11話
ぐわん、と視界が歪むように目の前の渡辺の背が消える。激しい眩暈を耐え、ゆっくりとまた目を開く頃には、山の入り口には麻倉と嘉内の二人だけしか立っていなかった。
変わらず夕日が差し込む山道だが、その光は橙混じりの赤ではなく、禍々《まがまが》しさすら感じられる赤黒い光だ。山を振り返れば、すぐそこすら薄暗く、少し先は真っ暗で見通すこともできない。瘴気も山に入った時よりも濃いものが立ち込めており、どうやらなんとか異界へと辿り着けたようだと、嘉内は胸を撫で下ろした。
「嘉内さん、大丈夫ですか?」
頭の上からかけられた声に見上げれば、異様に距離が近いことに気付く。麻倉の腕は嘉内の腰に回っており、嘉内が崩れ落ちないようにと自身の方に引き寄せていた。至近距離にある端正な顔に硬直した嘉内は、しばらくしてからそっと麻倉の胸元を押した。
「あー……悪い、迷惑かけた。もう大丈夫だ」
そう言われ、麻倉は嘉内の腰のベルトから手を離した。途端にぐら、と嘉内の体が後ろに傾き思わずたたらを踏むと、宙に浮いた腕を掴み、麻倉が再び嘉内を引き寄せた。
「どこが大丈夫なんです?」
「……悪い」
気まずそうに目を逸らす嘉内を見て、小さくため息を付いた麻倉は、麻倉の背にあるバックパックを勝手に漁り始め、その中からペットボトルに入った浄化用の水を取り出す。
「ひとまず水でも飲んだらどうですか? 少し腰下ろしますか?」
「いや、大丈夫だ……。水はもらう」
吐く寸前で胃液が口元まで逆流してきていた嘉内は、麻倉の好意を素直に受け取ることにした。名のある神社から汲んできた水は、飲むとたちまち体調が良くなると世間一般からも好評のものだ。実際に、口にすれば体に蓄積された瘴気が洗い流されるように抜けていく。気持ちの悪さも改善され、また今度あの神社にお礼に行かねば、と嘉内はそっと心に決めながらそのまま飲み干した。
ふぅ、と一息つけば、腕を掴んだままの麻倉がじっと嘉内を見つめていた。
「……なんだよ」
「いえ、思ったよりも顔色良くなったなって。さっきまで死にそうなぐらい顔白かったですよ」
「異界に引き摺り込まれる瞬間が一番気持ち悪くなるんだよな。入っちまえば逆に楽というか……」
「そんなもんなんですね」
「そんなもんよ」
軽口を叩き合う程度には回復出来た様子を見て、麻倉はようやく腕を離した。嘉内の方も今度はよろけることもなく、しっかりと地に足つけて立てている。嘉内はバックパックから札を一枚取り出し、山道入り口近くの木にペタリと貼り付けた。
「それなんですか?」
「空間固定と目印兼ねた札。こういうとこって元凶どうにかすっと途端に空間崩れて出れずに崩壊に巻き込まれたり、迷わせるためにしょっちゅう空間自体が変化するんだよ。これ貼るとそれが防げるし、札貼った場所も感知しやすくなるから迷子防止にもなる、異界突入時の必須アイテムだな」
そう言いつつ、反対側の木にも同じものを貼り付ける。これで入り口は固定されたはずだ。バッグパックからその札を束で取り出した嘉内は、そのまま麻倉のポケットにと突っ込んだ。
「持っとけ。もし俺と逸れてもこれがありゃ帰り道は確保できる」
「逸れないようにすればいいでしょ」
「ここは異界だぞ? どんなに気をつけてようがお前がどんだけ力があろうが、相手のテリトリーなんだから逸れる時は逸れんだよ。あ、これ使う時は必ず対で使えよ。片側だけだと通るのがやっとなぐらいの空間しか固定されねぇから」
若干不満そうな麻倉のことなど意に介さず、注意事項まできっちり伝えた嘉内は、あとは水も一応持っとけ、と反対側のポケットに突っ込んだ。スーツのポケットが不恰好に膨らんだ麻倉を見て小さく笑いつつ、嘉内は森の奥へと足を向ける。
「ひとまずは川を目指そう。神隠しは元々川沿いで発生していたしな」
高山からコピーさせてもらった地図を片手に、とりあえずまっすぐだなと一人で奥へと進む嘉内に、逸れるとしたらこの調子でこの人がいなくなるんだろうな、とため息を吐きながら麻倉はすぐにその後を追った。




