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ELUXIAN MYTHOS  作者: ムつKey
7/7

序章VII 遺光

「—————————————————————————!」


自分がまだ生きているのか。


それすら、分からなかった。


耳の奥には、鋭い耳鳴りだけが残っている。


音は次第に高くなり、細く、鋭く――頭蓋の内側へ食い込んでくる。


だが、やがてジョンは気づいた。


違う。


これは――耳鳴りではない。


誰かが、喋っている。


いや。


それすら違う。


言葉ではなかった。


無数の声が、同じ場所から同時に、直接頭の中へ流れ込んでくる。


重なり。


引き裂き合い。


互いを呑み込みながら、何かを訴え続けている。


人間には永遠に理解することのできない――何かを。


ジョンは必死に目を開いた。


世界は――すでに変わっていた。


実験ホールは、まだそこにある。


だが。


同時に――そこには存在していないようにも見えた。


頭上を縦横に走っていた鋼鉄の梁が、ゆっくりと湾曲する。


そして次の瞬間には、何事もなかったかのように元の形へ戻っていく。


太い冷却管は、まるで生命を宿したかのように、かすかに脈動していた。


地下施設そのものが――


呼吸している。


空間が。


見慣れないものへ変わっていく。


遠くで、誰かが走っていた。


出口へ向かっている。


だが、一歩踏み出すたびに、その身体はまったく別の方向へ現れた。


男は必死に走っている。


それなのに。


出口までの距離は、少しも縮まらない。


身体が――一枚の写真のように折り畳まれた。


見えない力によって引き延ばされ。


押し潰され。


そして、再び繋ぎ合わされる。


突然。


男の頭だけが――こちらを向いた。


身体は、なおも前方へ走り続けている。


その両眼だけが。


静かに。


ジョンを見つめていた。


次の瞬間。


顔が――溶け始めた。


燃えているのではない。


まるで蝋で作られた人形を、目に見えない何かが少しずつ指で拭い取っているようだった。


皮膚が。


筋肉が。


歯が。


輪郭を失いながら、ゆっくりと滑り落ちていく。


最後に残ったのは。


開閉を繰り返す――口だけだった。


だが。


悲鳴は、その口から聞こえてこなかった。


実験ホールの――反対側から響いていた。


別の研究員が床に膝をついていた。


両手で頭を抱え。


爪を立て。


自分の頭皮を、必死に引き裂いている。


まるで。


頭蓋の内側で――何かが育っているかのように。


傷口が裂けた。


しかし。


血は流れなかった。


代わりに。


淡い青色の光が――


細い糸となって、傷口から滲み出してきた。


光の糸はゆっくりと宙へ浮かび上がる。


空中を漂い。


何度か旋回し――


再び。


男の眼球へ潜り込んだ。


その瞬間。


男は、抵抗をやめた。


ゆっくりと。


立ち上がる。


その顔には――


ジョンには永遠に理解できないであろう笑みが浮かんでいた。


そして。


一歩。


また一歩。


培養槽の中央へ向かって、歩き始めた。


もう、見てはいけない。


そう思った。


見るたびに。


自分の中へ――


自分のものではない何かが増えていく。


それは映像ではなかった。


記憶ですらない。


ただ。


言葉では記述することのできない――何かの存在。


形などない。


それなのに、人間の脳は必死になって、それを既知の何かへ置き換えようとする。


山岳。


都市。


生命。


海洋。


理解しようとするたび。


頭蓋の内側から、脳を引き裂かれるような激痛が走った。


そこで。


ジョンはようやく理解した。


本当に恐ろしいのは――


「あれ」ではない。


人間には。


そもそも――


あれを理解する資格すらない。


突然。


襟元を掴まれた。


身体が動く。


いや。


引きずられている。


冷たい床の上を、少しずつ。


身体が擦れていく。


床の継ぎ目へぶつかるたび、骨が砕けたかと思うほどの痛みが走った。


ジョンは懸命に顔を上げた。


霞んだ視界の向こうに。


ようやく――その顔が見えた。


フェイマン教授だった。


身体の半分近くが、血に染まっている。


額からも絶えず血が流れ。


呼吸は荒く。


今にも倒れそうだった。


それでも。


フェイマンはジョンの襟を掴んだまま、離さなかった。


一歩。


また一歩。


緊急隔離区へ向かって進んでいく。


そして。


同じ言葉を――何度も繰り返していた。


ジョンへ言っているようにも聞こえた。


だが。


どこか別の場所にいる、別の誰かへ語りかけているようにも聞こえた。


「もう少しだ……」


「すぐ着く……」


「眠るな……」


声が、次第に遠くなる。


ジョンの意識も。


少しずつ――沈んでいった。


口を開く。


声が出ない。


聞きたいことがあった。


南希は。


教授は振り返らなかった。


それでも。


まるで、ジョンが何を尋ねようとしているのか、最初から分かっていたかのように。


長い沈黙のあと。


掠れきった声で言った。


「……彼女は、出られなかった」


胸の奥が。


一気に沈んだ。


フェイマンは歩き続けていた。


「光が出た時……」


「彼女は、私の前に立った」


ジョンは目を閉じた。


フェイマンの声は。


耳鳴りに呑み込まれそうなほど、小さかった。


「何も……残らなかった」


空気が。


突然、静かになった。


あまりにも静かで。


ジョンにはもう――分からなかった。


先ほどまで聞こえていた悲鳴が。


本当に存在していたものなのか。


それとも。


まだ自分の頭の中だけで――鳴り続けているのか。


なぜだろう。


突然。


まったく別の光景が、目の前に浮かんだ。


ずっと昔。


放課後の夕暮れ。


狭い路地。


何人かの上級生に、壁際まで追い詰められていた。


拳が。


何度も。


何度も降ってきた。


誰も助けてくれなかった。


通りかかった者たちは皆。


見て見ぬふりをして、遠巻きに通り過ぎていった。


ただ一人。


少年が、路地へ入ってきた。


何も言わなかった。


ただ。


倒れていたジョンを起こした。


肩を貸し。


一歩ずつ。


あの狭い路地の外まで、連れ出してくれた。


その後。


今度は、その少年が標的になった。


それでも。


彼は笑っていた。


大丈夫だ、と。


もう慣れているから、と。


そして。


しばらくして。


二度と――彼を見ることはなかった。


聞いた話では。


彼は――


自ら命を絶った。


なぜ。


こんな時に。


そんなことを――思い出す。


フェイマンはようやく、ジョンを緊急隔離装置まで運び込んだ。


厚い合金製のハッチは、すでに自動開放されている。


フェイマンは筐体の縁へ片手をつき。


激しく息を切らしていた。


指先から血が滴る。


一滴。


また一滴。


床へ落ちていく。


彼は残った力を振り絞るように、ジョンを隔離装置の中へ押し入れた。


身体が力なく滑り。


冷たい内壁へもたれかかる。


フェイマンはハッチへ手を掛けたまま。


俯いていた。


肩が。


荒い呼吸に合わせて、小さく上下している。


だが。


いつまで経っても。


次の一歩を踏み出そうとはしなかった。


ジョンは顔を上げた。


霞んでいく視界の向こうから。


老人を見つめる。


なぜだろう。


目の前にいるこの男が。


記憶の中にいる「先生」とは――


少し違って見えた。


どうして。


今まで――思い出さなかったのだろう。


あの眼を見ていると。


次々と。


別の記憶が戻ってきた。


大学の研究室。


何度も。


何度も。


彼に叱られた。


「お前は、私が教えた中で最低の学生だ」


その言葉だけは。


ずっと覚えていた。


なのに。


今。


別の記憶が――


潮のように押し寄せてきた。


同じ研究室。


全員が帰ったあと。


一人で実験データを整理していた夜。


誰かが。


机の上へ、紙袋を置いた。


「温かいうちに食え」


顔を上げた時には。


先生はもう――遠くへ歩いていた。


また、別の日。


論文を。


教授たち全員から否定された。


ただ一人。


フェイマンだけが。


赤い書き込みで埋め尽くされた原稿を、ジョンの手へ突き返した。


「書き直せ」


そして。


「その頭を無駄にするな」



まだある。


一つ。


また一つ。


数え切れないほど。


自分では。


そんなことなど、一度もなかったと思っていた。


それなのに。


今になって。


全部――戻ってくる。


どうして。


自分は。


叱られたことばかり覚えていたのだろう。


どうして。


こんなことを。


全部――忘れていたのだろう。


ジョンは。


ハッチの向こうに立つ、もうまともに立っていることすらできない老人を見つめた。


胸の奥に。


初めて覚える感情があった。


怒りではない。


悔しさでもない。


それは――


何年も遅れて、ようやく追いついてきた。


羞恥だった。


フェイマンが。


これほど近くから。


真正面にジョンを見ることは――


今まで一度もなかった。


老人は。


突然、笑った。


昔と同じだった。


教師が。


自分の教え子を見る時の――


あの笑い方だった。


ジョンは先生を見つめていた。


耳鳴りが。


ますます大きくなる。


声は途切れ。


遠ざかり。


それでも。


なぜか――


今までで一番、はっきりと聞こえた。


「やはり……」


フェイマンは、実験ホール中央で膨張を続ける青白い光を見た。


そして。


疲れ切ったように――小さく笑った。


「やはり……来たか」


「悪魔は……結局、私の手を使って……」


「あれを、ここへ連れてきた……」


ゆっくりと。


首を横に振る。


だが。


その眼差しだけは。


これまでのどの瞬間よりも――穏やかだった。


「それでも……」


「私は……」


「あれの奴隷には、なりたくない」


フェイマンはジョンを見た。


だが。


その眼差しは。


ジョンを通り越して――


遥か遠くにいる誰かを、見つめているようにも見えた。


「オルガ……」


「そうか……」


「君は……」


「ずっと、いなくなってなど……いなかったんだな」


やがて。


その視線が。


ゆっくりとジョンへ戻ってきた。


フェイマンは――微笑んだ。


「運命というものは……」


「本当に、奇妙だな」


「よりによって……」


「最後に私の後ろにいたのが……」


「お前だったとは」


老人は胸元へ手を入れた。


血に濡れた指が、微かに震えている。


そして。


ゆっくりと――


古びた銀色の懐中時計を、取り出した。


それは――


ずっと聖書の間に挟まれていた、あの懐中時計だった。


フェイマンは、擦り減った銀色のケースを指先でそっと撫でた。


声が、次第に小さくなっていく。


「その後……」


「姉は……やはり私を見つけた」


フェイマンは、かすかに笑った。


その笑みには、どこか後ろめたさが滲んでいた。


「姉は一度も……私を見捨てなかった」


「ずっと……私のほうが……」


「自分を閉じ込めていたんだ」


「姉から……逃げていた」


「嫌いだったわけじゃない……」


「会うのが……怖かった」


「私は……」


「姉に、あの頃の自分を見られるのが……怖かったんだ」


フェイマンは、静かに目を伏せた。


「それでも……」


「姉は何も言わなかった」


「ただ……私を……」


「無理やり本家へ連れ戻した」


老人は懐中時計を見つめていた。


遥か昔の光景を、その小さな銀色の表面に探しているようだった。


「そこには……いろいろなものがあった」


「石板」


「金属」


「種子」


「それから……」


一度、言葉を切る。


「あの……金色の液体」


「そして……」


「淡い青色をした……水晶の結晶が、一塊」


その時。


フェイマンの口元に、ようやく本当の笑みが浮かんだ。


「姉はな……」


「子供の頃から……少しも変わっていなかった」


「規則に反することを……こっそりやるのが好きでな」


「誰にも見つからないように……ほんの小さな欠片を折った」


「それを……私の手に押し込んだんだ」


フェイマンの指先が、懐中時計の縁をなぞる。


そして慣れた手つきで、装飾の中に隠された小さな留め金を押した。


――カチリ。


微かな音とともに、懐中時計が開いた。


そこに――写真はなかった。


代わりに。


爪ほどの大きさしかない結晶が、隠し蓋の内側へ埋め込まれていた。


淡い青色の光を、微かに湛えている。


「その後……」


「私はこれを……オルガの懐中時計に入れた」


フェイマンは俯いたまま、長い年月に擦り減ったケースをそっと撫でた。


「本当は……」


「勝手に持ち出したものなんだ」


「……彼女が、遺したものを」


苦い笑みが浮かんだ。


「知ったら……」


「きっと、また笑って……こう言うだろうな」


「『欲しいなら、持っていけばいいじゃない』って」


フェイマンは、青い結晶を収めた懐中時計を何度も撫でた。


「それからも……」


「私は、あれを夢に見た」


「あの……いろいろなものを……何度も見た」


「それでも……」


「少なくとも……」


「ようやく……眠れるようにはなった」


ふいに。


フェイマンが笑った。


まるで。


かつて教壇に立ち、学生へ講義をしていた頃のように。


「その後……」


「我々はようやく……石板の一部を解読した」


「最も頻繁に繰り返されていた……あの発音」


「セム語派に属する、いくつかの古い語根と……よく似ていた」


「特に……」


「古代ヘブライ語にな」


フェイマンは、ゆっくりと顔を上げた。


ジョンを見る。


「あれは……」


そこで。


一度、言葉を切った。


「とてもよく似た音なんだ……」


「EL」


「エル」


「――神」


ジョンは何も言わなかった。


だが。


フェイマンは静かに首を横へ振った。


「少なくとも……」


「後世の人間は、そう理解した」


視線が、再びあの記号へ落ちる。


古代北西セム諸語において、Elは極めて古い語である。


「神」を意味すると同時に、カナンやレヴァント地域の宗教伝統においては、神格そのものを指す固有の名として用いられた例もある。


後世のヘブライ語に残るEl、Eloah、そしてElohimにも、その長大な言語的系譜の痕跡を見ることができる。


だが。


言葉は、数千年を生き延びることがある。


その意味までが――同じように生き延びるとは限らない。


まして。


ある言葉の起源が、それを説明する文字体系よりも。


宗教よりも。


さらには――文明そのものよりも古いのだとすれば。


後世の人間に確認できるものなど。


結局は。


長い時間の中を生き残った――


その「音」だけなのかもしれない。


フェイマンは、しばらく黙っていた。


「人間は……」


「理解できないものを」


「そして、自分たちを遥かに超えるものを……」


「神と呼びたがる」


老人は目を上げた。


「だが、それで証明できるのは……」


「後世の人間が、それを神だと考えた――ということだけだ」


「それは……」


フェイマンは再び、あの記号へ目を向けた。


「――あれが、初めから神であったことの証明にはならない」


突然。


先生が、私の手を握った。


掌が――熱い。


それなのに。


ひどく震えていた。


「ジョン……」


「人は……」


「一人だけで……生きてはいけない」


「誰かが……必要なんだ」


「誰かが……」


「もう一人の人間が……」


「暗闇へ沈んでいく時……」


「手を伸ばして……」


「そこから……引き上げる」


「そして……」


「もう一度……」


「太陽を……見せてやるんだ」


私は必死に先生を見つめた。


だが。


その時。


耳元に――


別の声が聞こえた。


女の声だった。


優しく。


遠い。


まるで。


何十年もの時間を越えて、こちらへ届いたような声。


「生きて」


先生も言った。


「生きろ」


だが。


それはもう――


一人の声ではなかった。


一つ。


また一つ。


声が増えていく。


重なっていく。


男。


女。


老人。


子供。


無数の声。


まるで。


それぞれが異なる時代から語りかけているかのように。


それでも。


すべての声が。


同じ言葉を――繰り返していた。


「生きて」


フェイマンは。


懐中時計を、私の掌へそっと置いた。


そして。


一本ずつ。


私の指を――閉じていった。


「もう……」


「同じ過ちを……」


「繰り返すな……」


「生きろ」


懐中時計が掌へ触れた――


その瞬間。


世界から。


すべての音が消えた。


「—————————————————————————!」


フェイマンの手が。


ゆっくりと離れていく。


ジョンは呆然と、自分の掌に残された冷たい懐中時計を見つめた。


中央には。


あの淡青色の結晶が、静かに収められている。


そこから放たれる光は。


あまりにも弱い。


本来なら。


閉じたケースを透過して見えるはずなどなかった。


それなのに。


淡い青色の光は、金属も。


皮膚も。


その間にあるすべての物質を無視するかのように――


静かに。


ジョンの意識の奥底を照らしていた。


フェイマンは、そんな彼を見つめていた。


まるで。


最後の講義を、ようやく終えた教師のように。


やがて。


老人の顔に――


安堵にも似た、穏やかな微笑みが浮かんだ。


そして。


一歩、後ろへ下がる。


手を伸ばし。


隔離装置の横にある閉鎖スイッチを押した。


低い機械音とともに。


厚い防護扉が、ゆっくりと降り始める。


二人の間を。


まるで――


二つの世界を切り離すように。


その時だった。


ジョンは。


防護扉に設けられた細長い観察窓の向こうに――


見た。


フェイマンの背後。


そこに。


一人の女が――


静かに立っていた。


橙色に近い、赤みを帯びた長い髪。


女は何も言わない。


ただ。


穏やかな眼差しで――


フェイマンを見つめていた。


まるで。


ずっと。


彼を待っていたかのように。


フェイマンは。


振り返らなかった。


それでも。


彼女がそこにいることを――


初めから知っていたかのようだった。


老人は。


静かに目を閉じた。


そして。


もう一度――開いた。


その顔から。


恐怖は、完全に消えていた。


次の瞬間。


フェイマンの身体が――


少しずつ。


光へ変わり始めた。


燃えているのではない。


溶けているのでもない。


無数の微細な白い光粒が。


皮膚の表面から、静かに離れていく。


一つ。


また一つ。


重力すら忘れたように――


宙へ昇っていく。


老い。


疲れ切った、その顔も。


少しずつ。


向こう側が透けて見えるほど、淡くなっていった。


それでも。


最後まで。


フェイマンの笑みだけは――


変わらなかった。


隔離装置の。


細長い観察窓を挟んで。


ジョンはただ。


先生を見つめていた。


何度も自分を叱りつけた人。


「最低の学生だ」と、容赦なく言い放った人。


そして。


誰もいなくなった深夜の研究室で。


何も言わず。


温かい食事を置いていってくれた人。


ジョンは。


ただ――見ていた。


最後の一粒の光が。


静かに。


空気の中へ消えていくまで。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「神」とは何なのか。

そして、人はなぜ未知なるものに「神」という名を与えるのか。


光は、まだ何も答えてくれません。


次話――序章、完結です。

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