灯し火が、世界の端々に静かな息吹となって染み渡り、今日という無彩色な刻を、静かな覚悟と共に深く刻み続けていく。
第 19話(完)