序章「胎動」III 異神
ジョンは鉄の輪に手を掛け、地下室へ通じる木の扉をゆっくりと持ち上げた。
闇の底から、湿った腐木の匂いが一気に押し寄せてくる。土と黴、それに長年放置された酒樽のものらしい、酸味を帯びた古い匂いが混じっていた。
扉の下には石造りの階段が続いている。暗闇へ向かって降りており、その先に光は見えない。
ジョンはすぐには中へ入らなかった。一度振り返り、中庭に誰もいないことを確認する。それから扉枠に手を添え、最初の一段へ足を下ろした。
背後で木の扉が閉じていくにつれ、頭上から差し込む光も細くなっていった。数段も降りないうちに、周囲は濁った薄闇に包まれる。
石壁には人の手で整えられた跡が残っていたが、表面には湿った苔がびっしりと張りついていた。石の継ぎ目からは絶えず水が滲み出し、小さな雫となって岩肌をゆっくりと伝っている。外側に設けられていた排水や防湿の構造は、とっくに機能を失っているらしい。
ジョンは片手を壁に添えたまま、靴先で一段ずつ足場を確かめてから、慎重に体重を預けていった。
最下段まで降りると、一枚の木の扉が行く手を塞いでいた。
明らかに、後から取り付けられたものだ。木材はまだ比較的新しく、扉枠にも補強を施した跡がある。湿気で染みだらけになった周囲の石壁とは、ひどく不釣り合いだった。
しかも扉は、地下通路の幅いっぱいに近い大きさで設けられている。
まるで誰かが、もともと一続きだった地下空間を意図的に二つへ切り分けたかのようだった。
ジョンは顔を上げ、アーチ状の石造りの天井を見渡した。
ここは元々、ワインセラーだったのだろう。目の前の仕切りさえなければ、入口から階段を降りた時点で地下空間のほぼ全体を見渡せたはずだ。
――フェイマン。
こんなところに、いったい何を隠している?
ジョンは掌を扉へ当て、軽く前へ押してみた。
動かない。
手に返ってくる感触からして、鍵穴が固着しているわけではない。内側で錠が掛かっている。
ジョンは耳を扉へ寄せた。
最初に聞こえたのは、途切れ途切れの荒い息遣いだった。
しばらくすると――老人の、押し殺した泣き声が聞こえてきた。何かを小声で呟いているらしい。
だが、分厚い木の扉に遮られ、言葉はばらばらに砕けている。聞き取れるのは、意味をなさない微かな囁きだけだった。
何を言っているのかまでは分からない。
それでも、その声には聞き覚えがあった。
フェイマンだ。
ジョンは身体を起こし、改めて錠前を観察した。
古い型の彫込錠だった。錠本体が扉の内部へ埋め込まれ、外側には真鍮製の鍵穴だけが露出している。構造自体はそれほど複雑ではない。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、公共建築などでよく使われていた形式だ。
扉そのものは後から取り付けられたものだが、錠前だけは教会の別の場所から取り外し、再利用したのだろう。
ジョンはスーツの内側から薄い革製の工具入れを取り出し、中から細い工具を二本抜き取った。一本を鍵穴の下側へ差し込み、もう一本を内部へ滑り込ませる。
錠を開ける技術は、CIAで教わったものではない。
こんなことなら、十代の頃にはもう覚えていた。
錠の奥から、ごく微かな金属音が伝わってくる。指先に掛ける力を細かく調整しながら、一つずつ内部の感触を探っていく。
何度か小さく手を止めた、そのあとだった。
錠が内側へ引っ込む。
――カチッ。
ほんの小さな音だった。
だが、その瞬間。
扉の向こうから聞こえていた泣き声も、呟きも――ぴたりと止んだ。
ジョンの手が、鍵穴の前で止まる。
地下室が、突然の静寂に沈んだ。
すぐには扉を開けない。音を立てず、半歩だけ後ろへ下がる。
降りてきた石段。狭い通路。そして頭上にある、半ば閉じかけた地下室の扉。
視線だけで順に確認していく。
退路はまだ確保されている。
それを確認してから、ジョンは再び目の前の扉へ意識を戻した。
開錠の音は、可能な限り小さく抑えた。まして、中にいる人物は先ほどまで明らかに感情を乱していた。普通なら、あれほど微かな物音にまで気づくとは考えにくい。
だとすれば――彼を黙らせたものは、そもそも扉の外の音ではなかったのかもしれない。
進むか。
それとも、一度引くか。
ジョンの視線がドアノブへ落ちる。
右手には、まだ開錠用の工具が握られている。一方、左手はすでにスーツの内側へ差し込まれていた。
その時だった。
扉の向こうから、老いた声が聞こえた。
大きな声ではない。
それなのに、不自然なほどはっきりと耳に届いた。
「入って来なさい」
短い沈黙。
そして――老人は彼の名を呼んだ。
「君だということは分かっているよ、ジョン」
ジョンの眉が、ほんのわずかに動いた。
すぐに工具を革のケースへ戻し、そのまま内ポケットへ滑り込ませる。一瞬だけ浮かんだ躊躇は、すでに顔から消えていた。
それどころか、口元には再び、かすかな笑みさえ戻っている。
ジョンはドアノブを握った。
そして――ゆっくりと、木の扉を押し開けた。
ちょうどその時だった。
沈みかけた夕陽の最後の光が、教会のステンドグラスを透過した。廊下から中庭へ、幾度か反射を繰り返した細い光は、偶然にも地下室の入口へと差し込んでいた。
一筋の光がジョンの背後をすり抜け、開きかけた扉の隙間から、薄暗い地下室の奥へ伸びていく。
光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
ジョンは反射的に、その先へ目を向ける。
闇の中から――
突然、女の顔が浮かび上がった。
ジョンの瞳孔が、一気に収縮する。
彫像だった。
女の青白い顔には暗赤色の塗料が塗りたくられ、すでに乾ききったそれは、凝固した血の跡のようにこびりついている。顔面には無数の刃物傷が縦横に走り、鼻梁も唇も壊されていた。
ただ、その両眼だけは――傷一つなく残されている。
夕陽の残光を受けながら、まっすぐ入口を見つめていた。
――パチン。
頭上で、スイッチの入る音がした。
次の瞬間、数個の電灯が一斉に点灯する。
眩しい光が地下空間を一気に満たした。
ジョンは反射的に目を細める。やがて視界が明るさに慣れると、ようやく扉の向こうに広がる光景の全貌が見えてきた。
かつてのワインセラーは、完全に別の空間へと作り変えられていた。
周囲には外から運び込まれたらしい天然石が積み上げられ、元の煉瓦壁も、不揃いな岩と漆喰によって覆い隠されている。床には砂や小石、干からびた植物の根が散乱していた。
照明の配線は意図的に岩の隙間へ隠され、ところどころから暗い黄色の光だけが下方へ落ちている。
地下室には見えなかった。
むしろ――誰かが地下に造り上げた、人工の洞窟だった。
先ほど光の中に浮かび上がった女の像は、その洞窟の奥に立っている。
そこでようやく、ジョンは気づいた。
元は、聖母マリア像だったのだ。
しかし、その頭を覆っているのは伝統的な白いヴェールではない。色褪せた柔らかなつばの野外帽。身体にはカーキ色の綿製フィールドジャケットが着せられ、腰には帆布製のツールベルトが巻かれている。胸元からは革製のカメラストラップが垂れ、両眼には丸縁の眼鏡まで掛けられていた。
身につけている装備は、明らかに二、三十年前の野外調査隊のものだった。厚手のハイカットブーツ。丈夫な長ズボン。帆布製の水筒。そして、砂塵を防ぐための綿のスカーフ。
聖母マリアは――まったく別の女へと作り変えられていた。
地下室の中央には、もう一体。キリスト像が置かれている。
その背後にあったはずの十字架は取り外されていた。ジョンには覚えがあった。あの十字架なら今、教会の礼拝堂正面に掛けられている。
十字架という支えを失ったキリストは、石造りの台座の中央に、ただ一人立っていた。
こちらも顔面を人為的に削られている。
鼻も、唇も、頬も。すべてが削り落とされ、のっぺりとした石の面へ変えられていた。
残されているのは――やはり、両眼だけだった。
ジョンの視線が、二体の彫像の間をゆっくりと往復する。
こんなものは、彼の知るどのキリスト教宗派にも存在しない。
「ここへ来るのも、これが最後だ」
部屋の隅から、フェイマンの声がした。
ジョンは振り返る。
老人は積み上げられた石のそばに腰を下ろしていた。両手は力なく膝の上へ垂らされている。顔に涙の跡はない。表情もすでに平静を取り戻していた。
まるで、つい先ほど扉越しに聞こえていた嗚咽など、最初から存在しなかったかのように。
フェイマンは、姿を変えられた聖母像を見つめていた。
その眼差しは、驚くほど穏やかだった。
安らか、とさえ言えるほどに。
ジョンは観察するような眼差しを引っ込め、いつものわずかに皮肉を含んだ表情へ戻った。
「まるで、もう二度と戻って来られないような言い方ですね」
フェイマンは小さく笑った。短い笑いだった。そこに愉快さはほとんど感じられない。
「あの計画は、一度入れば……おそらく簡単には出られん」
「そうですか?」
ジョンは地下室を一瞥した。
「成果を出せない人間だけが、出られなくなるものだと思っていましたが」
「連中には、できんよ」
フェイマンは平然と言い切った。
ゆっくりと顔を上げ、ジョンを見る。
濁った瞳の奥で――何かが、少しずつ燃え始めていた。
「だが、私は……」
口角がゆっくりと持ち上がる。
それは笑顔ではなかった。
今にも爆発しそうな歓喜を、必死に押さえ込んでいるような表情だった。
「私は、完成させる」
フェイマンは膝に手をつき、立ち上がった。それにつれて、声も次第に大きくなる。
「それは、この時代を変えることになる」
一瞬、言葉を切る。
そして突然、首を横に振った。
「いや――」
フェイマンは野外調査服をまとった聖母像へ向き直り、ゆっくりと両腕を広げた。
「人類そのものを変える」
地下室に、再び静寂が降りた。
数秒後。
広げられていた両腕が、少しずつ下がっていく。
フェイマンは彫像の前に立ち尽くした。つい先ほどまで顔を満たしていた狂熱は、潮が引くように消えていった。
肩がわずかに落ちる。
まるで、自分が犯した過ちにようやく気づいた子供のようだった。
「オルガ……」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さい。
「私は信仰を裏切った。それでも、生き延びてしまった……」
フェイマンは俯いた。
「またしても、心の中の獣に負けた」
ジョンは何も言わない。
フェイマンは片手を上げると、刃物傷に覆われた彫像の頬へ、そっと指先を触れた。
「君の理想も……君の願いも……もう私には、それと向き合う資格すらない」
その視線が、ゆっくりと上へ向けられる。
まるで湿った石造りの天井を透かして、その上に建つ教会を見ているかのように。
さらにその向こう。
街角に灯り始めた街灯。海沿いの道路を走る車。礼拝を終え、それぞれの家へ帰っていく、ごく普通の人々。
夕食の支度をする者がいる。ポーチに腰掛け、新聞を読む者もいる。子供たちは芝生を駆け回り、遠くのラジオからは夜の番組が流れている。
この小さな町の日曜日は、何事もなかったかのように続いていた。
誰も知らない。
その足元で、一人の老人が――時代そのものを変えかねない何かを、いかにして造り上げるか考えていることなど。
「もし、本当に私があれを完成させてしまえば……」
フェイマンは目を閉じた。
「彼らの頭上にある空も。足元の大地も。そして、退屈なほど平凡なこの暮らしも……もう二度と、以前と同じではいられないだろう」
彫像から手を離す。
その掌が、固く握り締められた。
「それでも、行かなければならない」
短い沈黙。
「私はもう、とっくに縛られている」
フェイマンの声が低く沈む。
「君があの書類を持って私のもとへ来た日からではない」
そして――
「――あの洞窟で」
老人はゆっくりと息を吐いた。
「すべては、あの日に始まった」
もう一度、姿を変えられた聖母像へ目を向ける。
「あの日、私はすでに――」
その声は、ひどく静かだった。
「自分自身を悪魔に売り渡していたんだ」
再び目を開く。
その視線は、彫像の顔へ注がれていた。
「そして今になって、とうとうこれが私のところへ巡ってきた。これが……宿命というものなのかもしれんな」
ジョンは、その背後に黙って立っていた。
目の前にいる老人は、記憶の中のフェイマンとはまるで別人だった。
かつての彼は、自信に満ち、才気に溢れ、そして傲慢だった。昔から、狂気じみた大言壮語を平然と口にする男でもあった。
だが、どれほど荒唐無稽なことを言おうとも、その言葉の奥には常に一つの確信があった。
――自分は、すべての人間より上にいる。
そう信じて疑わない、圧倒的な自信。
今は違う。
ここに誇示はない。
あるのは、悲しみだけだった。
曲がった老人の背中から、隠しようのない孤独さえ滲み出ている。
その姿を見つめているうちに――ジョンの胸の奥を、思いがけない感情が掠めた。
憐れみ。
ジョンの顎が、わずかに強張る。
次の瞬間、彼はその感情を押し殺した。
他人に同情することが嫌いだった。
まして――他人の中に、自分と似た何かを見つけることなど、もっと嫌いだった。
ジョンはフェイマンの背後まで歩み寄った。その表情は、すでにいつもの平静さを取り戻している。
「先生」
フェイマンは振り返らなかった。
ジョンの視線が、岩壁の隙間から漏れる薄暗い灯りへ向けられる。
「洞窟事故のあと、医師はあなたを外傷性暗所視障害と診断した。照明の乏しい環境では、視覚による識別能力が著しく低下する」
そこでわずかに言葉を切った。
「ですが、先生の部屋も、ここも――なぜか意図的にこの薄暗さを保っているように見えます」
フェイマンの指先が、かすかに動いた。
「これは治療ではない。こんなことを続けても、視力が戻るわけではありません」
ジョンは半歩だけ距離を詰め、老人の横顔を見据えた。
「先生は、暗闇に慣れようとしているんじゃない」
一拍。
「――あの日を再現している」
フェイマンが、ようやく振り返った。
ジョンはその目を真正面から見つめる。
声には、何の感情もなかった。
「だから、あの洞窟で――」
「先生は、いったい何を見たんです?」
フェイマンはすぐには答えなかった。
顔に残っていた狂熱が、少しずつ消えていく。張り詰めていた肩からも、ゆっくりと力が抜けていった。
長い沈黙のあと、老人はジョンから目を逸らし、凹凸の激しい岩壁に沿って部屋の隅へ歩いていった。
古びた毛布の敷かれた石台に腰を下ろす。俯いたまま、両手を膝の前で組んだ。
薄黄色の灯りが、灰白色の髪へ落ちている。
今の彼は、自分が悪魔に選ばれたと語った狂人には見えなかった。
ただ――突然、自らの老いと疲労を思い出した、一人の老人にしか見えなかった。
フェイマンは左手を上げ、隣の空いた場所を軽く叩いた。
「座れ、ジョン」
その口調は穏やかで、ごく自然だった。
まるで二人がまだ何年も前の大学にいて、これから教授がかつての教え子に、未完成の命題を一つ講義しようとしているかのようだった。
ジョンは一度だけ彼を見た。
断ることはしなかった。
フェイマンのもとへ歩み寄り、その隣へ腰を下ろす。二人の間には、半腕ほどの距離が残されていた。
フェイマンは地下室の中央に立つ、顔を失ったキリスト像を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「私はシカゴ大学で学んだ。最初は化学を専攻していたが、やがて生化学へ移った。博士課程では、タンパク質構造と細胞代謝を研究していた」
そこまで言うと、口元にいつもの傲慢さがわずかに戻った。
「成績表に並んだ評価は、すべて最高だった。教授たちは最初、私を努力家だと思った。次に、頭がいいと思うようになった」
フェイマンは小さく鼻を鳴らした。
「そして最後には、私を嫌うようになった」
ジョンは口を挟まない。
「私が、連中の理論の穴を見つけてばかりいたからだ」
フェイマンは指先で膝を軽く叩いた。
「彼らは学生に結論を覚えさせた。私は、その結論がどう導かれたのかを知りたかった。彼らは生命を、一つ一つの化学反応へ分解して理解しようとした。だが私は、生命にはまだ発見されていない、何らかの統一的な機構が存在するはずだと考えていた」
そこで、冷たく笑う。
「新しい仮説を出せば、証拠がないと言われた。証拠を出せば、今度は推論が学問領域を越えていると言われた。凡人というものは、自分に理解できる範囲を『境界』と呼びたがる」
わずかに顎を上げた。
「そうしておけば、その外側にある理解できないものは、すべて間違いだと片づけられるからな」
その瞬間、ジョンには、かつての恩師が戻ってきたように見えた。
辛辣で、傲慢で、自分以外のすべての人間が一段下にいることを当然の前提として疑いもしない男。
「卒業後、私は一族のもとへ戻った」
フェイマンの顔から、皮肉めいた笑みが徐々に消えていく。
「だが、何も変わらなかった。ロメフィラ家が欲しがっていたのは、一族の名誉を飾る学者だ。生命の本質とは何かなどと、一日中問い続ける狂人ではない」
老人はわずかに目を伏せた。
「私の論文をガラスケースに飾ることには熱心だったが――中身を本当に読んだ者など、一人もいなかった」
そして顔を上げた。
その視線が、野外調査服をまとった聖母像へ向けられる。
「――オルガに出会うまでは」
その名を口にした瞬間、フェイマンの声がふっと柔らかくなった。
ジョンは、その変化を聞き逃さなかった。
意識して懐かしんでいるわけではない。悲しみに浸っているわけでもない。長い闇の中を歩き続けた人間が、最後に残されたわずかな温もりへ触れた――そんな響きだった。
「彼女は初めてだった。私が何を言っているのか、本当の意味で理解してくれた人間は」
フェイマンは彫像を見つめる。その眼差しは、遠い過去へ向けられていた。
「数式で埋め尽くした紙を渡しても、彼女は『それが何の役に立つのか』などとは聞かなかった。私の間違いを探すことから始めることもなかった。ただ座って、最初の一行から最後の一行まで読む。そして――」
フェイマンは言葉を止めた。
口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「『ここ、とてもいいわ。でも、この変数を変えてみたら? そのほうが、あなたが本当に言いたいことに近づくんじゃない?』」
「……いつもそうだった。彼女には、私が見落としているものが見えていた」
フェイマンは俯き、自分の両手を見つめる。
「他人から見れば、私はすでにいわゆる天才だった。だが彼女の前では、ときどき自分が、答えを証明することばかり急いでいる子供のように思えた」
その声は、静かだった。
「彼女は私の間違いを正した。同時に、私を守ってもくれた。議論が収拾のつかないところまで行けば、会議室から私を引きずり出した。何日も食事を忘れていれば、実験記録の上にパンを置いていった。実験に失敗して腹を立て、私が器具を叩き割った時には……何も言わず、一緒にガラス片を拾ってくれた」
フェイマンは小さく笑った。
「彼女は、私を責めなかった。私が落ち着くまで待ってから――次はどうすればいいか、それだけを教えてくれた」
ジョンは横目でフェイマンを見た。
そこでようやく理解した。
なぜ老人が、聖母像をオルガの姿へ作り変えたのか。
長く傲慢に生きてきたフェイマンにとって、あの女はおそらく唯一の友だった。そして、ただ一人――ありのままの彼を受け入れた人間だった。
それは、単純に恋愛と呼べる感情ではない。
親友であり、師でもあり、そしてある意味では――彼が一度として得ることのできなかった、母親のような存在でもあった。
「オルガは、人類文明よりも前に別の時代が存在したと信じていた」
フェイマンは続けた。
「歴史そのものから消え去った――超古代文明だ」
「私は信じなかった」
その声に、かつての自負が少しだけ戻る。
「あの頃の私は、まだ神を信じていた。聖書に記された創造を信じ、人間がこの星に占める位置を信じていた。そして、いわゆる超古代文明などというものは、考古学者が説明のつかない遺跡を前にして作り上げた、ロマンチックな物語に過ぎないと思っていた」
フェイマンは、遠い記憶を眺めるように目を細める。
「だから、よく言い争ったよ。彼女が遺跡や伝承、年代の矛盾を示すたびに、私は一つずつ穴を指摘した。彼女は、私が科学を守っているのではなく、自分の信仰を守っているだけだと言った。私は彼女に、君は考古学者ではない、石ころに物語をつけるのが好きな詩人だと言い返した」
フェイマンの瞳に、かすかな光が宿った。
「どれだけ言い争っても、最後には彼女が笑った」
そして、少しだけ間を置く。
「いつか必ず――私が反論できないものを見つけてみせる、と」
地下室のどこかで、水滴が一つ石の上へ落ちた。
――ぴちゃん。
フェイマンはしばらく黙っていた。
「その後、彼女は一族が資金援助していた考古学研究機関へ入った。私たちは別々の場所へ行き――四年間、一度も会わなかった」
短い沈黙。
「そして、あのエジプト調査で再会した」
ジョンの目が、わずかに動いた。
フェイマンは彼を見なかった。ただ、正面の粗い岩壁を見つめている。
「サッカラ墓地の南部へ向かう合同調査隊だった。初期王朝時代から古王国時代にかけての墓葬が幾重にも重なり、地下通路の中には、いまだ完全な測量すら行われていないものが数多く残っていた。オルガは遺構の構造と碑文を担当した。私は、密閉された墓室から採取された有機残留物の分析を担当していた」
そこまで語って、言葉を切る。
「表向きは、ごく普通の学際的な考古調査だった」
そして――
「事故が起きるまでは」
フェイマンの指が、ゆっくりと握り込まれていく。
「あの日の午後、我々は新たに掘り出された地下通路へ入った。その奥には、まだ開かれていない石室があった。オルガは、そこにさらに古い時代の祭祀遺構が残されている可能性があると考えていた」
老人の声が、少しずつ低くなっていく。
「中へ入って間もなく――上部の岩盤が、突然ずれた」
フェイマンは片手を上げ、空中をゆっくりとなぞった。
「最初は、石の隙間から細かな砂が落ちてきただけだった。次の瞬間、通路全体が揺れ始めた」
「支保工が折れた」
一拍。
「石板が落ちた」
さらに一拍。
「後ろにいた者たちは――悲鳴を上げる暇さえなかった」
声は、恐ろしいほど平静だった。
だがジョンは見ていた。
強く握られた老人の手。その手の甲に、青い血管が浮かび上がっている。
「他の隊員は、全員その向こうに埋まった。私とオルガがいた場所にだけ、偶然、古代の石柱が一本残っていた。崩れ落ちた天井板が、その柱に斜めに引っ掛かった。その下に――ほんのわずかな空間が残った」
フェイマンは、地下室の低い石天井を見上げた。
「狭かった。立つこともできない。身体の向きを変えることすらできないほどにな」
声がさらに沈む。
「私たちは互いの身体を支えながら、瓦礫と死体の間に座っているしかなかった。外から聞こえていた音も、すぐに消えた。助けを呼ぶ声もない。掘り進む音もない」
そして――
「何も聞こえなかった」
地下室の空気まで、冷えたように感じられた。
「まるで――世界に、私とオルガしか残されていないようだった」
ジョンは黙って隣に座っていた。
慰めることもしない。問いを挟むこともしない。
ただ、フェイマンの呼吸を。
言葉と言葉のあいだに生まれる、ほんのわずかな沈黙を。
一つ残らず、観察していた。
「怖かった」
フェイマンは言った。
「おそらく、人生で初めてだった。自分は本当に死ぬのだと――そう認めたのは」
「石柱がどれほどの荷重に耐えられるかを計算した。隙間に残された空気の量を見積もり、救助隊が我々のところまで掘り進むのに、どれほど時間がかかるかも考えた」
フェイマンの喉仏が、かすかに上下した。
「だが、計算すればするほど――出てくる答えは、悪くなる一方だった」
少しして、彼は続けた。
「そのうち、私は泣き出した。子供のようにな」
「オルガは、笑わなかった」
フェイマンの視線が、彫像に残された二つの眼へ向けられる。
「彼女は私の顔についた埃を拭って、こう言った」
老人は、あの日の彼女の口調を真似るように言った。
「『どうしてそんなに落ち込んでるの? ほら、笑ってみて。ね?』」
その声は、まるで子供をあやすように優しかった。
「いつも、そういう女だった。腹が立つほど前向きで――拒むことができないほど、優しかった」
ジョンは横目で、フェイマンの瞳を見た。
そこに長く淀んでいた陰りが、一時だけ晴れている。
地下室の照明が生んだ錯覚ではない。
オルガについて語っている間だけ、過去にほとんどすべてを奪われたこの老人の目には、確かに何かが再び灯っていた。
「オルガは、総合キャンプから各班へ一時間ごとに定時連絡が入ると言った。こちらが応答しなければ、すぐ異常に気づくはずだ、と」
フェイマンは、わずかに笑った。
「それに――鎌滝先生も、その日の朝にはキャンプへ到着していた」
「鎌滝は彼女の恩師だ。日本人の考古学者だった。古代祭祀、山岳信仰……そして、正統な学界からは民間伝承として片づけられていた歴史記録を研究していた」
フェイマンは淡々と続ける。
「オルガの言うところでは、自分の荒唐無稽な仮説を真面目に聞いてくれる、数少ない学者の一人だったそうだ。助かったら、私にも会わせると約束してくれた」
そして、何気ない昔話のように言った。
「鎌滝先生は当時、大阪北西部にある鳴雲山にまつわる古代記録の一部を解読したばかりだったらしい」
わずかな間。
「その山には――日本最古の史書よりも、さらに古い物語が眠っているのだと」
フェイマンは目を閉じた。
「彼女はあまりにも自然に話すんだ。まるで次の日には本当にキャンプへ戻って、あの不味いコーヒーを飲みながら、次の旅について話し合えるかのように」
老人の声には、わずかな苦笑が混じった。
「私を怖がらせないために、彼女は離れていた四年間のことを話し始めた」
そこで、フェイマンは一度言葉を切った。
「その中に、一つだけ――本来なら、誰にも話してはいけないことがあった」
ジョンの視線が、フェイマンの顔へ向けられる。
「事故の一年前だ。オルガは、トルコ南東部へ向かう調査隊に参加した。目的地は、六十年代初頭の合同調査ですでに記録されていながら、当時はほとんど重要視されなかった丘陵遺跡だった」
フェイマンは、その名をゆっくりと口にした。
「――ギョベクリ・テペ」
その瞬間だけ、明らかに語る速度が落ちた。
「公になっていた調査では、そこは石灰岩の部材が散在するビザンツ時代の墓地か、せいぜい小規模な先史時代の遺構だと考えられていた」
フェイマンの声が、少し低くなる。
「だが、オルガたちの調査隊は――丘陵の底部に、異常を見つけた」
「最初に地震屈折法と低周波による音響探査を使い、地下構造を調べた。複数のデータが、同じ結果を示した」
一拍。
「既知の遺構層よりも、さらに下」
さらに間を置く。
「そこに、途方もなく巨大な空洞が存在していた」
「自然洞窟ではない。境界が――あまりにも規則的だった」
ジョンの表情は変わらない。
だが、その意識はすでにフェイマンの話へ完全に集中していた。
「調査隊は、遺跡の真上から掘削することができなかった。崩落を引き起こす危険がある。それに、現地政府や他の研究機関にも気づかれる」
「そこで丘陵の側面から、岩盤の安定した地点を選んだ。まず、小口径の水平試錐孔をいくつか開けた。岩芯を採取し、内部に流砂や地下水がないことを確認した」
フェイマンは、まるで自分自身がその場にいたかのように語り続ける。
「その後、そのうち一本の孔を拡張して金属製のケーシングを通し、照明を備えた有線カメラを内部へ送り込んだ」
そして。
「送られてきた映像が証明した」
短い沈黙。
「地下には確かに――人工の空間が存在していた」
「そこで調査隊は側面の試掘孔をさらに広げ、一人が這って進むのがやっとの通路を開通させた」
フェイマンの呼吸が、少しずつ重くなっていく。
「オルガは言った。初めてそこへ入った時――自分は、人類文明よりも前の世界へ足を踏み入れたのだと思った、と」
地下室は、ひどく静かだった。
「地下空間は、フットボール場一面に近い広さがあった。最も高い場所では、天井まで百メートルを超えていた。岩壁に沿って、祭壇や石槽、それに用途すら判別できない大量の器物が並んでいた」
フェイマンは一度、息を止めた。
「そして――」
ジョンは何も言わない。
「十体の巨像があった」
フェイマンの声が止まる。
ジョンは急かさなかった。
ただ、待った。
しばらくして、フェイマンは再び口を開いた。
「どれも、数十メートルはあったそうだ。外側を囲む九体――その中に、人間の姿をしたものは一つもなかった」
老人の目が、どこか遠くを見つめる。
「節足動物のような肢を持つもの。何重にも重なった口器を備えたもの。胴体は獣に似ているのに、頭部だけは深海から引き揚げられた何かのようなもの」
「既知のどの宗教にも、あんな神はいない。現実に存在する動物を、人間が単純に組み合わせて想像したものにも見えなかった」
そこで、フェイマンは言葉を探した。
「むしろ、あれは……」
しばらくして、静かに続ける。
「実際にその姿を目にした者が――記憶を頼りに彫り上げた怪物」
「そんなふうに見えたらしい」
そして。
「その九体の怪物に囲まれた中央に――一体だけ、人の姿をした巨像が立っていた」
フェイマンが顔を上げる。
「姿形は、人間によく似ていた。九体の怪物は、あるものは倒れ伏し、あるものは跪いていた。すべてが、中央の人型巨像へ向けられていた」
一瞬、声が途切れる。
「だが、あれは崇拝ではない」
声が低くなる。
「オルガは――戦いが終わったあとの光景だと考えた」
ジョンの視線が、わずかに細くなる。
「九体の怪物は、すべて――中央のあれに敗れたのだと」
ジョンの指が、膝を一度だけ軽く叩いた。
「人型巨像の足元には祭壇があった。その周囲には、大量の石板が散乱していた。刻まれていた文字には、楔形の刻線と絵文字の両方に似た特徴があったが、既知の近東文字体系には属していなかった」
「そして遺跡そのものも、ひどく破壊されていた。石板の多くは意図的に砕かれ、彫像の表面にも破断と溶融の痕跡が残されていた」
そこで、フェイマンは明確に言い切った。
「火災ではない」
ジョンを見る。
「岩石と砂質堆積物の表面が、局所的にガラス化していた。場所によっては、一度溶けたものが流れ――そのまま再凝固したような模様まで残っていた」
ジョンの瞳孔が、わずかに縮む。
その説明が事実なら、少なくともその場所では、ごく短時間のうちに通常の火災では到底生じ得ないほどの高温が発生したことになる。
原子炉内部に匹敵する温度だったとは限らない。だが、珪酸質の物質を溶融させ、岩石表面をガラス化させるには十分だ。
人類が経験した既知の戦争の中で――最も容易に連想されるのは、核爆発の高熱が残した痕跡だった。
フェイマンは、ジョンの思考を読み取ったようだった。
「調査隊の中にも、広島と長崎を口にした者がいたそうだ」
短い沈黙。
「だが――あの遺跡は、人類最古の都市よりも古い」
地下室に残ったのは、水滴の音だけだった。
「中央の人型巨像は、顔を破壊されていた」
フェイマンが言った。
「鼻梁も、口元も、顔の大半も――何らかの高熱で溶かされていた」
一拍。
「残っていたのは、眼だけだった」
フェイマンの視線が、静かに沈む。
「オルガは言った」
そして。
「あの眼は――光のようだった、と」
ジョンがわずかに眉を寄せる。
「光?」
ここで初めて、フェイマンの話を遮った。
「それでは、形態の説明になっていません」
「私も、まったく同じことを言ったよ」
フェイマンは低く笑った。
「石英か。雲母か。それとも、光を反射する何らかの鉱物を象嵌していたのか、と聞いた」
「だが、彼女は首を振った」
フェイマンの声が、静かに地下室へ響く。
「眼そのものが、光を反射していたのではない」
そして――
「その眼を彫った者が、『光』そのものを表そうとしていたのだ、と」
ジョンは、それ以上何も言わなかった。
科学的な意味をほとんど持たない説明だった。
それなのに――なぜか、その言葉は彼を不快にさせた。
「調査隊は、祭壇の周囲に残された文字の中から、何度も繰り返される一組の記号を発見した」
フェイマンは続ける。
「中央に立つ人型巨像の名か――あるいは、何らかの称号ではないかと推測された」
「だが、解読が終わるより先に、調査そのものが強制的に打ち切られた」
フェイマンの口元に、冷たい弧が浮かんだ。
「命令を出したのは――ロメフィラ家だ」
わずかに笑う。
「私の、本家だよ」
その後に続いた声は、ひどく平坦だった。
「写真も。岩芯も。文字の拓本も。機器の記録も。すべて持ち去られた」
「調査に参加した者たちは、改めて秘密保持契約へ署名させられた。何人かは、研究機関そのものから異動させられた」
そして。
「あの丘陵は元の姿へ戻された」
フェイマンの目が細くなる。
「まるで――彼らが一度も地下へ入ったことなどなかったかのようにな」
小さく笑った。
「一族は、いつもそうだ」
その笑いには、何の温度もなかった。
「自分たちに制御できないものが現れれば――まず、埋める」
ジョンは何も評さなかった。
フェイマンは石壁へ背を預ける。その顔から、笑みがゆっくりと消えていった。
「オルガがすべてを話し終えたあと――私は、長いあいだ何も言えなかった」
老人は頭上の薄暗い灯りを見上げた。
「その話が私に与えた衝撃は――死そのものよりも大きかった」
しばらくして、静かに続ける。
「私は聖書を信じていた。人間は神によって創られたのだと信じていた。この星で、理性を授けられた生命は人間だけだとも。そして、我々が知る文明の歴史を信じていた。たとえそこに欠けた頁があったとしても、その始まりそのものが根底から覆されることなどない、と」
フェイマンは目を伏せた。
「私は、怪談の類に簡単に心を揺さぶられる人間ではない。失われた大陸だの、古代の飛行機械だの、先史時代の帝国だの――そんな仮説の大半を、私は鼻で笑っていた」
「誤った年代。意図的に歪められた証拠。そして、未知の世界に対する人間の安っぽい幻想」
声が、そこで途切れた。
「そんなものばかりだった」
長い沈黙。
「だが……」
フェイマンの声が低くなる。
「私は、オルガを信じていた」
その一言だけが、妙に重く地下室へ残った。
「彼女が物語のためにデータを捏造するような人間ではないことを知っていた。自分の思い込みを、発見だと言い張るような人間でもない」
彼は顔を横へ向け、隣に座るジョンを見た。
「だから、彼女からあの地下遺跡の話を聞いた時――私は生まれて初めて、何を信じればいいのか分からなくなった」
フェイマンは黙った。
やがて、二つの言葉を確かめるように口にする。
「神か」
一拍。
「それとも、彼女か」
老人は長いあいだ黙っていた。
そして最後に、静かに言った。
「私は神よりも――彼女を信じていた」
その視線が、再び聖母像へ向けられる。
「もしかすると私は、信仰というものを一度も本当には理解していなかったのかもしれない」
フェイマンの声は、もうほとんど独白に近かった。
「私が信じていたものは……」
わずかな沈黙。
「オルガが私に与えてくれた愛だったのかもしれない」
言葉が途切れた。
地下室は、長い静寂に包まれる。
ジョンはその場に座ったまま、表情を変えなかった。オルガという女の存在は予想外だった。だが、彼の意識を本当に揺さぶっていたのは――やはり、ギョベクリ・テペの地下遺跡だった。
巨大な地下空間。数十メートルにも及ぶ十体の巨像。既知の体系に分類できない文字。そして、岩石の表面すらガラス化させるほどの高熱の痕跡。
フェイマンの話がすべて事実なら、あの遺跡が示しているのは、単なる失われた部族などではない。
一万年前に存在しながら、現代の歴史認識を遥かに超える技術水準を持っていた――未知の文明。
ジョンの頭の中で、情報が瞬時に整理されていく。
一族による情報封鎖。調査隊の名簿。機器の記録。トルコ側の地方資料。
――必ず、どこかに痕跡が残っている。
「そのあと……」
フェイマンの声が、ジョンの思考を遮った。
老人は目を伏せた。両手が、ゆっくりと握り締められていく。
「私は、自分の魂を悪魔に売った」
一度、言葉が止まる。
「そして――彼女は死んだ」
ジョンはフェイマンへ顔を向けた。
老人の顔に、大げさな悲嘆はなかった。そこにあるのは、長い年月に何度も削られ――それでも消えずに残った痛みだけだった。
「あそこに閉じ込められている間、私はずっと神に祈っていた。オルガを生きてここから出してくれるなら、何でも差し出すと」
フェイマンの声が低くなる。
「私の知識も。未来も。命も……今すぐ死ねと言われても、構わなかった」
老人はゆっくりと目を閉じた。
「自分を助けてくれとは、一度も祈らなかった。ただ――彼女だけは、生かしてくれと」
長い沈黙。
「だが……」
フェイマンの喉が、わずかに動いた。
「二度目の地震が起きた時、砕けた石板の一枚が彼女の腹部を直撃した」
声は、奇妙なほど平静だった。
「血が止まらなかった。必死に傷口を押さえた。自分の服を引き裂いて、包帯代わりに巻いた。それでも血は――少しずつ滲み出してきた」
老人は自分の両手を見つめた。
まるで、とうの昔に洗い流されたはずの血が、今も掌に残っているかのように。
「それでも彼女は、私を励まし続けた」
フェイマンは苦く笑った。
「捜索隊は必ず見つけてくれる、と。体力を残しておけ、怖がるな、と。笑いながら、その先の話までした」
「鎌滝先生のこと。鳴雲山のこと。まだ行けていない、次の調査のこと……」
声が、次第に小さくなっていく。
「彼女は分かっていたんだ。自分は、もう助からないと」
短い沈黙。
「それなのに最後まで――私には言わなかった」
フェイマンはゆっくりと顔を上げた。その目は、すでに赤くなっている。
「やがて、彼女は話すことさえ苦しそうになった。その時になって、ようやく気づいた」
老人の声が震えた。
「瓦礫の下には――もう、とっくに大きな血溜まりができていた」
フェイマンは目を閉じる。
呼吸が、震え始めた。
「私は祈り続けた。神に。何度も、何度も。奇跡を起こしてくれと」
「自分が十分に敬虔でさえあれば。すべてを差し出す覚悟さえあれば、きっと神は応えてくださる」
「そう信じていた」
長い沈黙のあと、フェイマンはようやく最後の言葉を吐き出した。
「だが……」
一拍。
「彼女が目を閉じる、その瞬間まで――」
老人の声が、ほとんど囁きに変わる。
「神は、来なかった」
その言葉が、突然ジョンの心臓を鷲掴みにした。
とうの昔に葬ったはずの記憶が、何の前触れもなく暗闇の底から浮かび上がる。
――土砂降りの雨。
――泥濘んだ道。
――自らの首から引きちぎった、十字架。
十字架は水溜まりの中へ落ちた。銀色の表面が、たちまち泥に覆われていく。
ジョンは、その上を踏みつけた。
一度。
そして、もう一度。
まるで――どれほど問いかけても沈黙し続ける誰かを、罰するかのように。
罵った。泣き叫んだ。何一つ答えようとしない神を問い詰めた。
だが、激しい雨が彼の声を呑み込んでいった。
ズボンの裾が泥まみれになり、喉が完全に嗄れるまで叫び続け、最後にはその場に膝をついた。冷たい雨に、ただ顔を打たせながら。
あの日。
ジョンもまた――奇跡を待っていた。
そして、奇跡は起こらなかった。
あの日から、ジョンは理解した。
この世界に、完全に頼っていい存在など、どこにもいない。
人は裏切る。
神は沈黙する。
自分だけは、自分を見捨てない。
いつの間にか、ジョンの手は固く握り締められていた。
彼はすぐにそれに気づいた。
指を開く。
そして――浮かびかけたすべての感情を、再び表情の奥へ押し戻した。
フェイマンは、ジョンの異変には気づいていなかった。
「私は自分の信仰を裏切った」
老人は、顔を失ったキリスト像を見つめている。
「それなのに――生き残った」
ジョンは改めて地下室を見渡した。
オルガの姿へ作り変えられた聖母像。十字架を失ったキリスト。そして、顔を削り取られながら、両眼だけを残されたその面影。
この瞬間になって、ジョンはようやく、ここにあるものすべての意味を理解した。
ここは、奇怪な宗派の聖所などではない。
贖罪のための部屋だ。
そして同時に――フェイマンが生涯、決して抜け出すことのできない墓でもある。
ジョンの視線が、ゆっくりとキリスト像へ向けられた。
聖書には、こうある。
その肉を食べ、その血を飲む者は――命を得る。
フェイマンは、自らの信仰を裏切ったのではない。
ただ――あの聖句を、現実のものにしてしまったのだ。
ふいに、フェイマンが先ほど口にした言葉が蘇る。
――私は自分の信仰を裏切った。それなのに、生き残った。
その瞬間、ジョン自身でさえ信じたくない答えが、頭の中にゆっくりと形を取り始めた。
洞窟が崩落したあと、二人は外界から完全に切り離された、あの狭い空間に閉じ込められた。食べ物はない。希望もない。救助がいつ辿り着くのかさえ、誰にも分からない。
そして――最後に洞窟から生きて出たのは、フェイマン一人だった。
オルガは。
永遠に、あそこへ残された。
ジョンは黙ったまま、オルガの姿へ作り変えられた聖母像を見つめた。
今になって、ようやく分かった。
なぜフェイマンが、どうしても自分自身を許すことができなかったのか。
そして――なぜ、あのキリスト像から十字架が取り外されているのかも。
もし、本当にオルガ自身が彼に生きろと願ったのなら。
もし、最後に残された、生き延びるためのすべてを――彼女がフェイマンへ託したのだとしたら。
ならば、あの洞窟ではきっと――誰にも向き合うことのできない何かが起きた。
敬虔なキリスト教徒だった一人の男が、自らの手で、自らの信仰を葬るほどの――何かが。
ジョンはゆっくりと目を閉じた。
それ以上、考えることをやめた。
いや。
考えたくなかった。
やがて、ゆっくりと目を開く。
フェイマンは、顔を失ったキリスト像を見つめていた。老人の目から、涙が止めどなく流れ落ちている。
「あの日から、私は分かっていた」
声から、少しずつ感情が失われていく。
「自分はもう――悪魔の手に落ちたのだと」
ジョンの視線が、わずかに動いた。
「なぜなら、あの真っ暗な洞窟で……」
フェイマンは振り返った。
ジョンを真正面から見つめる。
「私は――見た」
一拍。
「悪魔を見たんだ」
ジョンはしばらく黙っていた。
そして立ち上がる。
フェイマンに背を向け、スーツの袖口を整えた。まだ顔に残っていた陰りを、老人には見せなかった。
数秒の沈黙。
「先生」
声はすでに、いつもの平静さを取り戻していた。
「本来そこに存在しないものが見えたのなら――病院へ行くべきです」
フェイマンは答えない。
ジョンは、目の前に立つ顔のないキリスト像を見ながら続けた。
「長期にわたる飲酒、精神的外傷、それに睡眠障害。どれも幻覚を引き起こす可能性があります。このまま放置すれば、いずれ――」
そこで、言葉が止まった。
口にしようとしていたのは――研究に支障が出る、だった。
だが、なぜか。
今それを言うのは、あまりにも残酷な気がした。
「……身体にも、影響が出ます」
「違う」
背後から、フェイマンの声がした。
小さい。
だが、断固としていた。
ジョンが振り返る。
「幻覚ではない」
フェイマンは、すでに立ち上がっていた。
つい先ほどまで戻りかけていた安らぎは、跡形もなく消えている。悲しみはまだ瞳の中に残っていた。だが、それさえも――さらに深い恐怖によって、隅へ追いやられていた。
「本当なんだ、ジョン」
老人は彼を凝視した。
一語ずつ、噛み締めるように言う。
「私が見たのは――悪魔だ」
ジョンは眉を寄せた。
フェイマンが嘘をついているようには見えない。
少なくとも本人は、自分の口にしている言葉を一つ残らず信じている。
そのほうが、嘘よりも厄介だった。
「暗闇の中で――動く弧状の光を見た」
フェイマンは右手を上げ、空中をゆっくりとなぞった。
「石壁に沿って、這うように動いていた。雷のようだった。だが、音はしなかった」
老人の呼吸が、少しずつ速くなっていく。
「消えたかと思えば――まったく別の場所から、また現れた」
そして。
「それが、私に触れた」
フェイマンは突然、額に垂れた灰白色の髪を掻き上げた。
右のこめかみが露わになる。
不規則な傷痕が、髪の生え際から下へ伸びていた。こめかみを横切り、眉尻の上で途切れている。傷の縁は周囲より濃く変色していた。
だが中央だけは――異様なほど滑らかな白色をしている。
まるで皮膚が、一瞬の高熱によって焼かれた跡のようだった。
ジョンは半歩近づき、数秒、傷を観察した。
確かに、単なる打撲でできた傷には見えない。
電撃。
あるいは、高温による熱傷。
その後に残る瘢痕のほうが近かった。
だが――それだけでは、何の証明にもならない。
事故後の半年間、フェイマンはひどく酒に溺れていた。何度も我を失い、転倒や自傷の記録も残っている。この程度の傷なら、その時期に負ったとしても何ら不思議ではない。
「私は、あの洞窟から出た」
フェイマンは髪を下ろした。
「だが――あれは、残らなかった」
老人の視線が、ゆっくりと地下室を巡る。
まるで、今この部屋のどこかを移動している何かを、目で追っているかのように。
「私について来た」
ジョンは何も言わない。
「この何年もの間――ずっと、いる」
フェイマンの視線が、ジョンの肩を越えた。
そして突然、彼の右側にある暗がりの一点で、ぴたりと止まった。
「今も――いる」
ジョンの背中が、意志とは無関係に強張った。
それでも、すぐには振り返らなかった。
あれはフェイマンの幻覚にすぎない。長年、心的外傷とアルコールに蝕まれてきた老人が、自分でも理解できない記憶に何らかの具体的な形を与えているだけだ。
ジョンは瞬時にそう判断した。
だが――フェイマンの目は、なおもジョンの背後を凝視していた。
わざと恐怖を煽ろうとしているようには見えない。老人の瞳に浮かぶ恐怖は、あまりにも生々しかった。その瞳孔さえ、かすかに震えている。
「お前のすぐそばにいる、ジョン」
フェイマンは声を潜めた。
「お前には見えない」
そして。
「あれは、お前を見ている」
岩壁から、冷たい水滴が落ちた。
ぴちゃり。
その音が、地下室に響き渡る。
ジョンはようやく顔をわずかに横へ向け、視線だけを傍らへ走らせた。
何もない。
壁面から突き出した、いくつかの岩。そして、その隙間に隠された古い配線が時折ちらついているだけだった。
だが――岩が複雑に重なって生まれた影の奥に、何かが隠れているようにも見えた。
ジョンは目を細める。
不安定な灯りが時折そこを掠め、錆びついた鎖の一部を浮かび上がらせた。
さらに奥は岩に遮られ、全体までは見えない。かろうじて見えるのは、いくつかの太い金属製の輪と、石壁に固定された何らかの鉄製器具だけだった。
完全な形は分からない。
何に使うものなのかも分からない。
ただ――その大きさを見た瞬間。
ジョンはなぜか、人間の手首を思い浮かべた。
その考えが脳裏をよぎった――まさに、その時だった。
「クッ……クク……」
笑い声が。
突然――すぐ真横から聞こえた。
ジョンの瞳孔が、一気に収縮した。
意識より先に身体が反応する。
勢いよく振り返った。
肩から背中にかけての筋肉が瞬時に強張り、片手は反射的に腰へ伸びていた。鋭い視線が、背後の影という影を一気に薙ぐ。
誰もいない。
何もない。
あるのは――岩壁だけだった。
そして。
あの声も、消えていた。
だが、今の笑い声はまともなものではなかった。
掠れていた。壊れていた。途切れ途切れだった。
まるで――苦痛の果てまで追い詰められた人間が、それでもなお笑っているような。
あるいは、その笑い声の奥に潜む何かが――別の命が怯える様を、愉しんでいるような。
ジョンはその場に立ったまま、すぐには振り返らなかった。
数秒が過ぎる。
ようやく彼は、ゆっくりとフェイマンへ視線を戻した。
洞窟を模して造り変えられた地下室。
顔を破壊された聖像。
そして――あまりにも確信に満ちたフェイマンの眼差し。
それらすべてが、ジョンの首筋に薄ら寒いものを這わせていた。
「あれは、ずっと喋っている」
フェイマンが続けた。
「眠っている時も。起きている時も。ずっとだ」
「……何を言っているんです?」
ジョンが尋ねた。
フェイマンの唇が、かすかに震えた。
「殺戮だ」
短い沈黙。
「――殺せと叫んでいる」
ジョンはしばらく彼を見つめた。
やがて、スーツの前を整える。その表情は再び、冷淡なものへ戻っていた。
「ロメフィラさん」
呼び方が――「先生」から、姓へと変わった。
「あなたの経験には同情します。ですが、ご自分が何を見たと信じていようと――個人的な感情を、プロジェクトに持ち込むことだけはおやめください」
フェイマンが一瞬、呆気に取られた。
ジョンは、それ以上言葉を挟ませなかった。
踵を返し、木の扉へ向かう。
「そんなことはしない」
背後から、フェイマンの声が追ってきた。
ジョンは歩き続ける。
「プロジェクトに影響など出ない」
老人の声が――突然、異様なほど静かになった。
「なぜなら……」
ジョンの足取りは変わらない。
「あれが、この仕事を完成させろと言っているからだ」
ジョンの足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
そして何事もなかったかのように、再び石段へ足をかける。
「私は――あの洞窟で、とっくにあれを見ていたんだ!」
フェイマンの声が、次第に大きくなっていく。
低い石壁にぶつかり、何度も、何度も――地下室の奥へ反響していった。
「空が燃え上がるのを見た! 雲の向こうから無数の炎が降り注ぎ、街が一瞬で引き裂かれるのを!」
ジョンは振り返らない。
「巨大な怪物が都市の中で咆哮し、逃げ惑う人々を踏み潰していた!」
フェイマンは扉まで追いすがり、両手で戸口をつかんだ。
「それに、白い虫だ!」
老人の声が裏返る。
「群れを成して、潮のように人間の身体へ入り込んでいく――」
「人を喰っているんだ、ジョン!」
そして、叫んだ。
「何もかも、喰い尽くしてしまう!」
ジョンは最後の石段を上がった。
頭上には、いくつかの星が瞬いている。夕暮れの空気が、地下室に淀んでいた粘つくような湿気を洗い流していく。
地上へ出ると、後ろ手に木の扉を閉じた。
フェイマンの声は分厚い扉に遮られ、地下からわずかな残響だけがくぐもって聞こえる。
ジョンはイチジクの木の下に立ち、深く息を吸い込んだ。
庭の空気にはまだ夏の蒸し暑さが残っている。それでも、あの地下室と比べれば――異様なほど清々しく感じられた。
ジョンは立ち止まらず、そのまま裏庭を横切り、教会へ戻った。
礼拝堂には、もうほとんど人が残っていなかった。
ジャック牧師と二人の教会スタッフが、まだグウェン夫人を取り囲んでいる。老婦人は長椅子の上で身体を縮こまらせ、両手でスカートの裾を強く握り締めていた。口からは時折、意味を成さない呻き声が漏れる。
牧師は片手を彼女の肩に置き、もう一方の手に聖書を持って、低く、しかし切迫した声で祈り続けていた。
彼らにとっては――老婦人に取り憑いた悪霊を、追い払っているのだろう。
ジョンは歩みを緩め、冷ややかに一瞥した。
幽霊。
悪魔。
人間はいつだって――自分では説明できない恐怖に、そういう名前を与えたがる。
ふと、地下室の隅にあった、岩にほとんど隠されていた古い物たちを思い出した。
あの時は一瞬しか見ることのできなかった不完全な輪郭が、記憶の中で再び浮かび上がり、次第に具体的な形を取り始める。
錆びついた鉄製の手枷が二組。
黒ずんだ革の拘束帯が数本。
底に黒ずんだ染みの残る、琺瑯製のバケツ。
そして――脚が一本折れた、細長い木製の寝台。
床板の縁には、長年にわたり縄が擦れ続けたことでできた窪みが残っていた。
あれは明らかに、フェイマンが持ち込んだものではない。
地下室に後から取り付けられたあの木の扉よりも――遥かに古い。
いわゆる「幽霊騒ぎ」は、おそらくあそこから始まったのだ。
かつて、あの地下室へ連れて行かれたのは――幽霊ではない。
生きた人間だった。
なぜ彼らがあそこに繋がれていたのか。
そこで何をされたのか。
それを語ろうとする者は、もう誰もいない。
ジョンは牧師たちの横を通り過ぎた。足を止めることはなかった。
ジャックが顔を上げ、何か言おうとした。
だがジョンは軽く会釈しただけで、そのまま教会を出た。
外では、すでに雨が降り始めていた。
フロリダの海沿いでは、珍しいことではない。
ほんの数分前まで、空にはまだ夕陽の名残があった。それが今では、低く垂れ込めた雲が街全体を覆っている。
最初、雨粒はまだ疎らだった。
教会の石段に。車の屋根に。そして、ヤシの大きな葉に。
ぽつり、ぽつりと落ちては、疎らで鮮明な音を立てていた。
遠くの商店街には、まだ明かりが灯っている。車が浅い水溜まりを切って走り抜け、開いた窓からはラジオの音楽が流れてきた。レストランの看板が次々と灯り、街角では何人かの子供たちが、親に急かされながら家へ駆け戻っていく。
この海辺の小さな街は、たった一度の雨くらいで歩みを止めたりはしない。
それでも、灯りと人々の間に降り始めた雨の幕は、先ほどまでの賑わいを一枚隔ててしまったように見えた。
まるで――何かが、人間たちの街へ音もなく入り込んでいるかのように。
ジョンは車まで歩き、運転席のドアを開けて身体を滑り込ませた。
雨脚は、次第に強くなっていく。
ドアに手をかけ、閉めようとした時。
彼の視線が、もう一度だけ雨の向こうへ向かった。
聖フィリップ教会の尖塔。
ステンドグラスの向こうには、まだ灯りが点いている。
十字架は――ますます重く沈んでいく空の下に、微動だにせず掲げられていた。
ジョンは数秒、それを見つめた。
そして、ようやく視線を戻す。
ドアを閉める。
教会も。
雨音も。
すべてが、車の外へ遮断された。
過ぎ去ったことは――過去に残しておけばいい。
できることなら、この雨が上がる頃には。
掘り返すべきではなかったものも、すべて――
泥の中へ埋もれてしまえばいい。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、フェイマンの過去と、彼が抱え続けてきたものを中心に描きました。
彼が見た「悪魔」は、本当に幻覚だったのか。
それとも――。
物語はここから、少しずつ現在へと近づいていきます。
続きもお楽しみいただければ幸いです。




