遠くに、いくつかの灯し火があった。
その一つ一つが、極夜の海を漂う砕氷のように、鋭い輪郭を持って静止している。
そこは、時間という概念が凍てつき、思考の塵さえも積もることを許されない、絶対的な無音の領域だった。
私は、その場所に膝を突き、自分の両手を呆然と眺めていた。
今日も、誰かのために笑った。
自分の時間を削り、心の余白を提供し、相手が望む「理想の私」を完遂した。
「ありがとう、あなたのおかげで助かったわ」
その言葉を報酬として受け取るたびに、私の内側からは何かが零れ落ちていく。
誰かの穴を埋めるために、私は自分という布を裁ち切り、継ぎ接ぎを繰り返してきた。
その結果、残ったのは糸の綻びた、判別不能な布の屑だけだ。
誰かの願いを叶えるたびに、私の形は失われていく。
それは聖人の業などではなく、単なる自己摩耗に過ぎない。
「……もう、一歩も動けない」
吐き出した言葉は、霧に吸い込まれることさえなく、足元へ重く落下した。
自分が何を欲しているのかさえ、もう思い出せない。
鏡を見ても、そこに映るのは空虚な輪郭だけで、色彩は全て他者へと譲渡してしまったあとだった。
その時、凍てついた空間に、微かな羽音が響いた。
ザッ、と雪を踏み締めるような、けれど羽毛のように軽やかな音。
顔を上げると、銀色に輝く髪を夜風に遊ばせた青年が、静かに私を見下ろしていた。
彼の背中に畳まれた巨大な翼は、月光を反射して七色の光沢を放っている。
その手に提げられた古びた角灯の中で、黄金色の光が穏やかに揺曳した。
「夜の旅人さん。ずいぶんと、御自身を遠い場所に置いてきてしまったのですね」
彼の声は、冷たい身体に染み渡る白湯のように、優しく、けれど残酷なほど正確に私の深部を突いた。
「きみから漂うのは、誰かの幸福の残り香と、きみ自身が削り取られた渇いた音だけです」
「……あなたは、誰? ここは……」
彼は答えを紡ぐことなく、手にした角灯を静かに掲げた。
揺曳する黄金の光が、足元を侵食していた昏冥を音もなく追い払っていく。
言及の代わりに、背後の白銀の翼が緩やかに拍動し、七色の光輝が無音の領域を満たした。
私を拘束していた形骸化した役割が、その圧倒的な熱量に曝されて剥がれ落ちていく。
ただ一個の魂へと還元される痛ましいまでの安寧こそが、彼の存在の証であり、この場所の正体であることを雄弁に物語っていた。
彼は静かに歩み寄り、私から数歩離れた位置で腰を落ろした。
目線を同じ高さにし、私の荒れた手を悲しそうに見つめる。
「美しい、ボロボロの手ですね。これほどまでに誰かの願いを掬い上げ、自分を損なうまで尽くされた。それは、到底成し得ない、酷いほどに気高い自己犠牲です」
「……気高いなんて。私はただ、拒絶されるのが怖くて、誰かの役に立っていないと自分を許せなかっただけ。これは、臆病者の末路よ」
私の自嘲に、彼は首を横に振った。
「動機が何であれ、きみが灯した光で救われた者たちがいるのは事実です。けれど、その『親切』は、きみにとって『不親切』なものでしたね。自分を救うための光を、すべて外側へ放出してしまったのですから」
彼は角灯を地面に置くと、その中から一筋の光を指先で引き出した。
それは糸のように細く、今にも千切れそうなほど繊細に震えている。
「きみの灯し火を見てください。外側は立派な燭台に見えても、芯はもう、燃え尽きる寸前の炭のようです。揺れることさえ忘れるほどに、固く、冷たくなっている」
「……消して。もう、疲れたわ」
「いいえ。消す必要はありません。必要なのは、消費するための火ではなく、きみを温めるための熱です」
彼は、畳まれていた巨大な白い翼を、ゆっくりと解いた。
バサァッ、と重厚な羽音が周囲の霧を払い、七色の粒子が星屑のように舞い散る。
彼は私の背後へと回り、その圧倒的な質量を持った翼で、私を丸ごと包み込んだ。
翼が触れた瞬間、視界が眩い白光に満たされた。
想像を絶する密度。
最高級の絹が幾重にも重なり合い、自分の境界線が溶けていくような、全神的な抱擁。
そして何より、その翼から溢れ出す熱が、私の凍てついた四肢を、抗いようのない熱圧で解していく。
「苦しかったですね。自分を裁断し、他者の欠落を埋め続ける日々は。きみがボロボロになったのは、きみが冷たいからではなく、あまりに温かいものを与えようとし過ぎたからです」
彼の声は、翼の内側で反響し、直接鼓膜を震わせる。
羽毛の一筋までもが慈愛を持って私に触れ、肌の表面に刻まれた無数の傷跡を撫でていく。
「きみの献身は、誰に理解されずとも、この夜が記憶しています。今夜だけは、その綻びを繕うことを止め、ただ僕の熱に身を任せてください」
「……っ、う……あ、ぁ……」
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
泣き方さえ忘れていたはずなのに、彼の翼に包まれると、堰を切ったように感情が溢れ出す。
誰かのためではなく、私自身のために流す涙。
その一滴一滴が、摩耗しきった心の溝を埋め、失われた色彩を呼び戻していく。
銀色の髪から漂う、清涼な森の香りと、翼が擦れ合う微かな囁き。
絶望に近い疲弊は、いつしか心地よい倦怠へと変わり、私の内側の灯し火が、力強く琥珀色に脈打つのを感じた。
「……少し、眠ってもいい?」
「ええ。おやすみなさい。きみの綻びは、きみが生きた証であり、何よりも尊い模様なのですよ」
彼が翼をひと振りすると、眩いばかりの光の粒子が雪のように降り注ぎ、私の意識を優しく白く溶かしていった。
……。
時計の電子音が、朝の冷たい空気を切り裂いた。
目を開けると、そこには見慣れた天井と、昨日と変わらない質素な寝室があった。
身体はまだ重く、日常の難題が解決したわけでもない。
今日もまた、誰かの要望に応え、自分を削る一日が始まるのだろう。
けれど、私は洗面所へ向かい、鏡に映る自分をじっと見つめた。
頬は痩け、目の下には隈がある。
依然として、私はボロボロのままだ。
しかし、その瞳の奥で、消えかかっていた灯し火が、静かに、けれど確かな熱を持って揺れている。
「……大丈夫、さあ行きましょう」
指先で自分の頬に触れる。
そこには、あの白い翼の温もりが、微かな余熱として残っているような気がした。
自分を完全に繕うことはできない。
誰かのために摩耗することを、今日も止められないかもしれない。
けれど、その傷跡のひとつひとつが、暗闇の中で誰かを、そして私自身を照らす標になるのだと、彼は言ってくれた。
自分という城壁を守るための不器用な一歩。
雑踏へと消えていく背中に、一房の白い羽が舞い落ちたような錯覚を覚えながら、私は今日という戦場へ歩み出した。
第 13話(完)