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灯し火の番人  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第13話】綻びの献身、静寂の聖域


 遠(とお)くに、いくつかの灯(とも)し火(び)があった。


 その一(ひと)つ一(ひと)つが、極夜(きょくや)の海(うみ)を漂(ただよ)う砕氷(さいひょう)のように、鋭(するど)い輪郭(りんかく)を持(も)って静止(せいし)している。


 そこは、時間(じかん)という概念(がいねん)が凍(い)てつき、思考(しこう)の塵(ちり)さえも積(つ)もることを許(ゆる)されない、絶対(ぜったい)的(てき)な無音(むおん)の領域(りょういき)だった。


私(わたし)は、その場所(ばしょ)に膝(ひざ)を突(つ)き、自分(じぶん)の両手(りょうて)を呆然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた。


 今日(きょう)も、誰(だれ)かのために笑(わら)った。


 自分(じぶん)の時間(じかん)を削(けず)り、心(こころ)の余白(よはく)を提供(ていきょう)し、相手(あいて)が望(のぞ)む「理想(りそう)の私(わたし)」を完遂(かんすい)した。


「ありがとう、あなたのおかげで助(たす)かったわ」


 その言葉(ことば)を報酬(ほうしゅう)として受(う)け取(と)るたびに、私(わたし)の内側(うちがわ)からは何(なに)かが零(こぼ)れ落(お)ちていく。


 誰(だれ)かの穴(あな)を埋(う)めるために、私(わたし)は自分(じぶん)という布(ぬの)を裁(た)ち切(き)り、継(つ)ぎ接(は)ぎを繰(く)り返(かえ)してきた。


 その結果(けっか)、残(のこ)ったのは糸(いと)の綻(ほころ)びた、判別(はんべつ)不能(ふのう)な布(ぬの)の屑(くず)だけだ。


 誰(だれ)かの願(ねが)いを叶(かな)えるたびに、私(わたし)の形(かたち)は失(うしな)われていく。


 それは聖人(せいじん)の業(わざ)などではなく、単(たん)なる自己(じこ)摩耗(まもう)に過(す)ぎない。


「……もう、一歩(いっぽ)も動(うご)けない」


 吐(は)き出(だ)した言葉(ことば)は、霧(きり)に吸(す)い込(こ)まれることさえなく、足元(あしもと)へ重(おも)く落下(らっか)した。


 自分(じぶん)が何(なに)を欲(ほっ)しているのかさえ、もう思(おも)い出(だ)せない。


 鏡(かがみ)を見(み)ても、そこに映(うつ)るのは空虚(くうきょ)な輪郭(りんかく)だけで、色彩(しきさい)は全(すべ)て他者(たしゃ)へと譲渡(じょうと)してしまったあとだった。


 その時(とき)、凍(い)てついた空間(くうかん)に、微(かす)かな羽音(はおと)が響(ひび)いた。


 ザッ、と雪(ゆき)を踏(ふ)み締(し)めるような、けれど羽毛(うもう)のように軽(かろ)やかな音(おと)。


 顔(かお)を上(あ)げると、銀色(ぎんいろ)に輝(かがや)く髪(かみ)を夜風(よかぜ)に遊(あそ)ばせた青年(せいねん)が、静(しず)かに私(わたし)を見下(みお)ろしていた。


 彼(かれ)の背中(せなか)に畳(たた)まれた巨大(きょだい)な翼(つばさ)は、月光(げっこう)を反射(はんしゃ)して七色(なないろ)の光沢(こうたく)を放(はな)っている。


 その手(て)に提(さ)げられた古(ふる)びた角灯(かくとう)の中(なか)で、黄金色(こがねいろ)の光(ひかり)が穏(おだ)やかに揺曳(ようえい)した。


「夜(よる)の旅人(たびびと)さん。ずいぶんと、御自身(ごじしん)を遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)いてきてしまったのですね」


 彼(かれ)の声(こえ)は、冷(つめ)たい身体(からだ)に染(し)み渡(わた)る白(はく)湯(とう)のように、優(やさ)しく、けれど残酷(ざんこく)なほど正確(せいかく)に私(わたし)の深部(しんぶ)を突(つ)いた。


「きみから漂(ただよ)うのは、誰(だれ)かの幸福(こうふく)の残(のこ)り香(が)と、きみ自身(じしん)が削(けず)り取(と)られた渇(かわ)いた音(おと)だけです」


「……あなたは、誰(だれ)? ここは……」


 彼(かれ)は答(こた)えを紡(つむ)ぐことなく、手(て)にした角灯(かくとう)を静(しず)かに掲(かか)げた。


 揺曳(ようえい)する黄金(こがね)の光(ひかり)が、足元(あしもと)を侵食(しんしょく)していた昏冥(こんめい)を音(おと)もなく追(お)い払(はら)っていく。


 言及(げんきゅう)の代(か)わりに、背後(はいご)の白銀(はくぎん)の翼(つばさ)が緩(ゆる)やかに拍動(はくどう)し、七色(なないろ)の光輝(こうき)が無音(むおん)の領域(りょういき)を満(み)たした。


 私(わたし)を拘束(こうそく)していた形骸(けいがい)化(か)した役割(やくわり)が、その圧倒(あっとう)的(てき)な熱量(ねつりょう)に曝(さら)されて剥(は)がれ落(お)ちていく。


 ただ一個(いっこ)の魂(たましい)へと還元(かんげん)される痛(いた)ましいまでの安寧(あんねい)こそが、彼(かれ)の存在(そんざい)の証(あかし)であり、この場所(ばしょ)の正体(しょうたい)であることを雄弁(ゆうべん)に物語(ものがた)っていた。


 彼(かれ)は静(しず)かに歩(あゆ)み寄(よ)り、私(わたし)から数歩(すうほ)離(はな)れた位置(いち)で腰(こし)を落(お)ろした。


 目線(めせん)を同(おな)じ高(たか)さにし、私(わたし)の荒(あ)れた手(て)を悲(かな)しそうに見(み)つめる。


「美(うつく)しい、ボロボロの手(て)ですね。これほどまでに誰(だれ)かの願(ねが)いを掬(すく)い上(あ)げ、自分(じぶん)を損(そこ)なうまで尽(つ)くされた。それは、到底(とうてい)成(な)し得(え)ない、酷(むご)いほどに気高(けだか)い自己(じこ)犠牲(ぎせい)です」


「……気高(けだか)いなんて。私(わたし)はただ、拒絶(きょぜつ)されるのが怖(こわ)くて、誰(だれ)かの役(やく)に立(た)っていないと自分(じぶん)を許(ゆる)せなかっただけ。これは、臆病(おくびょう)者(もの)の末路(まつろ)よ」


 私(わたし)の自嘲(じちょう)に、彼(かれ)は首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。


「動機(どうき)が何(なに)であれ、きみが灯(とも)した光(ひかり)で救(すく)われた者(もの)たちがいるのは事実(じじつ)です。けれど、その『親切(しんせつ)』は、きみにとって『不親切(ふしんせつ)』なものでしたね。自分(じぶん)を救(すく)うための光(ひかり)を、すべて外側(そとがわ)へ放出(ほうしゅつ)してしまったのですから」


 彼(かれ)は角灯(かくとう)を地面(じめん)に置(お)くと、その中(なか)から一筋(ひとすじ)の光(ひかり)を指先(ゆびさき)で引(ひ)き出(だ)した。


 それは糸(いと)のように細(ほそ)く、今(いま)にも千切(ちぎ)れそうなほど繊細(せんさい)に震(ふる)えている。


「きみの灯(とも)し火(び)を見(み)てください。外側(そとがわ)は立派(りっぱ)な燭台(しょくだい)に見えても、芯(しん)はもう、燃(も)え尽(つ)きる寸前(すんぜん)の炭(すみ)のようです。揺(ゆ)れることさえ忘(わす)れるほどに、固(かた)く、冷(つめ)たくなっている」


「……消(け)して。もう、疲(つか)れたわ」


「いいえ。消(け)す必要(ひつよう)はありません。必要(ひつよう)なのは、消費(しょうひ)するための火(ひ)ではなく、きみを温(あたた)めるための熱(ねつ)です」


 彼(かれ)は、畳(たた)まれていた巨大(きょだい)な白(しろ)い翼(つばさ)を、ゆっくりと解(ほど)いた。


 バサァッ、と重厚(じゅうこう)な羽音(はおと)が周囲(しゅうい)の霧(きり)を払(はら)い、七色(なないろ)の粒子(りゅうし)が星屑(ほしくず)のように舞(ま)い散(ち)る。


 彼(かれ)は私(わたし)の背後(はいご)へと回(まわ)り、その圧倒(あっとう)的な質量(しつりょう)を持(も)った翼(つばさ)で、私(わたし)を丸(まる)ごと包(つつ)み込(こ)んだ。


 翼(つばさ)が触(ふ)れた瞬間(しゅんかん)、視界(しかい)が眩(まばゆ)い白光(はっこう)に満(み)たされた。


 想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する密度(みつど)。


 最高級(さいこうきゅう)の絹(きぬ)が幾(いく)重(え)にも重(かさ)なり合(あ)い、自分(じぶん)の境界線(きょうかいせん)が溶(と)けていくような、全(ぜん)神的(しんてき)な抱擁(ほうよう)。


 そして何より、その翼(つばさ)から溢(あふ)れ出(だ)す熱(ねつ)が、私(わたし)の凍(い)てついた四肢(しし)を、抗(あらが)いようのない熱圧(ねつあつ)で解(ほぐ)していく。


「苦(くる)しかったですね。自分(じぶん)を裁断(さいだん)し、他者(たしゃ)の欠落(けつらく)を埋(う)め続(つづ)ける日々(ひび)は。きみがボロボロになったのは、きみが冷(つめ)たいからではなく、あまりに温(あたた)かいものを与(あた)えようとし過(す)ぎたからです」


 彼(かれ)の声(こえ)は、翼(つばさ)の内側(うちがわ)で反響(はんきょう)し、直接(ちょくせつ)鼓膜(こまく)を震(ふる)わせる。


 羽毛(うもう)の一筋(ひとすじ)までもが慈愛(じあい)を持(も)って私(わたし)に触(ふ)れ、肌(はだ)の表面(ひょうめん)に刻(きざ)まれた無数(むすう)の傷跡(きずあと)を撫(な)でていく。


「きみの献身(けんしん)は、誰(だれ)に理解(りかい)されずとも、この夜(よる)が記憶(きおく)しています。今夜(こんや)だけは、その綻(ほころ)びを繕(つくろ)うことを止(や)め、ただ僕(ぼく)の熱(ねつ)に身(み)を任(まか)せてください」


「……っ、う……あ、ぁ……」


 喉(のど)の奥(おく)から、嗚咽(おえつ)が漏(も)れた。


 泣(な)き方(かた)さえ忘(わす)れていたはずなのに、彼(かれ)の翼(つばさ)に包(つつ)まれると、堰(せき)を切(き)ったように感情(かんじょう)が溢(あふ)れ出(だ)す。


 誰(だれ)かのためではなく、私(わたし)自身(じしん)のために流(なが)す涙(なみだ)。


 その一滴(いってき)一滴(いってき)が、摩耗(まもう)しきった心(こころ)の溝(みぞ)を埋(う)め、失(うしな)われた色彩(しきさい)を呼(よ)び戻(もど)していく。


 銀色(ぎんいろ)の髪(かみ)から漂(ただよ)う、清涼(せいりょう)な森(もり)の香(かお)りと、翼(つばさ)が擦(す)れ合(あ)う微(かす)かな囁(ささや)き。


 絶望(ぜつぼう)に近(ちか)い疲弊(ひへい)は、いつしか心地(ここち)よい倦怠(けんたい)へと変(か)わり、私(わたし)の内側(うちがわ)の灯(とも)し火(び)が、力強(ちからづよ)く琥珀(こはく)色(いろ)に脈(みゃく)打(う)つのを感(かん)じた。


「……少(すこ)し、眠(ねむ)ってもいい?」


「ええ。おやすみなさい。きみの綻(ほころ)びは、きみが生(い)きた証(あかし)であり、何(なに)よりも尊(とうと)い模様(もよう)なのですよ」


 彼(かれ)が翼(つばさ)をひと振(ふ)りすると、眩(まばゆ)いばかりの光(ひかり)の粒子(りゅうし)が雪(ゆき)のように降(ふ)り注(そそ)ぎ、私(わたし)の意識(いしき)を優(やさ)しく白(しろ)く溶(と)かしていった。



……。




 時計(とけい)の電子(でんし)音(おん)が、朝(あさ)の冷(つめ)たい空気(くうき)を切(き)り裂(さ)いた。


 目(め)を開(あ)けると、そこには見慣(みな)れた天井(てんじょう)と、昨日(きのう)と変(か)わらない質素(しっそ)な寝室(しんしつ)があった。


 身体(からだ)はまだ重(おも)く、日常(にちじょう)の難題(なんだい)が解決(かいけつ)したわけでもない。


 今日(きょう)もまた、誰(だれ)かの要望(ようぼう)に応(こた)え、自分(じぶん)を削(けず)る一日(いちにち)が始(はじ)まるのだろう。


 けれど、私(わたし)は洗面所(せんめんじょ)へ向(む)かい、鏡(かがみ)に映(うつ)る自分(じぶん)をじっと見つめ(みつめ)た。


 頬(ほお)は痩(こ)け、目(め)の下(した)には隈(くま)がある。


 依然(いぜん)として、私(わたし)はボロボロのままだ。


 しかし、その瞳(ひとみ)の奥(おく)で、消(き)えかかっていた灯(とも)し火(び)が、静(しず)かに、けれど確(たし)かな熱(ねつ)を持(も)って揺(ゆ)れている。


「……大丈夫(だいじょうぶ)、さあ行(い)きましょう」


 指先(ゆびさき)で自分(じぶん)の頬(ほお)に触(ふ)れる。


 そこには、あの白(しろ)い翼(つばさ)の温(ぬく)もりが、微(かす)かな余熱(よねつ)として残(のこ)っているような気(気)がした。


 自分(じぶん)を完全(かんぜん)に繕(つくろ)うことはできない。


 誰(だれ)かのために摩耗(まもう)することを、今日(きょう)も止(や)められないかもしれない。


 けれど、その傷跡(きずあと)のひとつひとつが、暗闇(くらやみ)の中(なか)で誰(だれ)かを、そして私(わたし)自身(じしん)を照(て)らす標(しるべ)になるのだと、彼(かれ)は言(い)ってくれた。


 自分(じぶん)という城壁(じょうへき)を守(まも)るための不器用(ぶきよう)な一歩(いっぽ)。

 

 雑踏(ざっとう)へと消(き)えていく背中(せなか)に、一房(ひとふさ)の白(しろ)い羽(はね)が舞(ま)い落(お)ちたような錯覚(さっかく)を覚(おぼ)えながら、私(わたし)は今日(きょう)という戦場(せんじょう)へ歩(あゆ)み出(だ)した。


第(だい) 13話(わ)(完(かん))



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