序章「胎動」IV 境界
灼けつくような太陽が、空高く照りつけていた。
ネバダの荒野は、炎に炙られた海のようにどこまでも広がっている。黄褐色の砂礫が地平線の果てまで続き、遠くの山稜は猛烈な熱気の中でかすかに揺らいでいた。空気そのものが熱で歪んでいるかのようだった。
時折、砂塵が舞い上がるほかには、この大地に生命の営みを思わせるものはほとんどない。
その中を、一台の深緑色のセダンが、どこまでもまっすぐに延びる道路を孤独に走っていた。
エンジンは低く安定した音を響かせ、タイヤがアスファルトを噛む単調な摩擦音が一定のリズムで続いている。
運転席では、ジョンが両手でしっかりとハンドルを握り、ただ前方を見据えていた。一言も発しない。
助手席には、三十代前半と思われる金髪の女性が座っていた。
淡いグレーのスーツを身につけ、胸元には機密管理番号の記された身分証を下げている。長い金髪は簡素に後ろで束ねられ、その顔には終始、人当たりのよい微笑みが浮かんでいた。
ナンシー。
フェイマンを研究区域まで案内するために派遣された連絡担当官だった。
今朝早く、彼女は命令を受けてネリス空軍基地へ向かい、軍用機で到着したばかりのフェイマンを出迎えた。その後ジョンと合流し、新たに計画へ加わることになった科学者を、本当の研究施設へと送り届けることになっていた。
道中、ジョンはほとんど口を開かなかった。
代わりにナンシーが、ときおり沿道のことを説明したり、基地で起きたちょっとした出来事を話したりして、重苦しい車内の空気を少しでも和らげようとしていた。
だが、彼女がいくら話しかけても、運転席のジョンは終始穏やかな表情を崩さない。
後部座席のフェイマンも、ときおり相槌を打つ程度で、ほとんどの時間を窓の外を眺めながら過ごしていた。
何を考えているのかは、わからない。
後部座席で、フェイマンは両手の指を組み合わせ、それを額に軽く押し当てたまま俯いていた。
一言も発さない。
唇だけが、かすかに動いている。
祈っているようにも見えた。
だがジョンは知っていた。
かつてあれほど敬虔なキリスト教徒だった男が、いま誰に向かって祈っているのか。
おそらく、本人にさえわかっていない。
車はそのまま西へ走り続けた。
どれほど時間が経っただろう。
やがて地平線の向こうに、高い金網のフェンスが姿を現した。
道路の中央には、一枚の警告板が立っている。
U.S. AIR FORCE RESTRICTED AREA
――米空軍制限区域。
その脇には、赤く目立つ文字でさらに警告が記されていた。
NO TRESPASSING
(立入禁止)
USE OF DEADLY FORCE AUTHORIZED
(必要に応じて致死的武力の行使を許可)
すでに数名の武装憲兵が待機していた。
車が停止する。
身分証の照合。
本人確認。
車体下部の検査。
一つが終われば、すぐに次へ。
余計な言葉を口にする者は誰もいなかった。
やがて、重い鉄製ゲートがゆっくりと左右に開いていく。
ナンシーはハンドバッグからガムの包みを取り出すと、笑顔でセンターコンソールの上に置いた。
「このあと、もっと地下まで降りますから。耳が少しつらくなるかもしれません。噛んでおくと楽ですよ」
ジョンは一枚手に取り、小さく答えた。
「ありがとう」
フェイマンもそれに目を落とした。
どこにでも売っている、ごく普通のミントガムだった。
少し迷ったあと、彼も一枚手に取る。
「ありがとう」
声は小さかった。
普段の彼にある、他人を寄せつけない響きもなかった。
ナンシーは笑った。
「教授って、私のおじいちゃんに似てますね。『ありがとう』を言うとき、いつもそんなに真面目なんです」
フェイマンはわずかに目を見開いた。
そして無意識のうちに、その口元にごく淡い笑みが浮かぶ。
ほんの一瞬。
目の前の笑顔が、記憶の中にある別の誰かの面影と静かに重なった。
だが、それも一瞬だけだった。
フェイマンは再び俯き、それ以上何も言わなかった。
車が再び動き出す。
第一警戒線を抜けると、やがて巨大な金属製格納庫が三人の前に姿を現した。
外から見れば、砂漠に建つ何の変哲もない航空機格納庫にすぎない。
ジョンはそのまま車を中へ進めた。
車が所定の位置で停止すると、背後の鋼鉄製シャッターがゆっくりと降りていく。
完全に閉じた、その直後。
格納庫全体が、かすかに震えた。
フェイマンがゆっくりと顔を上げる。
足元の地面が、下降していた。
いや。
正確には、車が地下へ入っていくのではない。
格納庫そのものが、巨大な昇降プラットフォームになっているのだ。
周囲のコンクリート壁がゆっくりと上方へ流れていく。
頭上の照明は次第に遠ざかり、代わりに冷たい鋼鉄の構造材と、幾重にも交差する配管が姿を現した。
ジョンは黙ったまま計器盤を見つめている。
高度表示が下がり続けた。
三十メートル。
六十メートル。
九十メートル。
百メートルを超えたところで、ようやく昇降プラットフォームが停止した。
正面には、異様なほど分厚い合金製の隔壁が待ち構えていた。
二度目の本人確認が始まる。
虹彩。
指紋。
暗証番号。
ワンタイムコード。
一つの認証が終わるたび、間を置かず次の手順へ移る。
数分後。
重厚な隔壁が、ゆっくりと開いた。
その向こうに現れたのは、数台の大型トラックが横に並んだまま走れるほど広い、地下道路だった。
ジョンは再びアクセルを踏み込んだ。
道路はしばらく緩やかな下り勾配を描き、
やがて水平になる。
そしてそのまま――
さらに深い地底へと続いていた。
道中、いくつもの分岐路が現れた。
一定の距離を進むたびに、異なる番号が振られた巨大な合金製の隔壁が姿を見せる。
車は何度も角を曲がった。
もはや、どちらの方角へ進んでいるのかさえわからない。
ナンシーは窓の外を流れていくトンネルを眺めながら、ふと笑った。
「初めて来た人は、たいていここがエリア51だと思うんです」
彼女は振り返り、後部座席を見た。
「でも、違います」
「地上にあるエリア51は、いわばカモフラージュにすぎません」
ナンシーは再び前方へ視線を戻した。どこまでも続くトンネルを眺めながら、相変わらず軽い調子で話を続ける。
「ここ数年、ソ連はアメリカがこの砂漠で何を研究しているのか、ずっと探ろうとしてきました」
「だから、彼らが見たがっているものを、こちらから見せてあげるんです」
小さく笑う。
「滑走路の実験機、大型格納庫、それに、ときどきわざと目につくように行われる飛行試験……あれもかなりの部分が、偵察衛星や偵察機の注意を引きつけるための囮です」
「本当に次世代技術を研究している施設は、そこにはありません」
少し間を置いて、ナンシーはフェイマンを振り返った。
「私たちがこれから向かう本当の施設は――エリア53と呼ばれています」
「エリア51は、いくつかある地下入口の一つにすぎません。それも機密区分が最も低く、核心部から最も離れた入口です。ここから入っても、中枢区画まではまだ数時間かかります」
ナンシーは肩をすくめ、少しいたずらっぽく笑った。
「まあ、ずっとこんな退屈な道が続くわけでもありませんけどね。途中には決まった休憩所がありますし、少なくともコーヒーは飲めます」
フェイマンは窓の外を流れていく照明に一瞥を向けただけだった。
驚いた様子はない。
「偽物を日の当たる場所に置き、本物は地下へ隠す」
かすかに笑う。
「冷戦という時代では、最も安上がりで、最も効果的な手品だな」
ナンシーは一瞬きょとんとしたあと、笑いながら首を振った。
「教授には、何も隠せそうにありませんね」
フェイマンは車窓の向こうを高速で流れていくコンクリートの壁を眺めた。
アーチ状のトンネル天井には白熱灯が等間隔に埋め込まれ、冷たい光を路面へ均一に落としている。
壁には一定の間隔で、黄色い区画番号や方向指示が大きく塗装されていた。
B-17
AUTHORIZED PERSONNEL ONLY
――許可された職員以外、立入禁止。
REPORT SECURITY VIOLATIONS
――保安規則違反を報告せよ。
SILENCE SAVES LIVES
――沈黙が命を守る。
ところどころには、冷戦期らしいプロパガンダ・ポスターまで貼られていた。
防護服を着た兵士が星条旗を背に立ち、その下には一行の標語が印刷されている。
Freedom Demands Vigilance.
――自由には警戒が必要だ。
さらに先には、太い黒文字でこう記されていた。
Remember: The Enemy Is Always Watching.
――忘れるな。敵は常に見ている。
フェイマンは次々と後方へ消えていく標語を静かに眺めていた。
その口元に、ほとんど気づかれないほどの笑みが浮かぶ。
冷戦。
プロパガンダ。
秘密基地。
最高機密の研究計画。
人類の長い歴史から見れば、それもまた舞台を変えただけの権力ゲームにすぎない。
「まったく、無駄なことをする」
フェイマンがぽつりと言った。
「これほどの規模の地下施設を、現在の人類の技術だけで建設するのは、ほとんど不可能だ」
「費用の面でも、工学的な能力の面でもな」
彼は窓の外へ目を向けたまま続ける。
「どうやらロズウェル事件のあと、アメリカはずいぶんと多くの“助力”を得たらしい」
ナンシーは答えなかった。
フェイマンは構わず続けた。
「私は最初から、人類が自分たちを遥かに凌駕する文明の技術を、わずか数十年で完全に解析できるなどとは思っていない」
「ならば……」
ゆっくりと目を上げる。
「あの地球外生命体は、まだ生きているんだろう?」
車内の空気が、一瞬だけ止まった。
ナンシーの笑みがわずかに薄れる。
だが、否定はしなかった。
フェイマンは前を向いたまま言葉を続ける。
「ここを設計したのは、アメリカ人ではない」
「そいつだ」
「なぜ、人類に手を貸す?」
「なぜ、自分の母星へ帰らない?」
「そしてなぜ――こんなものを我々に与える?」
声が次第に低くなっていく。
「恒星間を渡ることのできる文明が、何の目的もなく別の文明を助けるなど、私は信じない」
そのとき。
これまでずっと黙っていた運転席のジョンが、ようやく口を開いた。
「もしかすると……」
わずかな間。
「亡命者なのかもしれません」
フェイマンが横目を向ける。
ジョンの視線は前方から動かなかった。
トンネルの先には、相変わらず深い闇だけが続いている。
数秒の沈黙のあと。
ジョンは淡々と言った。
「もし本当にそいつが自らの文明を裏切り、その技術を地球に残したのだとしたら」
「いずれ、その文明はここを見つける」
ジョンの声には、わずかな抑揚すらなかった。
まるで、いつか必ず起こると決まっている事実を述べているかのようだった。
「その日が来たとき、人類が生き残れるとすれば、それは善良だからじゃない」
「十分な力を持っているからです」
ジョンはハンドルを握る手に、わずかに力を込めた。
「だからこそ、我々にはバミューダ計画が必要なんです」
「誰かを侵略するためじゃない」
「誰かに自分たちの運命を決められる前に――こちらが相手の運命を決められるだけの力を手に入れるためです」
車内が静まり返った。
ジョンは続けた。
「この世界は、愚かな善人のためにあるわけじゃない」
「より強い者のためにある」
「戦争が避けられないのなら」
「戦争そのものを終わらせればいい」
ナンシーが横目で彼を見た。
「どうやって?」
ジョンは振り向かなかった。
そのまま淡々と言葉を続ける。
「歴史は弱者に報いたりしない。ただ淘汰するだけだ」
「文明と文明の間に、善意なんてものはない」
「あるのは力だけです」
前方を見据えるその目は、冷淡なほど静かだった。
「だから、バミューダが最後に対峙する相手が地球外文明であろうと、人類自身であろうと――」
「計画は必ず完成させなければならない」
「平和を最後に決めるのは、交渉じゃない」
「最後の一発を持っているのが誰かです」
ジョンがそう語るあいだ、フェイマンは隣の空席をじっと睨みつけていた。
そこには誰もいない。
それでも、その目はまるで憎むべき仇敵を見据えているかのようだった。
やがてフェイマンはゆっくりと目を閉じ、自分にしか聞こえないほどの声で呟いた。
「お前の仮説は正しかった……だが、存在していただけだった……」
ナンシーは果てしなく続くトンネルの先を見つめながら、小さく尋ねた。
「もし、いつか彼らがバミューダより強力な兵器を造ったら?」
ジョンは考える素振りすら見せなかった。
「それより強いものを造る」
ナンシーは少し黙ってから、もう一度尋ねた。
「それでも、また追いつかれたら?」
ジョンの声は変わらない。
感情の揺れは、どこにもなかった。
「なら、また引き離せばいい」
「向こうが一つ造るなら、こちらは二つ造る。向こうが一歩先へ出るなら、こちらは十歩先へ行く」
前方を見据えたまま、その目には一片の迷いもない。
「二度と、どんな文明にも我々へ武器を向ける気を起こさせないところまで」
再び、車内を沈黙が満たした。
そのとき。
フェイマンが小さく笑った。
嘲笑ではなかった。
かといって、同意でもない。
そこにあったのは、言葉では言い表せないほど深い疲労だけだった。
俯いたまま、彼は呟く。
「まるで……あの洞窟で見た光景そのものだ」
視線が、ゆっくりと自分の掌へ落ちる。
「燃える空」
「地獄のように灼けた大地」
「誰もが必死に走っていた」
「終わりなどない」
「勝者もいない」
そう言いながら、フェイマンはバックミラー越しにジョンを見た。
教師が教え子を見るときの、あの馴染み深い眼差し。
ただ、なぜか今回は、いつもより少しだけ長くそこに留まっていた。
「血を吐きながら、それでも必死に前へ走る」
「遅れた者は死ぬ」
「だが、先頭を走る者も立ち止まれない」
フェイマンは苦々しく笑った。
「まるで、永遠に終わらないオリンピックだ」
「ただし、優勝者が手にするのはメダルじゃない」
「次の戦争に参加する資格だ」
車内は再び沈黙に包まれた。
聞こえるのは、絶え間なく続くエンジンの低い唸りだけ。
トンネル天井の照明が、一つ、また一つと頭上を通り過ぎていく。
明と暗が交互に訪れ、そのたびに三人の顔を光と影が横切った。
ジョンの表情は、変わらず冷静だった。
ナンシーは前を向いたまま、その瞳の奥に一瞬だけ、複雑な色を浮かべた。
車はなおも進み続けていた。
さらに深く、さらに暗い地下へ。
どれほど走っただろう。やがて前方に、それまでとは明らかに異なる合金製の隔壁が姿を現した。
高さは十メートル近い。表面には番号すらなく、刻まれているのは浮き彫りにされたアメリカ国防総省の紋章と、冷たく簡潔な一文だけだった。
AUTHORIZED PERSONNEL ONLY
――許可された職員以外、立入禁止。
車がゆっくりと停止する。
窓の外では、完全武装した二人の憲兵が歩み寄ってきた。質問もなければ、会話もない。ただ無言で身分証を照合し、携帯端末で三人の認証票を一人ずつ読み取っていく。
確認を終えると、そのうちの一人が小さく頷いた。
巨大な合金製隔壁が、重々しい駆動音とともに左右へ滑り始める。開いた隙間から、トンネル内よりもさらに冷たい空気が流れ込んできた。
ジョンは再びアクセルを踏んだ。
車が隔壁を越える。
その瞬間、視界が一気に開けた。
そこはもう、ただの輸送用トンネルではなかった。
地底深くに隠された――
巨大な地下都市だった。
広大な幹線道路が四方八方へ伸び、輸送車両が絶え間なく行き交っている。その傍らでは、軌道式の搬送プラットフォームや自動輸送システムが、寸分の乱れもなく稼働を続けていた。
遠方には巨大な鋼鉄構造物が幾重にも連なり、互いに複雑な配管で結ばれている。頭上には太いパイプラインが走り、壁面を這う数え切れないほどのケーブルは、そのまま視界の果てへと消えていた。
ときおり、白衣姿の研究員と軍服姿の警備兵がすれ違う。誰もが足早に歩き、立ち止まって言葉を交わす者は一人もいない。
ここには、昼もなければ夜もない。
あるのは、決して消えることのない人工の光と、絶え間なく動き続ける機械だけだった。
ナンシーが小さく笑った。
「エリア53へようこそ」
ジョンは車を〈Sector-53 / Laboratory Delta〉と表示された施設へゆっくりと乗り入れた。
車が停止すると、三人はドアを開けて降りる。彼らを待っていたのは研究室ではなく、幾重にも設けられた厳重なセキュリティ・チェックだった。
身分登録、機密保持誓約書への署名、虹彩と指紋の登録、そして所持品検査。腕時計、万年筆、ライターはもちろん、ポケットの中の小銭に至るまで、すべてが回収され、封印された。
その後、職員に案内されて隔離区画へ入る。支給された研究服に着替え、改めて身分証を装着し、さらに身体検査と放射線検査を受けた。すべての手続きが終わった頃には、すでに三時間以上が経過していた。
その間、プロジェクトそのものについて口にする者は一人もいなかった。
廊下は、足音だけが響くほど静かだった。ときおり白衣姿の研究員とすれ違っても、互いに軽く会釈を交わすだけで、そのまま足早に去っていく。
やがて、一人の警備兵が三人の前に立った。
「教授、こちらへ」
最後のセキュリティ・ゲートが解除される。三人が乗り込むと、昇降プラットフォームがゆっくりと動き始めた。
上昇すること十数秒。
低い機械音とともに、分厚い合金製の扉が左右へ開いた。
その向こうにあったのは、想像していたような狭い研究室ではなかった。
――息を呑むほど巨大な地下ホールだった。
ジョンは思わず足を止めた。
今の自分に与えられた権限なら、この国の最も深い秘密まで、すでに見てきたつもりだった。だが今日、初めて気づいた。
これまで自分が触れてきたものなど、海面に覗く氷山の一角にすぎなかったのだ。
地下ホールは、天井まで数十メートルはある。一見しただけでは研究施設には見えない。むしろ、何か一つのものを維持するためだけに造られた巨大な地下工場――そう呼ぶほうが近かった。
直径五メートル近い銀灰色のパイプが数十本、鋼鉄の血管のように天井を縦横に走り、四方へ伸びている。巨大な冷却設備、変圧設備、壁際を埋め尽くす高圧コンデンサ・バンク。束ねられた太い電力ケーブルは床から天井へと這い上がり、そのまま分厚いコンクリート構造の奥へ消えていた。
低い轟音が、絶えず空間全体を満たしている。
一台の機械が発している音ではない。数百台もの大型設備が同時に稼働することで生まれる共振だった。足元の床さえ、かすかに震えている。
空中には何本もの鋼鉄製キャットウォークが架けられ、異なる区画同士を結んでいた。その上を研究員たちが行き交っている。まるで巨大な機械を構成する、小さな歯車のように。
見渡す限り、ホールには無駄な空間がほとんど存在しなかった。
まるで、この地下施設が存在する理由はただ一つ――人類の工業文明が持つ力のすべてを注ぎ込み、たった一つの「何か」を稼働させ続けること。そのためだけに造られたかのようだった。
フェイマンは黙ってその光景を眺めていた。ホールを埋め尽くす膨大なエネルギー設備へ、ゆっくりと視線を巡らせる。
やがて、ぽつりと言った。
「醜いな……」
誰も答えなかった。
「これは設計されたものじゃない。寄せ集めただけだ」
振動を続ける冷却配管を見上げながら、フェイマンは平然と続ける。
「本物の技術なら、これほど多くのものは必要ない。理解できない人間だけが、本来なら単純なはずの装置を再現するために、工場を丸ごと一つ必要とする」
周囲の空気が、わずかに静まった。
反論する者はいなかった。そこにいる誰もが、フェイマンの言葉が事実だと知っていたからだ。
人類は、この技術を手に入れたわけではない。
巨大なエネルギー供給系、冷却系、制御系、そして幾重もの安全装置。それらを総動員することで、理解することさえできない地球外の造物を、どうにか研究可能な状態に保っているにすぎなかった。
空気には、消毒薬と機械油、それにオゾンが混じった独特の臭いが漂っている。窓はなく、昼も夜もない。代わりに壁面を占めているのは、巨大な防弾ガラスだった。
その向こうには、それぞれ独立した実験区画が並んでいる。白衣姿の研究員が装置を調整する区画、電子顕微鏡を囲んでデータを検討する区画、鉛ガラス越しにマニピュレーターを操作する区画。
そしてホール中央部は、大きく吹き抜けになっていた。
足元の強化ガラス越しに、さらに一層下に設けられた中枢実験室を見下ろすことができる。
そこにある実験台は、ただ一つ。
その中央には、直径五メートル近い円筒形の密閉チャンバーが静かにそびえていた。
やがて、さまざまな分野から集められた二十六名の研究者が、次々とホールへ姿を現した。生物学、材料科学、化学、核物理学、電子工学――胸元には、それぞれ異なる色の識別証が下げられている。
しばらくして、一人の軍人が一同の前へ歩み出た。
制服の肩章についた銀色の鷲と星章が、照明を受けて冷たく光る。
男はその場に立つと、何も言わず、集まった研究者たちをゆっくりと見渡した。
それだけで、ところどころに残っていた話し声が消えていった。
「皆さん、おはようございます」
低く、よく通る声だった。
「トム・ハリソンです。アメリカ空軍准将。本プロジェクトの責任者を務めます」
一拍置く。
「まずは、エリア53へようこそ」
「この瞬間から、皆さんは本プロジェクトにおける最高機密区画へ入ったことになります」
「プロジェクト・コード――」
「BERMUDA」
「今後、ここで得られるすべての研究成果、交わされる情報、そして皆さん自身の行動は、恒久的に国家安全保障法の拘束下に置かれます」
「許可のない記録、口外、複製、伝達。そのすべてを国家に対する反逆行為と見なします」
再び、短い間があった。
声の調子は変わらない。
「ここから出る方法は、二つしかありません」
「プロジェクトが終了するか」
「あるいは――死ぬかです」
誰一人、笑わなかった。
ハリソンはそのまま続けた。
「本プロジェクトに参加する研究者は、総勢二十六名」
「本日付で、四つの研究班に分かれていただきます」
背後のスクリーンが点灯した。
第一班――物質構造班。
未知物質の結晶格子、相転移、および内部構造の解析。
第二班――生体反応班。
当該物質と既知の有機生命体との相互作用の研究。
第三班――エネルギー結合班。
エネルギー放出機構、場効果、および周辺環境への応答特性の検証。
第四班――理論解析班。
現在までに得られたすべての実験結果を説明しうる、新たな数理モデルおよび物理理論の構築。
ハリソンはスクリーンを消した。
そしてゆっくりと身体を向け、眼下の中枢実験室を見下ろす。
「それでは――」
「本日の本当の主役を、皆さんに紹介しましょう」
その言葉と同時に。
中枢実験室の中央で、円筒形の密閉チャンバーがゆっくりと開き始めた。
銀色の遮蔽板が、一層ずつ周囲へ収納されていく。
そして次の瞬間。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
そこに機械はなかった。
生物もいない。
ただ――
拳ほどの大きさをした、淡い青緑色の物質が浮かんでいた。
何の支えもなく。
磁場発生装置すらない。
それは空中に静止したまま、ゆっくりと蠢いていた。
粘菌のようにも見える。
だが表面には、金属を思わせる柔らかな光沢があった。
ときおり、その一部が液体のようにゆっくりと流動する。
かと思えば次の瞬間には、固体のような安定した形へ戻る。
決まった形を持たない。
それなのに、一滴たりとも本体から離れようとはしなかった。
まるで――
一つ一つの分子が、それぞれ自らの意思を持っているかのように。
ホールを、静寂が支配していた。
やがて、その沈黙に耐えかねたように、ひとりが口を開いた。
「それは……いったい何なのですか?」
トムは数秒、黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「八年前――その持ち主は死んだ」
空気が、一瞬にして変わった。
フェイマンが顔を上げる。その視線が、初めて真正面からトムを捉えた。
「ロズウェル事件のあと、我々は一機の飛行物体を回収した。そして――それも発見した」
トムの声は淡々としていた。
「発見された時点で、それはすでに重傷を負っていた。我々が持つあらゆる医療技術を試したが、その身体には何ひとつ有効ではなかった。それでも、自ら持ち込んだ生命維持装置によって、その後三十九年間、生き続けた」
そこで、トムはわずかに間を置いた。
「そして八年前、死んだ」
誰も声を発しなかった。
「その三十九年間に、それは自らの意思で、我々に知識の一部を提供した。死後、残された中核資料を解読するだけで、我々は丸五年を費やした。それでも、理解できたのはごく一部にすぎない」
トムは眼下の実験区へ目を向けた。
そして、淡い青緑色の物質を指した。
「これが、その保管装置から発見された唯一の実体試料だ」
研究者たちの間に、わずかなざわめきが広がった。
材料科学を専門とする教授が、たまらず尋ねる。
「金属……なのですか?」
「いや」
別の研究者が即座に否定した。
「今、明らかな粘弾性流動が見えた。通常の金属の挙動じゃない」
生物学班の研究員が手を挙げた。
「事前の分析報告では、タンパク質に類似した長鎖構造が確認されています。しかし同時に、安定した金属結合も存在している」
「あり得ない」
化学者のひとりが眉をひそめた。
「既存の物質体系では説明できない。有機高分子と金属結晶格子が、あのような形で共存することなど――」
「だからこそです」
トムが静かに言葉を継いだ。
「我々には、皆さんの力が――」
「本当に」
フェイマンの声が、それを遮った。
「本当に君たちは、これが人間に解析できるものだと思っているのか?」
再び、ホールから音が消えた。
フェイマンは誰の顔も見ていなかった。
視線の先にあるのは、密閉された実験区の中央で、今もゆっくりと形を変え続ける淡青色の物質だけだった。
「これは生命ではない」
静かな声だった。
「だが、物質とも呼べない」
淡青色の塊が、わずかに脈打つように形を変えた。
フェイマンの目が細くなる。
「むしろ……」
短い沈黙。
「生命と物質。そのどちらにも属さない――第三の存在と考えるべきだ」
誰も反論しなかった。
いや、反論できなかった。
少なくとも今この瞬間、人類がそれに与えられる答えは、それ以外に存在しなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
長い序章も、少しずつ核心へ近づいてきました。
次回もお付き合いいただければ嬉しいです。




