序章「胎動」V 妄執
時間だけが、音もなく過ぎていった。
地下実験施設には、昼も夜もない。壁に掛けられたデジタル時計だけが、この場所にも時間が流れていることを告げていた。
一週間が過ぎた。一か月が過ぎ、やがて二か月が過ぎた。
それでも、あの淡青色の物質は実験槽の中央に静かに浮遊し続けていた。崩壊することも、腐食することも、老化することもない。まるで時間という概念そのものが、それには何の意味も持たないかのようだった。
変わっていったのは、むしろ周囲のほうだった。
新型の電子顕微鏡が運び込まれては、ほどなく撤去された。分析装置が次々と設置され、何の成果も得られないまま、また解体されていった。実験記録は日を追うごとに増え、やがて書類棚を埋め尽くした。仮説が立てられては否定され、新たな理論がその後を追い、そしてまた崩れていった。
材料研究班は、それが既知のあらゆる合金を遥かに上回る強度を持ちながら、生体組織のように緩慢な構造変化を続けていることを突き止めた。生物研究班は、周囲から特定の有機物を能動的に取り込む現象を確認したものの、それを生命と定義できるだけの根拠を最後まで得られなかった。
エネルギー研究班も、電気、熱、磁場、放射線と、考え得る限りの刺激を繰り返し与えた。
時折、反応はあった。
だが、同じ条件で同じ現象が再現されることは、一度としてなかった。まるでその物質自身が、反応するか否かを選んでいるかのようだった。
理論班では、ほとんど毎日のように議論が紛糾した。既存の物理モデルは次々と破綻し、新たな数式が黒板を埋めては、その日のうちに消されていった。
誰にも、それが何なのか説明できなかった。
ただ一つ確かなのは、それが既知の意味における生命でも、単なる物質でもないということだった。
そのどちらにも属さない――あるいは、その境界そのものに存在する何か。
研究が停滞するにつれ、フェイマンはますます口数を減らしていった。
他の研究員たちが測定値を書き留め、結果について議論を交わしている間も、彼はしばしば隔離ガラスの向こうに立ち、淡青色の物質を黙って見つめていた。
まるで――いつか向こうから語りかけてくるのを、待っているかのように。
八か月が過ぎた。
それでも、研究に決定的な進展はなかった。
淡青色の物質は相変わらず実験槽の中央に浮遊していた。死ぬこともなければ、成長することもない。人為的な刺激にも、もはやほとんど反応を示さなくなっていた。
研究は、事実上の行き詰まりを迎えていた。
その状況が変わったのは、ある日の午前だった。
中央情報局の護送班が、厳重に封印された新たな試料を施設へ運び込んだ。
試料は、全長十センチにも満たない石英製のアンプルに収められていた。内部には数ミリリットルほどの、ほとんど無色に近い淡金色の液体が入っている。
ラベルはない。
記されているのは、手書きの識別番号だけだった。
会議室で、トムは簡潔に説明した。
「数日前、長期間封印されていた別の研究案件から移管された試料だ」
「当初の研究チームは、高エネルギー燃料の一種ではないかと考えていた」
「だが、その後の調査で、燃焼も爆発もしないことが分かった。火炎、高温、電流、放射線――何を加えても、目立った変化は起こらない」
一人の化学者が眉を寄せた。
「では、なぜ今まで保管されていたんです?」
トムはしばらく黙った。
「極めて特殊な条件下で、まれに――」
一度、言葉を切る。
「自発的にエネルギーを放出するからだ」
「発現条件は?」
「分かっていない」
会議室から、声が消えた。
フェイマンは何も言わなかった。
ただ、テーブルの上に置かれたアンプルを見つめていた。
それまで他の試料にはほとんど興味を示さなかった彼の視線が、その時だけは長く、そこに留まり続けた。
やがて、その眼差しの奥を――言葉では捉えきれない何かが、ほんの一瞬だけ過ぎった。
数日後。
生物研究班は通常の手順に従い、ごく微量の試料を隔離実験槽へ注入した。
誰も、大きな結果を期待してはいなかった。これまで何度となく繰り返してきた失敗に、もう一つ記録が加わる。それだけのはずだった。
だが、次の瞬間。
実験槽の中央で――
淡青色の物質が、わずかに震えた。
実験ホールから、一斉に声が消えた。
それはほんの小さな変化だった。だが八か月ものあいだ、ほとんど完全な沈黙を保ってきたものが、自ら動いた。
まるで長い眠りの底で――かつて知っていた何かの気配を、初めて感じ取ったかのように。
誰も口を開かなかった。
すべての視線が、隔離実験槽へ注がれている。
数十秒後。
淡青色の物質の表面から、髪の毛ほどに細い糸状構造がゆっくりと伸び始めた。
空中を探るように揺れながら、それは淡金色の液滴へ近づいていく。
そして――触れた。
その瞬間、実験槽全体が光を放った。
爆発ではなかった。
青白い、ひどく穏やかな光だった。
物質の内部から滲み出すように生まれた光が、ゆっくりと実験槽を満たしていく。
直後、すべての計測機器が一斉に警報を発した。
モニター上の数値が跳ね上がる。グラフが急激に形を変え、解析端末には新たなデータが凄まじい速度で流れ始めた。
「エネルギー値、上昇!」
「分子構造が再編されています!」
「代謝反応が始まった!」
「待って……」
一人の生物学者が、画面を見つめたまま動きを止めた。
「吸収しているんじゃない……」
その声が、わずかに震えた。
「――応答している」
誰も、何も言わなかった。
フェイマンはゆっくりと目を閉じた。
身体の脇に垂らされていた右手は、いつの間にか固く握り締められていた。
脳裏に、オルガが語った地下遺跡の光景が蘇る。
そして。
あの日、彼女が笑いながら口にした言葉も。
――「これは、人類史上最大の発見よ」
フェイマンの呼吸が、一度だけ大きく乱れた。
その変化に最初に気づいたのは、傍らにいたナンシーだった。
「フェイマン教授?」
呼びかけながら、彼女の表情から笑みが消えていく。
「大丈夫ですか? 少し休まれたほうが……」
返事はなかった。
フェイマンは再び目を開いていた。
ただ、あのアンプルを見つめている。
周囲の声など、もう何一つ耳に届いていないかのようだった。
ジョンは目を細めた。
彼が見ていたのは、試料ではない。
フェイマンだった。
この施設へ入って以来、恩師がこれほど明白に感情を乱したところを見るのは、初めてだった。
周囲では、すでに興奮した研究員たちがデータを交わし始めていた。モニターに張りつく者。何度も測定値を確認する者。早くも次段階の実験計画について議論を始める者までいる。
いくつもの声が重なり合い、実験ホール全体が――臨界点を越え、急激に回転数を上げた巨大な機械のように動き始めていた。
その中で。
フェイマンだけが、動かなかった。
ジョンは黙って彼を見つめた。
そして、奇妙な感覚を覚えた。
先生が見ているのは、あの試料ではない。
少なくとも――あれだけではない。
その眼差しは透明な隔離壁を越え、計測機器も、照明も、歓声を上げる研究員たちも通り過ぎて、そのさらに向こう――彼にしか見えない何かへ向けられているように思えた。
その時だった。
笑い声が聞こえた。
「ハ……ハハ……」
小さい。
最初は、どこから聞こえたのかさえ分からなかった。
そして、もう一度。
「ハハハハ……」
ジョンの背中が瞬時に強張った。
研究員の誰かではない。
少なくとも――彼には、そう思えた。
遠い場所から響いてくるようでいて、同時に耳の奥へ直接吹き込まれているようでもあった。低く、掠れ、ところどころ途切れている。
そこに喜びはなかった。
むしろ――耐え難い苦痛の果てに残された悲しみと、その悲しみさえ嘲笑うような残酷さが、奇妙に入り混じっていた。
そして突然、声が高くなった。
「ハハハハハ――」
ジョンは勢いよく振り返った。
何もない。
研究員たちは、依然として装置の周囲に集まっている。笑う者がいる。拍手する者がいる。今しがた得られたデータについて、大声で議論を交わす者もいる。
機器は正常に作動し、換気設備の低い駆動音が一定の調子で続いていた。
誰一人、異変に気づいた様子はない。
まるで――あの笑い声を聞いたのは、ジョンだけだったかのように。
ジョンは呼吸を整えた。
あの声を知っている。
教会の地下室。
あそこで聞いたものと――同じだった。
荒唐無稽な考えが、ほとんど意思に逆らうように意識の底から浮かび上がった。
まさか。
あの洞窟にいたものが、本当に先生について来たのか。
悪魔――。
その言葉が形を取った瞬間、ジョンは強引に思考を断ち切った。
違う。
ここは軍の研究施設だ。
隔離実験槽。分光計。各種センサー。コンピューター。
周囲にあるものはすべて、測定できる。記録できる。条件さえ整えば、再現することもできる。
ここに悪魔などいない。
ジョンは再びフェイマンへ目を向けた。
そして――動きを止めた。
フェイマンもまた、彼を見ていた。
忙しく行き交う研究員たちの向こうで、二人の視線が短く交わる。
フェイマンは何も言わなかった。
見慣れた顔には、ほとんど表情らしいものさえ浮かんでいない。
それなのに。
ジョンは初めて、その目をひどく見知らぬもののように感じた。
恐怖ではない。
悲しみとも違う。
それはまるで――
物語の結末をすでに見てしまった人間が、何も知らない周囲の者たちが始まりを祝う姿を、ただ黙って眺めているような眼差しだった。
ジョンは、その目の奥に答えを探した。
だが、フェイマンのほうが先に視線を逸らした。
それだけだった。
何も残さなかった。
ジョンはその場に立ち尽くした。
先ほどの笑い声が、まだ耳の奥にこびりついているような気がした。
疲労だ。
そうに決まっている。
フロリダからここまで休む間もなく移動してきた。睡眠も足りていない。そのうえ、教会の地下室であんな話を聞かされたばかりだ。
強い緊張状態に置かれた脳が、一時的に音を誤認したとしても、何ら不思議ではない。
少なくとも――
ジョンは、自分にそう言い聞かせた。
もう考えるな。
彼はフェイマンのいる方向から視線を外し、実験ホールの反対側へ歩き出した。
少し、一人になりたかった。
壁際には、研究員が短時間の休憩に使うための椅子が何脚か並べられていた。
そこへ向かうには、フェイマンの傍らを通らなければならなかった。
ジョンは足を止めなかった。一歩、また一歩と進むにつれ、二人の距離が縮まっていく。
すれ違おうとした、その時だった。
フェイマンが何かを口ずさんでいることに気づいた。
声は小さく、旋律と呼べるほど形のあるものでもない。何かを考え込んでいる人間が、記憶の底にある言葉を無意識のうちに節へ乗せている――そんな、途切れ途切れの鼻歌だった。
ジョンの歩調が、わずかに緩んだ。
いくつかの言葉が聞き取れた。
天使。
ラッパ。
燃える大きな星。
天から落ちる――。
ジョンの足が止まった。
その一節を、彼はよく知っていた。
『ヨハネの黙示録』。
第三の天使がラッパを吹く。すると、松明のように燃える大きな星が天から落ち、川々と水の源の上に落ちた。
そして、その星には名がある。
――苦よもぎ。
ジョンは振り返らなかった。
フェイマンも、口ずさむのをやめなかった。
聞き取れるかどうかというほど低い旋律が、背後からなおも続いている。
水は苦くなり。
そして、多くの人間が死ぬ。
ジョンはその場に立ち尽くした。
その時、実験ホールの反対側から新たな歓声が上がった。どうやら、また一つ測定結果の再現に成功したらしい。
拍手が起こる。
興奮した誰かが、フェイマンの名を呼んでいる。
その歓声と拍手のただ中で、フェイマンだけは――この世のどこにも存在しない歌を、静かに口ずさみ続けていた。
ジョンはゆっくりと目を閉じた。
数秒後、再び歩き始める。
振り返ることはなかった。
だが今度ばかりは、もう自分を納得させることができなかった。
先ほどから聞こえているものが、単なる疲労のせいなのだとは。
実験ホールの反対側まで歩き、ジョンはようやく壁際の長椅子へ腰を下ろした。
ここは中核実験区から少し離れている。幾重もの透明な隔離壁の向こうでは、研究員たちがなお試料の周囲に集まっていた。刻々と変化する数値と波形がガラス面に映り込み、その向こうを白衣姿の人影が絶えず行き交っている。
先ほどの歓声は、すでに収まりつつあった。
それでも、実験ホールを満たす興奮までは消えていない。
ジョンは眼鏡を外し、指先で眉間を押さえた。
だが、フェイマンの口ずさんでいた言葉だけは、どうしても頭から離れなかった。
燃える大きな星。
苦くなる水。
そして――あの名。
苦よもぎ。
「大丈夫?」
傍らから、女の声がした。
ジョンは目を開ける。
数歩先に、アンナが立っていた。胸元には記録用のクリップボードを抱えている。別の班から戻ってきたばかりなのだろう。白衣の袖は肘まで捲り上げられ、額にかかった数本の髪が汗で張りついていた。
「さっきから、ずいぶん顔色が悪いわよ」
「何でもない」
ジョンは眼鏡を掛け直した。
「少し疲れただけだ」
アンナは二秒ほど彼の顔を見つめた。完全に納得した様子ではなかったが、それ以上は追及しなかった。
隣へ腰を下ろし、クリップボードを膝の上に置く。
「まさか、こんなことになるなんてね」
ジョンが横目を向けると、アンナは実験区を見ていた。
「私たちは最初、あの淡青色の物質が何なのか、それを突き止めるだけのはずだったのに」
小さく笑う。
「今度は、それ以上に厄介なものまで送られてきた」
「君は、あれを何だと思う?」
「分かっていたら、今夜は残業しなくて済むわ」
アンナは笑って答えた。
だが、その笑みはすぐに薄れた。
「ただ、一つ気になることがあるの」
ジョンは黙って続きを待った。
アンナはクリップボードを開き、先ほど書き留めた数値へ目を落とす。
「普通の意味での試料とは、少し違うように見える」
「少なくとも今までの結果を見る限り、周囲の環境と絶えず何らかの相互作用を起こしている。温度、光量、電磁場……どれか一つを変えただけでも、観測値が追従して変化するの」
彼女は眉を寄せた。
「ただ、それが単なる物性なのか。それとも――別の何かなのか。まだ判断できない」
ジョンは再び実験区へ目を向けた。
透明な隔離容器の中で、新たに運び込まれた淡金色の液体は静かに横たわっている。
音もない。
動きもない。
肉眼で確認できる変化さえ、何一つない。
それなのに。
ジョンの脳裏には、先ほどのフェイマンの眼差しが蘇っていた。
あれは、科学者が未知の現象を前にした時の興奮ではなかった。
――先生は、あれを知っているのか?
思考が形を取った直後、ジョンは自ら否定した。
あり得ない。
もしフェイマンが以前から正体を知っていたのなら、なぜ何も言わない。
「ジョン?」
「ん?」
気づけば、アンナはすでに立ち上がっていた。
「私、戻るわ」
クリップボードを抱え、二歩ほど進んだところで足を止める。
「ああ、そうだ」
ジョンが顔を上げた。
アンナは実験区を振り返る。
「さっき、ハリソン将軍から電話があったそうよ」
「上は、この試料にかなり興味を示しているみたい」
軽く肩をすくめた。
「この調子だと、明日からは当初の予定どおりには進まないでしょうね」
そう言って軽く手を振ると、アンナは再び実験区へ戻っていった。
ジョンは何も答えなかった。
長椅子に一人残り、彼女の背中が白衣姿の人々の中へ紛れていくのを見つめる。
淡金色の液体を囲む人間は、少しずつ増えていた。
その一方で、淡青色の物質を調べていたいくつかの作業台からは、いつの間にか人影が減っている。
ジョンは、ふと気づいた。
あの液体がこの研究所へ運び込まれた瞬間から――すでに何かが変わり始めていたのかもしれない。
ただ、その変化が最後に自分たちをどこへ連れていくのか。
今はまだ、誰も知らない。
遠くでは、フェイマンが隔離槽の傍らに立ち続けていた。
今度はもう、ジョンのほうを見てはいない。
それでもジョンは、長いあいだ恩師から目を離すことができなかった。
翌日、プロジェクト全体の研究方針が変更された。
それまで未知物質の解析を個別に進めていた四つの研究班は再編され、一部は引き続き淡青色物質の挙動を監視し、残る人員は新たに搬入された淡金色液体の分析へ集中することになった。
新たな命令は明快だった。
成分を特定する。
反応の発現機構を突き止める。
そして――再現可能な形で複製する。
淡青色の物質が、依然としてバミューダ計画の中核であることに変わりはない。
だが、いつから存在していたのかさえ分からないこの淡金色の液体は、沈黙を続けてきたそれを目覚めさせる――最初の鍵となった。
それから、さらに数か月が過ぎた。
研究方針の変更後、各班は淡青色物質と淡金色液体の相互作用を中心に、実験計画そのものを一から組み直した。新たなデータが蓄積されるたびに、それまで有力視されていた仮説が修正され、時には根底から覆された。
それでも――決定的な突破口だけは、なかなか見つからなかった。
研究員たちは、当時の設備で実施可能なほぼすべての分析を試みた。
淡金色液体は、周囲の環境変化に対して極めて特異な応答を示した。しかし、そこから安定して再現可能な反応機構を切り分けることはできなかった。
淡青色物質も同様だった。
特定波長域の電磁放射、温度変化、外部電場――それらに対して微弱な応答を示すことはある。だが、研究員たちが条件と反応の因果関係を確定しようとすると、途端に測定結果へ説明のつかない偏差が現れた。
データだけが増えていった。
にもかかわらず、答えは少しも鮮明にならない。
やがて研究班は、単一の「発現条件」を探し当てようとする方針をいったん断念した。
代わりに採用されたのは、より地道で保守的な方法だった。
変数を一つずつ、段階的に拡張する。
そのすべてを記録し、可能な限り完全な応答データベースを構築する。
その日、フェイマン、ジョン、ナンシーの所属する班は、淡青色物質を対象とした第三段階応答試験の最終測定に入っていた。
実験に要した時間は、十四時間。
最後のデータセットが中央システムへ転送された時、壁面のデジタル時計はすでに午前零時を回っていた。
地上では、とっくに深夜を迎えている。
だが、地下の実験ホールでは変わらず照明が灯っていた。
観察窓の向こう。
淡青色の物質は、密閉された実験槽の中央に静かに浮遊している。
低温照明が頭上から落ち、その半透明の表面に、ごく淡い反射だけを残していた。
十四時間にわたる照射。
加熱。
冷却。
そして電磁刺激。
そのすべてが――まるで最初から存在しなかったかのように、何の痕跡も残していない。
計測機器には、数万点にも及ぶデータが記録されていた。
それでも、あれは変わらずそこにいた。
ただ沈黙している。
その沈黙が、どこか傲慢にさえ見えるほどに。
フェイマン、ジョン、ナンシーの三人は観察室へ戻り、それぞれその日の実験記録を整理していた。
室内は静まり返っている。
聞こえるのは、紙の上を走るペン先の乾いた音。
そして――空調設備が絶え間なく響かせる、低い駆動音だけだった。
ナンシーは、テーブルの向かい側に座っていた。
十数時間に及ぶ作業の疲れは、さすがに隠し切れなくなっている。きちんと後ろで束ねていた淡い褐色の髪もかなり緩み、数本の髪が頬へ垂れかかっていた。白衣の袖は無造作に肘まで捲られ、鼻梁には保護眼鏡に圧迫された薄い赤みが残っている。
彼女は最後の数値を書き終えると、自分の記録を数秒見つめた。
それから、長く息を吐く。
ペンを軽くテーブルへ放った。
「終わり」
ナンシーは椅子の背にもたれ、そのまま大きく伸びをした。肩がよほど凝っていたのか、途中で顔をしかめ、自分で首筋を揉みほぐす。
やがて、テーブルの残る二人へ目を向けた。
フェイマン。
そして、ジョン。
二人とも俯いている。
どちらも負けず劣らず、静かだった。
ナンシーは瞬きをした。
そして、思わず笑った。
「二人とも、いつもそんなに静かなんですか?」
返事はない。
フェイマンはなおデータを照合している。
ジョンに至っては、自分に向けられた質問だと気づいてすらいないようだった。
ナンシーは二秒ほど待った。
期待に満ちていた表情が、少しずつ呆れへ変わっていく。
唇を結び、小さく首を振った。
「はいはい」
再びペンを取り、指先でくるりと回す。
「どうりでみんな言うわけですね。お二人と一緒に仕事をしていると、空気まで堅苦しくなるって」
ジョンがようやく顔を上げた。
「そんなことを言う人間がいるのか?」
「もちろん」
ナンシーは笑いながら彼を見る。
「一人や二人じゃありませんよ」
それから少し声を潜め、フェイマンのほうへ目をやった。
「特に、フェイマン教授がいらっしゃる時は」
フェイマンのペンが止まった。
ナンシーは即座に背筋を伸ばした。
「教授、仕事に真剣で素晴らしいって意味ですよ」
フェイマンは顔を上げない。
「私は何も言っていない」
「だから怖いんですよ」
ナンシーは反射的に答えた。
言ってから、自分でも一瞬固まった。
ジョンも目を瞬かせる。
短い沈黙のあと、ナンシーはとうとう堪えきれず、俯いて笑い始めた。
ジョンの口元も、わずかに緩んだ。
フェイマンでさえ、張りつめていた表情がほんの少しだけ和らいだように見えた。
日付を越えた観察室に、初めて実験とは無関係な音が生まれた。
ジョンは再び記録へ目を落とした。
「仕事中なんだから、真剣なのは当然だろう」
「ほら」
ナンシーは両手を広げ、「やっぱり」とでも言いたげな顔をする。
「またそれ」
そして今度は、フェイマンへ向き直った。
「教授も、若い頃からこんな感じだったんですか?」
フェイマンのペンが止まった。
すぐには答えなかった。
ナンシーは笑ったまま返事を待っていた。
だが数秒が過ぎても、フェイマンは何も言わない。
その笑みが、少しずつ薄れていった。
「教授?」
ようやくフェイマンが目を上げた。
二人の視線が交わる。
ナンシーはわずかに首を傾げていた。瞳には先ほどまでの冗談めいた笑いが残っている。ただ、そこに少しだけ戸惑いが加わっていた。
フェイマンは、しばらく彼女を見ていた。
ほんのわずかな時間だった。
だが、こんな他愛もない問いに答えるには――少し長すぎた。
ジョンは、その変化に気づいた。
フェイマンの瞳の奥に長年沈殿していた疲労が、今の一瞬だけ、わずかにほどけたように見えた。
ナンシーの表情か。
それとも、先ほどの何気ない冗談か。
そのどちらかが偶然、長い年月の底へ沈んでいた記憶に触れたかのようだった。
「いや」
フェイマンが、ようやく答えた。
ナンシーが瞬きをする。
フェイマンは再び目を伏せ、まだ整理の終わっていない記録へ視線を落とした。
「昔は、私よりよく喋る人間がいた」
「本当ですか?」
ナンシーはたちまち興味を示した。
「それは相当ですね」
フェイマンの口元が、かすかに動いた。
「確かにな」
「奥様ですか?」
フェイマンの手が止まった。
今度は、そこに浮かびかけていた微かな笑みまでが静止した。
短い沈黙のあと、彼はゆっくりと首を横に振る。
「違う」
「友人だ」
声は小さかった。
まるでナンシーへ答えているのではなく、遠い昔の誰かへ語りかけているようだった。
ナンシーも、何かを察したらしい。
それ以上は尋ねず、ただ微笑んで頷いた。
「きっと、素敵な方だったんですね」
フェイマンは答えなかった。
視線は紙面に落ちたままなのに、ペン先はいつまで経っても動かない。
しばらくして。
いつも過剰なほど厳めしいその顔に、ようやく、ごく淡い笑みが浮かんだ。
「ああ」
「いい人だった」
少し間を置く。
「私などより、ずっとな」
ナンシーは微笑んだ。
今度はもう冗談を言わず、ペンを取り直して自分の実験記録へ戻った。
観察室は再び静かになった。
紙面を擦るペン先の音が戻ってくる。
ジョンも俯いていた。
ただし――彼のペンは、もうしばらく前から止まっていた。
フェイマンが誰のことを言っているのか。
ジョンには分かっていた。
オルガ。
数か月前、聖トマス教会の地下室で、フェイマン自身の口から聞かされた女の名だった。
長い年月、埋められてきた過去。
その後のフェイマンの人生を変えてしまった、エジプトでの調査。
そして――最後まで地下から生きて戻ることのできなかった女。
あの時と同じ表情が、再びフェイマンの顔に浮かんでいた。
ジョンはテーブル越しに、そっとナンシーへ目を向けた。
彼女はもう仕事へ戻っている。データを照合しながら、ペンの尻で軽く紙面を叩いていた。数字に引っ掛かれば眉を寄せ、誤りがないと分かれば、すぐにまた表情を緩める。
ジョンは、オルガに会ったことがない。
あの夜も、フェイマンは彼女の容姿について詳しく語らなかった。
ジョンにとってオルガとは、あくまで恩師の語った一つの名前だった。遠い過去から掘り起こされた、一片の記憶にすぎない。
だが――。
ナンシーを見つめているうちに、別の女の姿が不意に脳裏へ浮かんだ。
マヤ。
半年前、フェイマンの屋敷で初めて会った、あの若いメイド長。
唐突な連想だった。
ジョンはわずかに眉を寄せた。
記憶の中で、二人の女を改めて見比べる。
ナンシーとマヤは、似ていない。
容姿も、立場も、話し方も。
共通するものなど、ほとんどない。
だが――そうしたものをすべて取り除いてみると。
奇妙なほど、よく似た何かが残った。
マヤもそうだった。
フェイマンが長く黙り込んでいれば、何でもない話を持ち出した。本人さえ気に留めていないような細かな生活習慣を覚えていた。そして、広すぎるほど広く、静かすぎるほど静かなあの屋敷に――人が暮らしているという気配を、いつも何気なく取り戻していた。
先ほどのナンシーも、同じだった。
十数時間に及ぶ実験で、誰もが疲れ切っている。
それでも彼女は伸びをして、くだらない冗談を一つ口にして、黙り込んでいる二人の男から何とか言葉を引き出そうとした。
顔ではない。
年齢でもない。
もっと――うまく言葉にできない何か。
ジョンのペンが、ゆっくりと止まった。
半年前には一度も真剣に考えなかった可能性が、初めて意識の中に浮かび上がる。
――まさか。
フェイマンがマヤを傍に置いていた理由は、最初から自分が考えていたようなものではなかったのか。
半年前、初めてマヤを見た時。
ジョンは恩師について、あまり品のいいものとは言えない推測をしていた。
年老いた独身の男。
街から離れた広大な屋敷。
そして、若く美しく、主人から深い信頼を寄せられているメイド長。
それらを並べれば、ある種の答えへ辿り着くのは容易だった。
少なくとも、当時のジョンにはそう思えた。
フェイマンには、若い女に対する何らかの嗜好があるのではないか。
そんなことさえ疑った。
そして後に――
ジョンは、それを利用した。
いや。
より正確に言えば。
マヤを、利用した。
ジョンはもう一度、ナンシーを見る。
それから、フェイマンへ。
老人はすでに報告書の続きを書いていた。
ペン先は一定の速度で紙面を走っている。先ほどの短い失神など、最初から存在しなかったかのように。
だが、ジョンのペンは動かなかった。
そこで初めて、彼は気づいた。
自分は、因果をまるごと取り違えていたのかもしれない。
フェイマンが惹かれていたのは、おそらく「若さ」ではない。
特定の容姿ですらない。
――ある種の人間だった。
オルガを思い出させる、何かを持った人間。
その推測は、ジョンの胸に形容し難い不快感を残した。
もしそうなら。
半年前の出来事も、まるで違った意味を帯びてくる。
自分は恩師の人には言えない弱点を見抜いたのではなかった。
むしろ逆だ。
自分には何一つ理解できていなかった感情を目にして、それを最も理解しやすく――そして最も利用しやすい形へ、勝手に読み替えただけだった。
そのうえで。
別の人間の感情まで、情報を得るための手段に変えた。
ジョンの指が、ペンの上で止まった。
あの時のマヤの表情が、不意に鮮明に蘇った。
それ以上は、考えなかった。
観察室は変わらず静かだった。
ナンシーが書いている。
フェイマンも書いている。
ただ、ジョンの前に置かれた報告書だけが――長いあいだ空白のままだった。
やがて彼は小さく息を吐き、再びペン先を紙面へ落とした。
さらさらと、三人分の筆記音が重なった。
しばらくして。
ナンシーが観察窓の向こうを見ながら、ぽつりと言った。
「このプロジェクトが終わったら……」
少し考え、それから急に笑った。
「みんなで一度、遊びに行きません?」
ジョンが顔を上げる。
「どこへ?」
「ラスベガス」
答えは即座に返ってきた。
「美味しいものを食べて、お酒を飲んで、それからショーを観るの」
指を折りながら数え、さらに付け加える。
「まだ元気が残ってたら、カジノで少しだけ遊ぶ」
そして念を押すように人差し指を立てた。
「もちろん、本当に少しだけですよ」
ジョンは彼女を見た。
「それが君の祝賀計画か?」
「他に何があるの?」
ナンシーは椅子の背にもたれ、長く息を吐いた。
「私たち、いったい何か月この穴蔵に閉じ込められてると思ってるの」
観察窓の向こうへ目をやる。
「全部終わったら、一日くらい普通の人間みたいに過ごしたっていいでしょう?」
そう言って、今度はフェイマンを見る。
「教授も来てくださいね」
フェイマンは顔を上げなかった。
「私は賭博はしない」
「誰も賭けろなんて言ってませんよ」
ナンシーが吹き出す。
「食事、お酒、ショー。どれか一つくらいはできるでしょう?」
フェイマンは数秒黙った。
「……食事なら、おそらくできる」
ナンシーが声を上げて笑った。
「その時は白衣もなし。報告書もなしです」
「ようやく家に帰れるんですから、そのお祝いですよ」
ジョンが淡々と言った。
「プロジェクトが終われば、私は別の任務に回される可能性がある」
ナンシーは唇を尖らせた。
「あなたって、本当に面白みがないわね」
そして、もう一度フェイマンへ向く。
「教授は?」
フェイマンは答えなかった。
観察窓の向こう。
淡青色の物質を、じっと見つめていた。
長い沈黙のあと。
ようやく、口を開く。
「もし……」
「本当に、終わるのならな」
ナンシーは一瞬きょとんとした。
「終わりますよ」
「いつか必ず、成功します」
フェイマンは小さく首を横に振った。
その声は、ほとんど聞き取れないほど低かった。
「一度始まってしまえば――終わらないものもある」
そこで言葉を切った。
視線が、実験台の上に置かれた空のアンプルへ落ちる。
「私は、あれを完成させなければならない」
ジョンが顔を上げた。
その一言とともに、教会の地下室に淀んでいた湿気と薄暗さが脳裏に蘇った。
――あれが、この仕事を完成させろと言っているからだ。
ジョンは何も言わなかった。
ただ、恩師を静かに見つめていた。
フェイマンは空になったアンプルを見ている。
長い時間が過ぎた。
やがて、ぽつりと言った。
「ずっと昔――」
「ある人から、一つのものを託された」
「私は、その人に約束した」
「いつか――」
「この目で、答えを見ると」
それだけ言うと、再び顔を伏せた。
何事もなかったかのように、報告書の続きを書き始める。
ナンシーは何も言わなかった。
教授が口にした「その人」が、きっと彼にとって大切な存在なのだろう。
それくらいは察した。
だが、尋ねなかった。
ただ、柔らかく笑った。
「じゃあ、全部終わったら――」
「やっぱり、みんなで食事に行きましょう」
「その時は、その人の話も聞かせてください」
フェイマンは答えなかった。
ただ、紙面の片隅を見つめていた。
そこには、いつ書いたのか。
彼自身にも分からない二つの文字が残されていた。
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フェイマンはしばらく、それを見つめた。
そして――
掌で静かに擦り消した。
観察室は、再び沈黙に戻った。
窓の向こうでは。
淡青色の物質だけが、変わることなく静かに浮遊していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回のタイトルは「妄執」。
『ヨハネの黙示録』に記された、燃える大きな星――「苦よもぎ」。
今回は、そんな古い言葉を少しだけお借りしました。
次回もよろしくお願いいたします。




