序章「胎動」VI 変兆
さらに数か月にわたる準備を経て、第四段階の検証はついに完了した。
会議室に、久しく聞くことのなかった拍手が響いた。
四つの研究班が、それぞれ最終結果を報告する。
材料、生物、エネルギー、そして理論。
各班から提出されたデータは互いに矛盾することなく、すべての指標が予定されていた基準値を満たしていた。
トムは居並ぶ研究員たちを見渡した。
そして初めて、笑みを浮かべた。
「諸君」
「おめでとう」
「明朝九時――」
「第一号人工液の注入実験を、正式に開始する」
観察ホールに、押し殺した歓声が広がった。
拳を握り締める者。
互いに抱き合う者。
ようやく長い息を吐き出す者もいた。
数か月にわたり、文字どおり昼夜を忘れて続けてきた研究が――ようやく最初の一歩を踏み出そうとしていた。
ただ一人。
フェイマンだけは、ガラスの向こうにある培養槽を静かに見つめていた。
その表情は、冷淡とさえ思えるほど穏やかだった。
翌日。
午前九時、ちょうど。
実験が開始された。
第53区全域に、第一級警戒態勢が敷かれる。
実験に直接関係しない人員は、すべて退避させられていた。
中央実験槽が、ゆっくりと開く。
わずか〇・五ミリリットルの人工液が、機械アームによって培養槽内へ注入されていった。
ホールは、水を打ったように静まり返っていた。
全員の視線が、中央の一点へ注がれている。
液体が、青白い物質へ触れた。
――何も起こらない。
三秒。
五秒。
十秒。
また失敗か。
誰もがそう思い始めた、その時だった。
青白い物質が――わずかに震えた。
「反応あり!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間。
物質はゆっくりとその形を伸ばし始めた。
まるで自らの意思を持つ生物のように。
人工液を包み込むように、その身体を静かに広げていく。
同時に、すべての観測機器が一斉にデータを更新し始めた。
「エネルギー値、安定」
「分子構造、安定しています」
「磁場、正常」
「生命指標も安定――」
報告が次々と飛び交う。
張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいった。
やがて、どこからともなく拍手が起こった。
目に涙を浮かべている者さえいた。
数か月。
彼らはようやく――初めて、本当の意味で成功したのだ。
その時だった。
一人のオペレーターが、不意に動きを止めた。
「……待ってください」
声が震えている。
「この数値……」
「どうして、まだ上がってる?」
拍手が止んだ。
ホールが再び静まり返る。
全員の視線が、メインスクリーンへ向けられた。
これまで一度として観測されたことのない曲線が――あらゆる予測モデルを越えて、なお上昇を続けていた。
エネルギー出力。
一〇〇パーセント。
一二〇。
一五〇――。
「実験を止めろ!」
トムが怒鳴った。
「注入を直ちに中止!」
機械アームが瞬時に引き戻される。
培養槽が強制隔離モードへ移行した。
供給されていたエネルギーも、次々と遮断されていく。
数秒後。
メインスクリーンの数値が、ようやく下降を始めた。
ホールのあちこちから、一斉に安堵の息が漏れる。
「遮断成功」
「エネルギー、減衰しています」
「危険域を離脱――」
その場にへたり込む者までいた。
ジョンもゆっくりと息を吐いた。
一分近く強張り続けていた肩から、ようやく力が抜ける。
その時。
実験ホールの最奥で。
――ピッ。
ごく小さな電子音が鳴った。
誰も気づかなかった。
培養槽の外側。
空気が、わずかに歪んだ。
真夏の陽炎に揺れるアスファルトのように。
実験台の縁に置かれていた金属製のピンセットが――何の前触れもなく赤熱し始める。
次の瞬間。
――パンッ!
ピンセットが弾け飛んだ。
「何だ!?」
研究員が勢いよく立ち上がる。
直後。
別の場所でも、異変が始まった。
ガラス製のビーカー。
鋼鉄製のトレー。
実験記録を綴じていたステープル。
周囲にある金属という金属が、何の前触れもなく急激に熱を帯びていく。
空気のあちこちで、乾いた破裂音が連続した。
「シールド外部に未知のエネルギー反応!」
「隔離フィールドを透過しています!」
「なぜ防壁が止めない!?」
「放射線じゃない!」
「そのまま抜けてくる!」
全員の顔色が変わった。
その瞬間になって、ようやく彼らは理解した。
本当に危険なのは――
培養槽の中にあるものではない。
彼らがまだ、その存在すら理解していない――何らかの「場」だった。
実験台のガラス器具が次々と砕け散る。
照明が激しく明滅する。
空気そのものが、巨大な見えない手に掴まれ、捻じ曲げられているかのようだった。
鋼鉄製の装置の一部が引き剥がされ、フェイマンへ向かって飛んだ。
「教授!」
ナンシーは、考えるより先に動いていた。
フェイマンへ飛びつき、その身体を覆うように床へ押し倒す。
鋼板が、二人のすぐ脇へ激突した。
ガラス片が四方へ飛び散る。
「全電源を落とせ!」
「実験を完全に切れ!」
トムの命令は、もはや怒号だった。
ジョンは真っ先に中央制御盤へ駆けた。
警告灯が狂ったように明滅している。
電子制御系は、すでに完全に機能を失っていた。
ジョンは制御盤側面の鋼鉄製カバーを跳ね上げた。
その奥から現れたのは――これまで一度として使われたことのない、機械式の主電源遮断レバーだった。
手を伸ばす。
掌が冷たい金属に触れた――その瞬間。
聞き覚えのある笑い声が、何の前触れもなく耳の奥へ入り込んできた。
「クッ……クク……」
小さい。
それなのに――まるで耳のすぐ後ろで笑っているように近い。
ジョンの瞳孔が収縮した。
首筋の毛が、一斉に逆立つ。
あの地下室で聞いたものと、まったく同じだった。
どこから聞こえているのか分からない。
室内のどこかからなのか。
それとも――直接、頭の中に響いているのか。
確かに聞こえた。
だが今度は。
ジョンは振り返らなかった。
音の正体を探すための時間すら、自分に与えなかった。
両手でレバーを掴む。
歯を食いしばり――
一気に押し下げた。
――ガコン!
重い機械機構がロックポイントを越え、主電源遮断レバーが最下部まで叩き込まれる。
笑い声が、途絶えた。
次の瞬間。
地下実験区全域に、第一級電源遮断シーケンスの警報が鳴り響いた。
赤い非常灯が、一斉に点灯する。
ホール上部を走る直径五メートル近い主供給管が順次閉鎖され、巨大な電磁弁が腹の底に響くような衝撃音を立てた。
地下施設全体が、わずかに震える。
周囲では、高圧コンデンサ群が強制放電を開始していた。
太い冷却管から、大量の白い蒸気が噴き出す。
まるで巨大な鋼鉄の獣が、荒い息を吐いているようだった。
実験を維持していた数百台の大型装置が、次々と停止していく。
幾重にも重なっていた低い駆動音が、一つ、また一つと消えていった。
まるで――
この地下都市そのものが、ゆっくりと自らの鼓動を止めていくかのように。
中央実験槽へ流れ込み続けていた莫大なエネルギーが、段階的に断ち切られていく。
拳にも満たない未知の物質を目覚めさせるために。
人類は、この地下施設そのものを動かした。
そして今。
それを再び檻の中へ押し戻すために――
同じ施設のすべてを使わなければならなかった。
最後の緊急遮断シーケンスが作動する。
実験槽の周囲を覆っていた、肉眼ではほとんど捉えられない空間の歪みが、少しずつ薄れていった。
実験台の温度上昇が止まる。
宙に浮かんでいたガラス片が、次々と床へ落ちた。
空気が静まった。
スクリーン上のエネルギー曲線も急速に下降し――
やがて、安全閾値を下回った。
ホールに、静寂が戻った。
消え残った白い蒸気だけが、照明の下をゆっくりと漂っている。
まるで――
何も起こらなかったかのように。
培養槽内部の光も、ようやく完全に消えた。
それと同時に。
空気を押し潰すように満ちていた圧迫感も、ゆっくりと薄れていった。
真っ先にその場へ座り込んだ研究員が、防護マスクを外した。
肩を大きく上下させながら空気を吸い込む。
額からは、汗が止めどなく流れていた。
操作台へ身体を預けたまま、震える脚で立っている者もいた。
静まり返った培養槽を呆然と見つめ、いつまでも動けない。
別の研究員が、机へ拳を叩きつけた。
「……あと少しだったのに」
数か月にわたる努力。
最後の一歩を越えられるところまで来ていた。
それでも――失敗した。
研究員たちは黙ったまま、床に散乱した記録を拾い始めた。
割れた眼鏡を慎重に拾い上げる者もいる。
レンズは、真っ二つに裂けていた。
焼損した機器を前に、言葉を失っている者もいた。
どれも高価な装置だった。
それ以上に――その多くは、地球外技術を応用して改造された、代替の存在しない試作機だった。
歓声はない。
不満を口にする者もいない。
ただ。
死を免れた者たちだけが知る、重い沈黙がそこにあった。
中央制御盤の前で、トムはゆっくりと軍帽を脱いだ。
眉間を深く揉む。
再び封鎖された実験槽を、長いあいだ見つめた。
やがて、大きく息を吐く。
「記録はすべて封印する」
「本日の実験は、ここまでだ」
声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
それ以上に――
押し殺した苛立ちがあった。
あと一歩だった。
成功したと。
ほんの一瞬、本気でそう思った。
だが結局――失敗した。
それでも。
少なくとも、死者はいない。
トムは軍帽をかぶり直した。
表情から感情が消え、軍人の顔へ戻っていく。
「後方支援班は、設備の損傷状況を確認」
「理論班は全データを再解析しろ」
「実験は一時凍結する」
「再整備が完了次第、次の試験へ移る」
研究員たちが、低い声で応じる。
ホールは再び動き始めた。
装置を停止させる者。
記録を整理する者。
工具車を押して現場へ入り、損傷した機器を確認する者。
少しずつ。
実験室には、いつもの秩序が戻り始めていた。
まるで先ほどの異常事態など――
運よく大事に至らなかった、ただの事故にすぎなかったかのように。
ジョンもようやく、長い息を吐いた。
張り詰めていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
ふと両手へ目を落とす。
そこで初めて気づいた。
掌が、いつの間にか冷たい汗で濡れていた。
終わった。
少なくとも――今は。
ジョンは一度目を閉じ、乱れた呼吸を整えようとした。
だが。
そのわずかな静寂の中で――
ふと思い出した。
あの笑い声。
ジョンは目を開いた。
さっき。
主電源遮断レバーへ手を触れた、まさにその瞬間。
あれは再び現れた。
偶然にしては――出来すぎている。
まるで。
自分がそこへ手を伸ばすのを、ずっと待っていたかのように。
緩んだはずの肩が、再び強張る。
ジョンはゆっくりと顔を上げた。
沈黙した制御盤。
惨憺たる有様の実験ホール。
そして最後に――
視線は培養槽へ向かった。
何もない。
それでも。
安心することはできなかった。
あの感覚が、また戻ってきていた。
何かを見たわけではない。
何かを聞いたわけでもない。
ただ――
理性では説明できない警戒心だけが、身体の奥に残っている。
まだ終わっていない。
ジョンは振り返った。
まずは、今もフェイマンを庇うように伏せているナンシーを起こそうとした。
その瞬間だった。
培養槽の中央に――
光が灯った。
警告はなかった。
装置が再起動する音もない。
地下実験区の主電源は、間違いなく物理的に遮断されている。
それなのに。
言葉では形容できない青白い光が――
何の前触れもなく、あの物質の内側から溢れ出した。
音はなかった。
爆発もなかった。
ただ。
世界のすべてが――
純白に染まった。
ジョンは反射的に腕を上げ、目を庇った。
だが。
その光は――
瞼を通り抜けたのではない。
まるで直接、意識の中に生じたかのようだった。
視界が、白に呑み込まれていく。
そして。
すべての音が――
消えた。
次の瞬間。
耳を裂くような耳鳴りが、突如として鳴り響いた。
世界が回転する。
身体から、重さが消えた。
意識だけが――底のない深海へ沈んでいく。
音はない。
光もない。
上下も、左右もない。
ただ、言葉では形容できない静寂だけが、ゆっくりとすべてを呑み込んでいった。
自分が落ちているのか。
それとも、世界のほうが遠ざかっているのか。
ジョンには、もう分からなかった。
その時。
暗闇の中で――
何かが、目を開いた。
それが何なのか、ジョンには形容できなかった。
眼ではない。
生命ですらない。
むしろ、人間の認識そのものを超えた何かが、別の次元から――ゆっくりとこちらへ視線を落とした。
ただ、それだけだった。
それだけで。
ジョンの思考は、内側から崩れ始めた。
最初に意味を失ったのは――距離だった。
自分がまだ実験室に立っているのか。
それとも、尺度という概念すら成立しない何処かへ落ちてしまったのか。
分からない。
巨大な輪郭が幾重にも重なり合い――
さらに、その内側から別の輪郭がゆっくりと生えてくる。
山岳のようにも見えた。
都市のようにも見えた。
黒々とした巨大構造が、知覚の果てまで延びている。
その間には、用途の想像すらつかない柱状構造や、深い溝が無数に走っていた。
ある部分は、地層のように幾重にも積み重なり。
別の部分は、巨大な建造物群を思わせる規則的な輪郭を形作っている。
ジョンは、呆然とそれを見つめていた。
やがて。
その「山」の一つが――動いた。
ゆっくりと。
あまりにも、ゆっくりと。
巨大な稜線が持ち上がり――
再び沈んだ。
まるで。
呼吸しているかのように。
ジョンの身体が硬直した。
そこで初めて気づく。
あれは岩ではない。
山脈だと思っていた表面を覆っているのは、暗赤色と灰白色が複雑に入り交じった何かだった。
それらは互いに絡み合い。
幾重にも積層し。
目に見えない力に従って、ゆっくりと収縮している。
――筋肉。
大地を横断していた「峡谷」も、峡谷ではなかった。
その奥では、黒く粘性のある何かが流れている。
一度脈打つたび。
周囲の広大な「地表」が、それに合わせて隆起し――沈む。
そしてジョンは気づいた。
都市のように並んでいる、あの構造物も。
建物ではない。
血肉から――生えている。
巨大な灰白色の柱が、暗赤色の組織を突き破って伸びていた。
互いに交差し。
枝分かれし。
さらに高い場所で、再び連結している。
工学構造物を思わせるほどの精密さ。
その一方で。
そこには、生物の骨格だけが持つ不規則な湾曲があった。
――骨。
その認識が生まれた瞬間。
ジョンの胃が、激しく収縮した。
もし、あれが骨なら。
自分が今まで「都市」だと思っていたものは――
いったい、どれほど巨大なのか。
それ以上は考えたくなかった。
だが。
彼の恐怖など、そこに存在するものには何の意味もなかった。
さらに遠く。
平原だと思っていた領域が、突然裂けた。
数十もの巨大な裂け目が、一斉に開いていく。
その内部に、歯はなかった。
ジョンが知る、いかなる器官も存在しない。
ただ。
幾重にも重なった半透明の膜状組織が、深部でゆっくりと開閉を繰り返していた。
それが閉じるたび。
周囲の空間そのものが――ごくわずかに歪む。
吐き気にも似た感覚が、ジョンを襲った。
――呼吸している。
違う。
そう理解した直後。
さらに深い場所にある何かが、その判断を否定した。
「呼吸」。
それはただ――
人間の脳が、目の前で起きている現象に対して辛うじて与えることのできた、最も近い言葉にすぎない。
本当にそこで行われている現象には。
そもそも――対応する人間の言葉など存在しないのかもしれない。
ジョンは本能的に視線を逸らそうとした。
できなかった。
目を閉じようとする。
それすら、何の意味もなかった。
その時になって。
ようやく理解した。
自分は――
眼で見ているのではない。
それらは直接。
彼の意識の中に存在していた。
そして。
なおも深部へ向かって――展開を続けている。
血肉の下に、さらに構造がある。
構造の下には、また血肉がある。
ジョンの脳がその一部に、辛うじて理解可能な「形」を与えるたび。
次の瞬間には、その形そのものが崩壊した。
そして、その下から。
さらに巨大で。
さらに異質な何かが露出する。
山岳は、組織だった。
都市は、骨格だった。
河川は、脈打っていた。
そして。
あらゆる表面を覆っていた紋様までもが――
動き始めた。
文字ではない。
少なくとも。
最初は、そうではなかった。
紋様は血肉を這い。
骨格を渡り。
名づけることすらできない構造の表面を、ゆっくりと移動していく。
交差し。
分裂し。
再び結合する。
ジョンがそれを見つめていると――
脳内に、奇妙な「意味」が生まれ始めた。
どの言語にも属していない。
音ではない。
文章でもない。
口に出すことのできる、いかなる概念でもない。
それなのに。
自分が今――
それを「読んでいる」ことだけは、分かった。
その事実は。
眼前に広がるあらゆる血肉よりも――ジョンを恐怖させた。
なぜなら。
自分は――
理解し始めている。
「……やめろ」
本当に声が出たのか。
ジョン自身にも分からなかった。
「やめてくれ……」
何も応えなかった。
その直後。
すべての紋様が――
同時に停止した。
ジョンも動けなくなった。
尺度すら判断できない巨大構造のすべてが、その瞬間、完全な静止状態へ入った。
血肉の隆起が止まる。
「河川」の脈動が止まる。
裂け目の奥にあった膜状組織さえ――
半ば開いた状態で、静止していた。
何かが起きた。
ジョンには、それが何なのか分からない。
次の瞬間。
紋様が、再び動き始めた。
一つ。
十。
百。
千。
やがて――数えることすらできなくなった。
山岳のような血肉から。
都市のような骨格から。
そして、知覚の彼方にある――さらに遠い何処かから。
無数の紋様が。
ゆっくりと。
その向きを変えていく。
やがて。
そのすべてが――
たった一つの場所を指した。
自分。
ジョンの呼吸が止まった。
一つの認識が。
何の前触れもなく、意識の中へ生じた。
――気づかれた。
続いて。
もう一つ。
――あれは、自分が見られていることを知った。
その瞬間。
ジョンは初めて――本当の恐怖を知った。
死ぬことが怖いのではない。
ようやく理解したのだ。
これまで。
自分が「あれ」を観察していたのではない。
ただ――
「あれ」が今まで。
自分へ注意を向けていなかっただけなのだ。
次の瞬間。
幾重にも重なる巨大な輪郭の中央で。
何かが――
ゆっくりと。
こちらを向いた。
その姿を、ジョンは理解できなかった。
いや。
理解しようとした。
ただ、それだけで。
意識そのものが、激しく震え始めた。
眼前のすべてが歪む。
空間が――紙のように折り畳まれる。
時間が――水のように流れ去っていく。
無数の。
古く。
聞いたこともない囁きが――
あらゆる方向から、一斉に押し寄せた。
一つの言語ではない。
それなのに。
あらゆる言語であるようにも聞こえた。
それらは。
同じ発音を――
何度も。
何度も。
繰り返していた。
その音は、ジョンの知るいかなる言語にも属していなかった。
いや。
そもそも――
この世界の内側で、自然に生まれ得る「音」とすら思えなかった。
それなのに。
なぜか。
意味だけは――分かった。
まるで。
それが人類の言葉となるよりも遥か以前から。
人間という種の、最も深い場所に――
刻み込まれていたかのように。
ジョンは必死に、その音を聞き取ろうとした。
その時になって初めて。
両耳から――
血が流れていることに気づいた。
次の瞬間。
すべての光景が――
砕け散った。
世界は再び。
目を灼くほどの――
純白へと還った。
それが。
ジョンの意識が途切れる直前に見た――
最後の光景だった。
科学は、未知を既知へ変えてきました。
観測し、記録し、再現する。
そうして人類は、世界を少しずつ理解してきた。
けれど、もし――
観測するという行為そのものが、
向こうから観測されることを意味するとしたら。
それでも私たちは、未知を覗くのでしょうか。




