【第1話】揺れる灯し火、暗闇の境界にて
遠くに、いくつかの灯し火があった。
それぞれが離れた場所で、微かに揺れている。
そこは、夜の底に溜まった澱のような、静かすぎる世界だった。
冷たい空気が、肌を優しく、けれど執拗に撫でていく。
私は、自分が何処にいるのかさえ、もう正確には理解できていなかった。
さっきまで、自分の部屋で蹲っていたはずだった。
時計の秒針が刻む音さえ、心臓を直接叩く槌のように響き、息をすることさえ難しくなっていた。
明日がくるのが怖い。
今日をやり過ごしたあとの、何も解決していない朝日をむかえることが、何よりも恐ろしかった。
「ここ、どこなの……?」
絞り出した声は、霧の向こうに消えていった。
返事はない。
あるのは、足元を漂う不透明な靄と、果てしなく広がる群青色の空だけだ。
震える肩を自分の腕で抱き締める。
指先は氷のように冷たく、自分の体温さえ感じられない。
孤独だった。
この世界に、ただ 1人。
誰も味方がいないような、そんな感覚が心を侵食していく。
その時、背後の暗闇が、わずかに揺れた。
ザッ、ザッ。
重力を感じさせない、けれど確実な重みを持った足音。
恐怖で跳ね上がりそうになる心臓を押え、勢いよく振り返った。
そこに、彼が立っていた。
銀色に輝く髪は、月の光を糸にして紡いだかのように美しい。
背中には、鳥の羽とも、あるいは光の結晶とも見える、白く巨大な翼が静かに畳まれている。
彼は、私を怖がらせないように、適度な距離を保って立ち止まった。
「夜の旅人さん、驚かせてしまいましたね」
彼の声は、不思議な響きを持っていた。
深い森の奥で響く鈴の音のように、透明で、それでいて温かい。
「あなたは……だれ? ここは、どこ?」
「僕は、灯し火を運ぶ者です。」
彼は静かに言った。
その手には、古びた、けれど気品のある角灯が握られている。
中で揺れているのは炎ではなく、命の欠片のような、やわらかな黄金色の光。
「ここは、現実と夢の狭間。人が、心の重さに耐えきれなくなったとき、しばしば迷い込む場所です」
彼は、私が見つめていた遠くの光を一緒に眺めた。
「あの灯し火が、激しく揺れているのが分かりますか?揺れるというのは、不安定さの現れです。今にも消えてしまいそうな、危うい心の状態を映しています」
「……やっぱり。私の心みたいに、もう消えちゃいそうなのね」
私が絶望に肩を落とすと、彼は首を横に振った。
「いいえ。逆ですよ。これほど激しく揺れながらも、それでも消えない。それは、何かがその光を必死に支えているからです。消えそうな瞬間こそ、支えの存在がもっとも際立つのですよ」
「支え……? 私に、そんなものあるの?」
「きみが今、ここで息をしようと苦しんでいること自体が、きみを生かそうとする支えの力です。本当に消えてしまったなら、揺れることさえ出来ませんから」
彼は、自分の手にある角灯を、私の足元にそっと置いた。
すると、私を囲んでいた深い霧が、ほんの少しだけ明るく透き通る。
「きみは、光そのものになろうとしなくていいのですよ。不安定に揺れながら、それでも消えずにそこに居る。それだけで、きみは十分に、この夜を戦っています」
彼の言葉を聞きながら、私は自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと、不規則に、けれど確かに脈打つ鼓動。
この震えこそが、私がまだ、自分を諦めていない証拠なのだと、彼は言ってくれている。
そして、角灯の中からひとすじの光を指先で掬い取り、私の胸のあたりに、そっと触れた。
「あ……」
温かい。
まるで、ずっと凍てついていた心の塊が、春の日差しを浴びて溶け出したかのようだった。
溜まっていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
彼は、自分の白い羽を大きく広げ、私の上に屋根のように差し掛けた。
羽が触れる感触は、最高級の絹よりも柔らかく、安らぎに満ちていた。
「……少し、疲れちゃった」
「ええ。休みましょう。今日の夜は、もう十分に長かったでしょう」
彼は、再び白く巨大な羽を広げ、私の意識を包み込むように風を送った。
光の粒子が雪のように振り注ぎ、私の視界は真っ白に染まっていく。
……。
時計のアラームが、無機質な音を立てていた。
目を開けると、そこには相変わらずの天井と、散らかった部屋があった。
身体はまだ重く、気持ちが晴れやかになったわけでもない。
窓の外からは、通勤の車の音が忙がしく聞こえてくる。
何ひとつ、昨日と変わらない、退屈で息苦しい日常だ。
「……行かなきゃ」
私は重い腰を上げ、鏡の前に立った。
顔色は悪く、瞳の下には隈がある。
鏡の中の自分をじっと見つめると、その奥で、小さな光が揺れているのが見えた気がした。
激しく、頼りなく揺れている。
けれど、どれほど強い風が吹いても、消える気配だけはなかった。
私は自分の不格好な揺らぎを、今日だけは否定せずに、洗面台の蛇口をひねった。
冷たい水が、現実に引き戻すように頬を叩く。
解決したことなんて、何ひとつない。
救いに満ちた結末なんて、どこにもない。
ただ、この変わらない日常の中を、また一歩踏み出しただけだ。
鞄を掴み、玄関のドアを開ける。
眩しいばかりの朝日が、容赦なく私を照らした。
「……行ってきます」
誰に言うでもない挨拶を口にして、私は雑踏の中へと消えていく。
背中に、あの静かな羽音を感じたような気がして、一度だけ空を見上げた。
第 1話(完)




