遠くに、いくつかの灯し火が見えた。
それは激しく吹き付ける風に身を削りながらも、決して絶えることのない頑なな瞬だった。
幾つもの光が重なり合い、過剰なまでの密度を以って闇を穿っている。
しかし、その中心で一つだけ、不自然なほどに不動を貫く、静かすぎる灯し火が存在していた。
瞼を閉じても、脳髄を駆け抜ける電光は熄むことがない。
横たえた身体は鉛のように重苦しいのに、意識だけが遠心分離機にかけられたように外側へ、未来へ、未知の不安へと飛散していく。
何も成していないという焦燥が、鋭利な歯車となって心臓の裏側を絶えず削っていた。
「休まなければ」という強迫こそが、最大の負荷となって私を縛り付ける。
立ち止まることは停滞ではなく脱落であり、何も産出しない時間は存在の罪であると、内なる検事が糾弾を止めないのだ。
だが突然肺の奥が過呼吸のように熱く焼け、冷たいシーツが拘束具のように肌に纏い付いたその瞬間、世界から一切の振動が死に絶えた。
熱さも、縛り付ける布の感触も、白銀の静寂に飲み込まれて跡形もなく霧散していく。
五感のすべてを強引に奪い去るような、あまりに鮮烈な「無」の到来に、私の思考までもが凍てついた。
そこに、彼は立っていた。
月光を濾し取ったような銀髪が、波立つ空気を宥めるように静止している。
彼は手にした角灯を微かに掲げ、慈しみの色を湛えた瞳で私を見つめた。
「眠りの中でも疾走を止められぬ、哀しき夜の旅人さん」
透った声が、荒れ狂う私の内なる雑音を一瞬で凪がせた。
「あの灯し火を見てごらんなさい。動かないように見えますが、あれは周囲の嵐を悉く糾い、幾千万の瞬を一秒に凝縮させることで辿り着いた、極致の静止なのです」
彼は一歩、迷える私との距離を測るように歩み寄った。
「貴方の心が止まらないのは、不徳ゆえではありません。それは、明日を生き抜こうとする生命の誠実な咆哮……止めることができないほどの熱を持った輝きなのです。ただ、今はこの光の中に、その過熱した思考を休めてもよいのですよ」
彼が一閃、背後に湛えられていた白銀の翼を、天普く光の奔流として解放った。
刹那、空間を支配していた全ゆる濁音が、深い雪に閉ざされるように死に絶えた。
私の肺を焼いていた焦燥も、肌を搦め取っていた重力の鎖も、音もなく訪れた絶対的な静謐によって跡形もなく上書きされていく。
それは、抗うことさえ忘れさせるほどに峻烈な、純白の平定だった。
広げられた翼が描く弧は、宇宙の深淵を包み込む夜の静けさと、全てを融かし去る恒星の熱を同時に宿している。
最高級の絹が荒れ狂う焔を吸い込むように、私を苦しめていた棘の一片までが、彼の懐へと静かに収まっていく。
絶え間なく回り続けた心の歯車が、その圧倒的な慈しみの重みに満たされ、ようやく安らかな停止を受け入れた。
そこには「何もしなくていい」という許可さえも必要のない、圧倒的な肯定だけが満ちていた。
彼の胸元から伝わる赤子の頬のような柔らかな温熱が、強張り切った私の精神の芯を、優しく、完璧に解いていく。
涙が溢れた。
それは悲しみではなく、過剰に回転し続けた魂から漏れ出した、安堵という名の潤滑油だった。
彼は、頬を伝うその一滴を、愛おしげに見つめた。
「摩擦を恐れず、誰よりも速く世界を廻そうとした。その熱こそが、貴方が生きてきた誠実な証です」
彼の声は、白銀の静寂の中で、冷たい泉に落ちた雫のように澄み渡っている。
角灯の温かな光が、私の強張った輪郭を優しく縁取った。
「けれど、潤いを忘れた魂は、いずれ焼き付いて動かなくなってしまう。……今はこの無音の揺籃に身を委ね、過熱した心を冷たい慈愛で満たしてください。休むこともまた、明日を織り成すための、尊き営みの一つなのですから」
彼の長い指先が、私の熱い目蓋を羽毛のように撫でる。
その微かな接触から、全ての思考を手放しても許されるという、深い肯定が伝わってきた。
「朝が来れば、再び歯車は廻り始ます。ですが、今日よりは少しだけ、滑らかに、軽やかに時を刻めるはずですよ」
彼の穏やかな微笑みが、白銀の輝きに溶け、輪郭を失っていく。
心地よい浮遊感が意識を優しく塗り潰し、私は深く、汚れなき白銀の真綿に包まれるようにして、穏やかな忘脚の淵へと沈んでいった。
……。
視界が白濁し、遠くで規則的な電子音が鳴り響く。
目覚めた瞬間、私を迎えたのは、昨日と何ら変わりのない薄暗い寝室だった。
机の上には片付かない仕事が積まれ、外では無慈悲な喧囂が始まろうとしている。
けれど、鏡に映る自分の瞳の奥に、あの微動だにしない穏やかな灯し火が、一片の残光として息づいているのを見つけた。
焦燥が消えたわけではない。
罪悪感もまた、影のように傍らに在る。
それでも、私の内側には、彼が授けてくれた「静止という名の熱」が確かに蓄えられている。
私は深く、深く息を吐き出した。
「……さぁ行こう」
騒めく思考を静かに手懐けながら、今日という一歩を踏み出した。
第 15話(完)