【第2話】不動の火が嵐を呑み干す
遠くに、いくつかの灯し火が見えた。
どれも揺れることなく、一定のままそこに在った。
冷たい闇の中、私は荒い呼吸を繰り返していた。
肺が焼けるように熱い。
心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、視界が怒りと絶望で赤く染まっていた。
「ふざけるな……、ふざけるなよ!」
私は虚空に向かって叫んだ。
何もかもが理不尽だった。
懸命に積み上げてきた信頼も、夜を徹っして仕上げた仕事も、誰かの一言で無に帰した。
私を嘲笑した者たちの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
なぜ、私だけが。
まっとうに生きようとする者が、これほどまでに踏みにじられなければならないのか。
私は足元の靄を力任せに蹴った。
しかし、この静寂に満ちた場所は、私の怒りを全て吸い込み、何ひとつ響かない。
揺らぎのない、まっすぐな光。
遠くに点在する灯し火は、私の荒れ狂う心を嘲笑うかのように、微動だにせずそこに存在していた。
その静けさが、余計に私の神経を逆なでした。
「おい! 誰かいるんだろ! 出てこいよ!」
叫び声が霧に溶けていく。
その時、視界の端に動くものがあった。
「内側の嵐に、自分自身を奪われてはいけませんよ」
耳元で囁くような、けれど深い湖の底まで届くような声だった。
私は弾かれたように振り返った。
そこには、銀色の髪を静かに靡かせた、人ならざる気配を纏う青年が立っていた。
彼の瞳は、燃え盛る私の怒りを静かに映し出している。
「僕からみたきみが、あまりに熱い火を抱えて震えていたので、会いに来ました」
「……放っておいてくれ。今の私は、自分でも制御できないんだ。この怒りで、きみを傷つけてしまうかもしれない」
私は拳を固く握り締めた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。
けれど、その痛みさえも、胸の中の炎を消すには足りなかった。
「いいですよ、傷つけても。けれど、きみが本当に傷つけたいのは、僕でも、自分でもないはずです」
彼は、私の荒い呼吸に合わせるように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その足音は、騒つく私の意識を凪がせていく。
「あの火を見てください。あれが、きみの今の『外側』です」
彼が指さした灯し火は、凍てついたように静止し、ただ冷たく、そこにある。
「なぜ、あのアカリは揺れないの……?」
「きみの怒りが、あまりに強すぎて、周囲の時間を止めてしまったからです。激しい感情は、ときに世界を拒絶し、自分だけの檻を作ります。その檻の中では、誰の声も届かず、誰の助けも受け入れられないのです」
「……そうだ。誰も助けてくれなかった。私がこれほど苦しんでいるのに、世界は平然と回っている。それが許せないんだ。壊してしまいたいんだよ」
私の瞳から、熱い雫が溢れた。
それは悲しみではなく、煮え滾る怒りの残滓だった。
彼は静かに手を伸ばし、私の拳を包み込んだ。
驚くほど冷たく、けれど芯まで染み通るような慈しみに満ちた感触だった。
「きみの怒りは、正しいです。不当な扱いに怒りを感じるのは、きみの魂が、まだ死んでいない証拠です。自分を守ろうとする、気高い炎なのですよ」
「気高い……? こんな、醜い感情が?」
「はい。怒りは、生きるための強力な燃料です。ただ、その使い方を間違うと、守りたかったはずの自分まで焼き尽してしまいます。今夜は、その熱さを、僕に少しだけ預けてくれませんか」
彼が眼を閉じ、静かに祈りを捧げるような仕草をすると、私の胸の奥で暴れていた灼熱が、濁流から緩やかな川へと変わっていくのを感じた。
不思議だった。
怒りが消えたわけではない。
けれど、その熱さが心地よい温もりへと変換され、私を内側から支えてくれるような感覚へと変化したのだった。
「……楽になった。でも、あのアカリは揺れないままだ」
「それでいいのです。揺れない灯し火は、きみの揺らがない意志の象徴です。誰に何を言われても、きみという存在は侵されない。その強さを、今夜はここで確かめてください」
私は深く息を吐き出した。
先ほどまで世界を呪っていた自分が、遠い昔のことのように思えた。
「きみは、いつもこうして誰かの夜を守っているの?」
「守っている、というのはおこがましいですね。僕はただ、きみたちが本来持っている光を、曇らせないように磨く手伝いをしているだけです」
彼は微笑んだ。
その笑顔は、朝日のような力強さではなく、静かに闇を照らす月のような柔かな優しさだ。
「夜が明けますよ、旅人さん」
「……また、あの嫌な日常に戻らなきゃいけないのか」
「いいえ。戻るのではなく、進むのです。昨日までのきみとは違う、自分を守る術を知ったきみとして」
彼が白い翼をひと振りすると、世界は眩い白光に包まれた。
……。
パチリと、目が開いた。
天井の木目が、朝の光に照らされている。
身体には、まだ昨日の疲労が残っている。
スマートフォンを開けば、また嫌な通知が来ているかもしれない。
玄関を出れば、私を不当に扱う者たちが待っているんだろう。
けれど。
「……負けることはない」
私は、自分の胸の中心にある、あの熱い灯し火を感じることができたのだから。
以前のような暴発しそうな火ではなく、静かに、けれど力強く燃え続ける不動の火。
洗面所へ行き、鏡に映る自分を見つめた。
昨日と同じ顔。同じ部屋。同じ服。
でも、瞳の奥にある光だけは、確実に昨日とは違っている。
「よし」
私は短く気合を入れ、ネクタイを締める。
日常は何一つ変わらない。
世界は残酷なほど静かに回っている。
けれど、私の中にはもう、自分という城を守るための明かりが灯っていることを知ったのだ。
ドアを開け、冷たい朝の空気を吸い込む。
踏み出す一歩は、昨日よりもほんの少しだけ、重みが増していた。
戦う準備は、もうできているのだ。
私だけの、揺らがない光とともに。
第 2話(完)




