13話
異界に突入して体感で三時間余り、嘉内と麻倉は川沿いの登山をまだ続けていた。時計はあるにはあるが異界だと狂っている可能性が高くて信用できない。実際さっきチラリと腕時計を確認してみたが、突入してから三十分ほどしか経っていなかった。体内時計がおかしいのか、時計がおかしいのか、嘉内には判断がつかなかった。
休憩をとりつつ山を登っているが、四十手前で普段精力的に活動しない嘉内にとって、山道を歩くことはかなりの重労働だ。隣の麻倉は息一つ乱さず汗もかいていないというのに、嘉内は呼吸が荒く汗もだらだらにかいていた。持っている荷物の差というのもあるかもしれない。何度か嘉内のバックパックを持とうかと麻倉が申し出てくれているが、逸れた時のことを思うと頼むことが出来ずにいる。
「嘉内さん、休みましょう」
「……悪いな、そうさせてもらう」
麻倉の提案を嘉内はありがたく受けることにした。川の近くには少し腰掛けるのにちょうど良さそうな大きな石があり、麻倉は嘉内をそこへ誘導する。石に腰掛けた嘉内は、足を投げ出してゆっくり息を整えた。ワイシャツは汗だくになっていてべっとりと肌に張り付く。かなり不快に感じるが着替えなど持ってきていないため我慢するしかないのが憂鬱だった。少しでも乾かそうと首元からパタパタと風を送り込む。その間麻倉は勝手知ったるとばかりに嘉内の背負っているバックパックを漁り、浄化用に持ってきた水を取り出し、嘉内に手渡した。
「水、もう一本無くなりそうだわ。本来の用途では一回しか使ってねぇのに……」
「仕方がないでしょう。瘴気に当てられるより前に脱水症状で倒れたらどうするんですか」
ちゃんと塩分も補給してください、と麻倉のポケットから塩飴が出てきて、嘉内はどういう顔をすればいいのかわからなかった。なんでこの男は手ぶらで登山しているのに、塩飴だけは持ってきてるんだろうと、疑問でしかなかったが聞くのも億劫なぐらいには疲れ切っていた。貰った飴をカランコロンと口の中で転がせば、甘じょっぱさがなんだか身体に染み渡る気がして、塩分が足りてなかったんだなぁと嘉内は自覚せざるを得なかった。
休憩がてら、なんの気なしに川をぼんやりと見つめれば、少し先に木や石が川の中に積まれて、ちょっとダムのようになっているものが見えた。あそこが一先ずの目的地だな、と嘉内は怠い身体をヨッと掛け声と共に立ち上がらせた。
「もういいので?」
「あぁ。目的地が見えたからな。麻倉、あの辺をぼんやり遠い目で見てみろ」
嘉内はダムが見えた方を指差し、麻倉にそう促す。麻倉は変な指示だな、と思いながらもそのように見つめると、先ほどまでは見えていなかったはずの木と石で出来たダムが急に現れたように見えた。
「あれ……、さっきまでなかった気がするんですけど」
「恐らく認識阻害されるような術がかかってたんだろうな。川で何か見つけようと注視すればするほど認識出来なくなるタイプだろ。けど一度見破ってしまえばどうってことないんだがな」
「……勉強になります」
先ほどの札と言い、今回の見破り方といい、嘉内と居るとまだまだ知識が足りないことに気付かされる。麻倉は、嘉内さんレベルになるには道のりは遠いなと小さくため息をついた。
目的地が判明したため、山道を進む嘉内の足取りは先ほどよりも軽かった。時折麻倉に、もう少しゆっくり歩かないとまたバテますよ、と嗜められるぐらいには早く歩いてしまったらしい。案の定ダムに着く頃にはまた息が上がってしまっていた。膝に手をついて肩で息をする嘉内を尻目に、麻倉は一人川に近付きダムを観察する。
「やはり木と石、あとは泥で出来てますね。多少粗があるので素人の手で作られたもののようですが」
積み上げ方にこれといった規則性などもなく、ただただ川の流れが少なくなるように置いていっただけというのが一目で見て取れる。この作りでは大雨で水嵩が増せば簡単に決壊するだろう、ということを考えて、麻倉はハッと嘉内の方を振り向いた。
「嘉内さん。この川で起きた大きい氾濫の原因って……」
「麻倉! 下がれ!」
問いかけようとした麻倉の声を遮って、嘉内が鋭く指示を飛ばす。
川の方からざばんっ、と大きな水飛沫が上がり、麻倉が慌てて前を見ようとすると不意に強い力で足が引っ張られ、思わず尻餅をつく。麻倉が強かに尻を打ちつけて痛みに呻く間に、身体はずりずりと勢いよく川の中へと引き摺られていく。麻倉を引き止めようと、嘉内は必死に腕を引くが、引き込まれる力が強すぎて嘉内まで引きずられてしまう。
「麻倉! 唱えことばは覚えてるな⁉︎ 思いっきり叫べ!」
「祓え給い! 清め給え! 神ながら守り給い! 幸え給え!」
嘉内の指示に従った麻倉が唱えことばを叫び終えれば、足を引っ張っていた強い力は弱くなり、足を掴んでいた何かは外れていた。下半身が川に浸かった状態の麻倉を、嘉内は渾身の力で引っ張り上げた。
どうにか川から引き上げた麻倉を連れ、嘉内は川から少し離れたところに力尽きるように膝から崩れ落ちた。
「あーーー、やばかった……」
「……ありがとうございました、死ぬかと思いました」
ようやっと整った呼吸がまた乱れてしまった嘉内に、麻倉は若干青白い顔で礼を伝えた。あのまま川に沈められる恐怖に呑まれ、唱えことばを叫ぶことができなければ、きっと今頃嘉内もろとも川底に引き摺り込まれていただろうというのは容易に想像がついた。それほどまでに恐ろしい力を麻倉は感じていた。
「けど咄嗟の指示だがよく叫んでくれた、偉いぞ」
「昔、嘉内さんが仕込んでくれたお陰です」
唱えことばは、麻倉が対策室に配属されてすぐに嘉内が教えこんだものだ。これさえ覚えておけばよっぽどの相手じゃない限り、麻倉の浄化能力の高さで切り抜けられるからと、そう言われて覚えさせられた。実際に使う場面はこれまでにはなかったが、今回初めて使ってみるとしっかりと威力を発揮してくれた。
「予想はしてたけど効果絶大だったな。見てみろ、あれがさっきお前を川に引きずり込もうとしてたものの正体だ」
立ち上がった嘉内が川底を指差す。そこにはシワシワに干からびた緑色の四肢に甲羅を背負った妖怪の姿があった。
「河童、ですか?」
「あぁ、多分あれがこのダム作ったやつだろうな。麻倉は見えてなかったかもしれないが、俺が見た姿は邪気を纏ってて、今の二倍ぐらいには大きな姿だったな」
川に歩み寄る嘉内を、若干警戒しながら麻倉が後を追う。嘉内は川のすぐ近くに立ち河童を見下ろすが、河童は力なく川を漂うだけで嘉内たちに危害を加えることはなかった。嘉内はなんの躊躇いもなく川へと足を踏み入れる。足元が濡れるのもお構いなしに入っていき、干からびた河童を片手で鷲掴んで陸へと投げ捨てた。
「麻倉。消えろって強く念じながらそいつのこと殴るか蹴るかしろ」
「はい?」
「いいから」
また何の説明もないままに指示を飛ばしてくる嘉内にため息をつきながら、先ほど川に引き摺り込まれそうになった恐怖を怒りに変え、消えろと念じながら顔を足で踏みつける。僅かな抵抗を感じたが構いなしに足に力を込めれば、パンッ、とまるで風船が弾けるかのように割れて河童が消滅した。
「お前……思ってたより残忍だな……」
嘉内がドン引きと言わんばかりの目で麻倉を見つめる。麻倉は否定しようにも、殴るか蹴るかでいいと言われたのに踏み潰した己の所業を顧みて、言い返すことができなかった。




