序章「胎動」II 深淵
モーテルのネオンサインが、夜の街を再び照らし始める。ラジオからは、ローリング・ストーンズやイーグルスの新曲が繰り返し流れていた。
ベトナム戦争が終結して、すでに二年。人々はようやく、あの長く混迷した時代が静かに過ぎ去ろうとしていることを信じ始めていた。
太陽はメキシコ湾の彼方に半ば身を沈めていた。それでも空を染める橙色はなお濃く、最後まで夕日とともに沈むことを拒むかのようだった。やがて夕闇は、穏やかな海辺の町を少しずつ包み込んでいく。
昼間に蓄えられた熱気はいまだ空気の中に留まり、海風がゆるやかに吹き抜けても、夏の夜特有の湿った暑さまでは運び去れない。ただ、街路に並ぶ背の高いヤシの葉を静かに揺らし、絶え間ない葉擦れの音だけを残していった。
レストラン、バー、モーテル、そしてガソリンスタンド。通り沿いのネオンサインが次々と灯り、赤、青、橙の光が交互に瞬きながら、街並みを鮮やかに染め上げていく。
揚げた魚、ステーキ、ハンバーガー、挽きたてのコーヒーの香り。そこへガソリン、潮の匂い、日中の陽射しを吸い込んだアスファルトの熱気が溶け合う。それこそが、クリークシティの夏の夜だけが持つ空気だった。
通り沿いのバーは扉を開け放っている。店内からはエレキギターと力強いドラムのリズムが溢れ出し、若者たちはカウンターを囲み、ビールを掲げながら音楽やレース、そしてそれぞれの未来について語り合っていた。時折弾ける笑い声は音楽をかき消し、次の瞬間には人々のざわめきの中へ溶けていく。
数十年の歴史を持つ聖フィリップ教会は、そんな街の喧騒から切り離されたように、変わらぬ静けさの中に佇んでいた。ステンドグラスには最後の夕陽が映り込み、尖塔の十字架は藍色へと移り変わる空を背に、黙したままその輪郭を浮かび上がらせている。
街灯が一つ、また一つと灯り始める。柔らかな橙色の光がアスファルトを照らし、礼拝を終えた人々が次々と教会から姿を現した。
男たちは淡い色のシャツにジャケットを肩掛けし、女たちは花柄のワンピース姿で夫の腕に寄り添う。子どもたちは待ちきれないように街角のアイスクリーム店へ駆け出していった。溶け始めたバニラアイスを手に歩道を走り回り、親に呼び止められて初めて名残惜しそうに足を止める。やがてフォードやシボレー、プリムスの車へ乗り込み、それぞれの家路へと向かった。
エンジン音が次々と響き始める。車はゆっくりと教会を離れ、街の流れへと溶け込んでいった。最後の礼拝が終わる頃には、教会前の通りにも再び静けさが戻ってくる。
クリークシティでは、ごくありふれた日曜日の夕暮れだった。
教会から数十メートル離れた路肩に、一台の深緑色のセダンが目立たぬように停まっている。車内ではラジオがつけっぱなしになっていた。
FM局から流れているのは、ビリー・ジョエルの新曲『The Entertainer』。ジョンはほとんど耳を傾けていない。音楽は、沈黙を埋めるための背景に過ぎなかった。
曲が終わると、DJの声が静かに流れ始める。
「――本日ホワイトハウスは、アメリカが新たな時代を迎えつつあることを、あらためて強調しました……」
ジョンは小さく笑うと、ラジオの音量を少し下げた。
「新しい時代、か」
冷え切ったハンバーガーを一口かじり、フェイマンのファイルを再び開く。
「本当の新時代は、政治家が演説で作るものじゃない」
彼はもう一度ラジオの音量を絞った。そんな話には興味がなかった。
ジョンにとって国の運命を変えるものとは、演壇の上で語られる美辞麗句ではない。研究室で生まれる発見。情報機関が描く戦略。そして――力を手にした者たちだ。
資料へ目を落としながらも、その視線の端は絶えず教会を捉えていた。
奇妙だった。
フェイマンは毎月欠かさず、この教会へ礼拝に訪れる。だが、本部が把握している情報も、マヤから得た話も、一つの結論を示していた。
――彼は、すでにキリスト教への信仰を捨てている。
正確には、若い頃のフェイマンは敬虔なクリスチャンだった。三十四歳のとき、彼は考古学調査のためエジプトへ渡った。そして帰国した彼は、まるで別人になっていた。
調査で何が起きたのかを知る者は、誰一人としていない。公式記録には、ただ一行だけ記されている。
――洞窟崩落。十日間、内部に閉じ込められる。
それ以来、彼は信仰を捨てた。酒に溺れ、騒ぎを起こし、自らを家へ閉じこもらせる日々が何か月も続いた。やがて従姉に半ば強引に連れ出されると、その半年後には、何事もなかったかのように再び公の場へ姿を現した。
それ以来、フェイマンは大学へ戻り、生体工学研究室を率いるようになった。そして、エジプトについて語ることは二度となかった。
ジョンは静かに目を細める。
――フェイマン。お前もまた、現実から目を背けた人間ではないのか。
洞窟の崩落によって、十日間も閉じ込められた。神は、お前を救わなかった。帰還後、お前は外傷性暗所視障害を患い、夜になるとほとんど何も見えなくなった。信仰を失い、自暴自棄になり、酒に溺れる日々を送った……。
だが、本当に私の興味を引くのは――あの空白の半年間だ。
本家は、あらゆる記録を跡形もなく処理していた。CIAでさえ、その足跡を辿ることはできなかった。
あの半年、お前は何を見た。
そして、誰がお前を今のお前へ変えた。
ジョンはしばらく黙り込み、自嘲するように小さく笑った。
……いや。立ち直ったというべきではない。
むしろ――一人の狂人が、より冷静な狂人へ変わっただけだ。
彼は指先でファイルの表紙を静かに叩く。
外傷性暗所視障害……。
どうにも、腑に落ちない。
ジョンは再び教会へ視線を向けた。
翌日の午前十時、フェイマンを五十一区研究所へ案内する。そのため、再会した日から彼はすでに監視員を配置し、フェイマンの行動を細かく追わせていた。
今日は、彼が毎月欠かさず礼拝へ訪れる日だ。しかし、信仰を捨てたはずの男が、なぜ毎月決まってこの教会へ足を運ぶのか。
ジョンの脳裏に、書斎で見たあの十字架がよみがえる。あれはイエスではない。少なくとも、自分の知るどの宗教にも存在しない姿だった。
十字架に磔にされていたのは――むしろ、名も知らぬ神だった。
ジョンは腕時計へ目を落とし、それから人影の消えた駐車場へ視線を移した。眉がゆっくりと寄る。
時間が合わない。
アガペー・ミール(愛餐会)はとうに終わり、信徒たちもすでに帰路についている。数日前、情報提供者が調べたところによれば、この教会の出入口は正面の一か所だけだった。
ならば、フェイマンはとっくに姿を現していていい。
だが、今なお彼は現れない。
ジョンはゆっくりと息を吐き、周囲へ視線を巡らせた。
明日の午前十時、クリークシティで自分と落ち合う予定なら、今夜この町を離れるとは考えにくい。
だとすれば――まだ教会の中にいる。
その考えに至ると、ジョンは静かにファイルを閉じ、車のドアを開けた。
夏の夜気はなお蒸し暑く、草木と湿った土の匂いが辺りに漂っている。教会の尖塔に掲げられた十字架は夜空高く静まり返り、闇へ沈みゆく街を黙って見下ろしていた。ステンドグラスの向こうには、まだ灯りがともっている。その淡い光が、古びた教会へ言葉にできない神秘を添えていた。
ジョンは車の脇に立ち、通りの向こうに建つ教会全体をゆっくりと見渡す。
視線は鐘楼からステンドグラスへ、さらに煉瓦造りの外壁をなぞるように移り、最後に建物の裏手――木々の影に隠れた一角で止まった。
研究所育ちの調査員として、彼はよく知っている。本当に注意を払うべきなのは、建物そのものではない。
あとから人の手によって改変された痕跡こそが、真実へ通じる入口なのだ。
ジョンの眼差しが、わずかに鋭くなる。
もしかすると――本当に秘密を隠しているのは、フェイマンではない。
この教会そのものなのかもしれない。
ジョンは車のドアを静かに閉め、スーツの裾を軽く整えた。表情は普段と何ひとつ変わらない。そのまま、ゆっくりと教会へ向かって歩き始める。
もしフェイマンがまだ教会の中にいるのなら、それはかえって都合がよかった。現場を事前に把握しておくことは、長年の経験で身についた彼の習慣でもある。
重厚な木製の扉は、まだ開け放たれていた。
礼拝堂には、帰り支度をしている信徒が数人残っているだけだった。ジョンは敷居をまたぎ、静かに中へ足を踏み入れる。
礼拝堂はそれほど広くない。広さは、およそ二百平方メートルほど。入口から説教壇まで深紅の絨毯がまっすぐ延び、その両脇には二十列ほどの長椅子が整然と並んでいた。
礼拝を終えた教会スタッフたちが後片付けをしている。長椅子を拭く者、讃美歌集を片づける者。礼拝堂には、木蝋とほのかな香の匂いがまだ残っていた。
左右の壁には、福音書の有名な場面が描かれている。ベツレヘムの星。東方の三博士。そして、飼い葉桶に眠る幼子イエス。
ジョンはゆっくりと説教壇へ歩み寄った。
その足が、壇上の前で止まる。
次の瞬間、彼の視線は十字架の背後にある壁へ吸い寄せられた。
中央の壁だけ、左右とはわずかに色味が違う。塗り直されている。だが、新旧の塗装の微妙な差までは隠し切れていなかった。
ジョンの視線は、そのままゆっくりと床へ落ちていく。
十字架の真下。
そして、その左側の一角。
そこには、切断と補修の跡が今なお薄く残されていた。
ジョンは黙ってその痕跡を見つめ続ける。脳裏には、かつてここにあった光景が自然と組み上がっていく。
高く掲げられたキリスト磔刑像。慈愛に満ちた眼差しを湛える聖母マリア。静かに揺れる燭火。そして、一列にひざまずいて祈りを捧げる信徒たち――。
宗教的象徴とは、具体的であればあるほど、人に「神はここにいる」と信じさせる。
こうした配置なら、幼い頃に嫌というほど目にしてきた。
ジョンの口元に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。
――なるほど。この教会は、最初から今の姿だったわけではない。
聖像は取り払われた。しかし、その痕跡までは消し去ることができなかった。
いま残されているのは、白く塗られた何もない壁だけ。それでもジョンは一目で理解した。説教壇の後ろには十字架だけが掲げられている。聖像はない。祭壇を飾る装飾もない。
典型的なプロテスタント教会の礼拝堂だった。
だが――。
ジョンの瞳に、かすかな皮肉が宿る。
聖像を退け、人と神が直接向き合うことを掲げた宗教改革。本来それは、一つの原点回帰だったはずだ。しかし、境界を失った自由は、やがて必ず別の極端へと向かう。
わずか数百年。新たな教派は次々と生まれていった。誰もが、自分こそ真理を理解していると信じている。
だからこそ、真理は増え続けた。
信徒も増え続けた。
それでも、人間は一度として以前より善くなったことはない。
ジョンは静かに視線を戻した。
なるほど。
フェイマンもまた、自分だけの答えへ辿り着いた一人なのかもしれない。
「失礼ですが」
穏やかで、よく通る声が背後から聞こえた。
「何かお探しでしょうか」
ジョンは振り返る。
そこには四十代半ばほどの男性が立っていた。濃紺のスーツを端正に着こなし、胸元には小さな十字架のピンバッジ。穏やかな笑みを浮かべ、その眼差しには人を安心させる誠実さが宿っている。
ジョンは一目で悟った。この教会の主任牧師だ。
男は長身で、自分より頭一つ分ほど背が高い。ジョンは軽く目を上げ、柔らかな笑みを返した。
「こんばんは、牧師先生」
そう言って、十字架の下に残る補修跡を指し示す。
「以前、この場所には何か置かれていたのでしょうか」
牧師はその先へ視線を向け、小さく頷いた。
「ここですか」
しばらく顎に手を添え、記憶を辿るように静かに考え込む。
「私がこちらへ赴任したのは数年前のことです。その頃には、すでに今の姿になっていました。もっとも、古くからの信徒の話では、以前はカトリック教会で、この場所には聖母マリア像が安置されていたそうです」
少し間を置いて続ける。
「ですが、私たちプロテスタントは、礼拝を受けるにふさわしいのは主お一人だけだと考えています。マリアは深く敬うべき存在ではありますが、礼拝の対象ではありません」
「つまり――人は、人に礼拝されるべきではない」
ジョンが静かに言葉を引き継ぐ。
牧師は目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。
「まさに、その通りです。目に見える形あるものは、信仰を理解する助けに過ぎません。本当に大切なのは、その信仰によって人の心が変えられることです。ですから、聖像も取り払いました」
ジョンも穏やかに頷く。
「確かに。そもそも、イエスが実際にどのようなお姿だったのか、本当に知る者はいません。後世の人々が想像して造った像に心を向けすぎれば、本当に残そうとされたものを見失ってしまうのかもしれませんね」
その言葉はあまりにも自然だった。疑うわけでもなく、迎合するわけでもない。まるで旧友と昔話を交わしているような穏やかさがあった。
牧師の笑みはさらに深くなる。
ジョンも変わらぬ微笑を浮かべていた。しかし、その視線はとうの昔に宗教そのものから離れている。
彼の興味を惹くのは、神ではない。
人間だった。
「そうだ」
何かを思い出したようにジョンが口を開く。
「今日の礼拝で、一人のご老人をご覧になりませんでしたか。七十代くらいで、茶色がかった長髪に顎髭を生やし、右の額に傷痕のある方です」
牧師の笑みは崩れない。
だが、ジョンは見逃さなかった。
その瞳が、一瞬だけ止まったことを。
ほんの刹那、牧師の唇がわずかに開く。答えようとした。しかし、その言葉は口をつくことなく飲み込まれた。舌先が静かに上顎へ触れる。
そして再び、穏やかな笑みが戻った。
「こちらには毎週、本当に多くの方がお見えになります。長く通っておられる信徒もいれば、時折いらっしゃる方もおりますので……申し訳ありませんが、すぐには思い出せませんね」
そう言って、ジョンを見つめる。
「その方は、この教会の信徒なのですか。それとも……ご親族の方でしょうか」
ジョンは一瞬だけ、言葉を選ぶように黙り込んだ。
やがて、少し照れたような笑みを浮かべる。
「実は今日のお昼、レストランでお見かけしたんです。店員さんに、とても気前よくチップを渡しておられて。この時代に、あれほど気前のいい方も珍しいと思いまして」
肩をすくめ、小さく笑う。
「そのあと、お店を出ると、そのままこちらへ入っていかれたんです。それで思ったんです。もしかすると……あの方の信仰が、その理由なのではないかと」
そう話しながら、ジョンは静かに十字架へ視線を向ける。声も少しだけ低くなった。
「私の家も、昔は神を信じていました。ですが……私は途中で、その道を離れてしまいました。ここ数年は……人生もうまくいかなくて」
苦笑とも自嘲ともつかない笑みが口元に浮かぶ。
「今日ここへ来たのも……神が導いてくださったからなのかもしれません」
牧師の表情が、ふっと和らぐ。
「神に感謝します。主は、ご自分に近づこうとする者を決して見捨てられません」
その声には、心からの喜びが滲んでいた。
ジョンも静かに微笑み返す。
ほんの数分。
それだけで、彼は欲しかった答えを手に入れていた。
牧師は最初、答えようとした。その一瞬だけ、視線が無意識のうちに説教壇の左手にある小さな木の扉へ向いていた。
――答えは、あそこにある。
ジョンは静かに目を伏せる。
思考を瞳の奥へ押し隠し、表情だけは変わらぬ穏やかさを保った。
彼の話のほとんどは嘘だった。
だが、本当に巧妙な嘘というものは、すべてを作り話にはしない。
フェイマンが店員へ気前よくチップを残す。それは事実だった。
十数年前、まだ研究所で助手を務めていた頃、教授は食事を終えるたび、紙幣を何枚かきちんと皿の下へ挟んで店をあとにしていた。相手が誰かを気にすることもなければ、感謝されることを望むこともない。ただ黙って、それを置いて立ち去るだけだった。
家族が神を信じていたことも、本当だ。もっとも、それは遠い昔の話だった。その記憶は、とうの昔に幼い日の中へ置き去りにしてきた。
ジャック牧師は、なお喜びに満ちた表情を浮かべていた。
その笑みがさらに深くなろうとした、その時だった。
「ジャックさん!」
礼拝堂の入口から、年配の女性の声が響く。牧師は振り返った。
「ウィンスさんがまたいらっしゃいました。今日は前より具合が悪そうです」
ジャック牧師の笑みがわずかに消え、表情に心配の色が差す。入口へ視線を向けると、申し訳なさそうにジョンへ向き直った。
「すみません、子よ。少し席を外させてください」
ジョンはすぐに理解を示すように軽く手を振った。
「お気になさらないでください。私は……ここでもう少し祈っていようと思います。神が、まだ私の声を聞いてくださることを願いながら」
ジャック牧師は満足そうに微笑み、一歩近づいてジョンの肩へそっと手を置いた。
「子よ。主は、砕かれ、悔いた心を決して軽んじられません。神の祝福がありますように」
「ありがとうございます」
ジョンは静かに頭を下げ、穏やかに答えた。
ジャック牧師は軽く頷くと、そのまま教会の入口へ向かって歩き出した。二、三歩進んだところで、不意に何かを思い出したように足を止める。
「――ああ、そうでした」
申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、もう一度振り返った。
「先ほどお話しされていた、そのご老人ですが……私たちは皆、『グウェンさん』と呼んでいます。この教会の古くからの執事でして、普段は教会に残されている古い品々の整理を任されているんです」
そう言いながら、牧師の視線が無意識のうちに説教壇脇の小さな木の扉へ流れた。
「この時間でしたら……もしかすると、まだ物置でお祈りをされているかもしれません」
言い終えた直後、ジャック牧師は自分が少し話しすぎたことに気づいたらしい。その笑顔が、ごくわずかに強張った。だが、それも一瞬だった。すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
ジョンは礼儀正しい笑みを崩さないまま、静かに頷いた。
「なるほど」
だが、その胸中ではすでに答えが導き出されていた。
――グウェン。
その名を心の中で静かに繰り返す。口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
ジャック牧師はもう一度軽く会釈すると、教会の入口へ歩いていった。待っていた奉仕者たちがすぐに集まり、小声で何事かを報告し始める。牧師は話を聞きながら何度か頷き、ときおり短く言葉を返した。やがてウィンス夫人のもとへ歩み寄り、その場にしゃがみ込んで優しく声を掛け始める。
ジョンは、まだ動かなかった。
十字架の前で両手を静かに組み、わずかに頭を垂れる。遠目には、初めて教会を訪れ、熱心に祈りを捧げている青年にしか見えない。
数秒後、ジョンは静かに目を開いた。
顔は動かさない。視線だけをわずかに巡らせ、礼拝堂全体の様子を確認する。
入口では、ジャック牧師と奉仕者たちが輪になり、ウィンス夫人の手を取り合って祈っていた。反対側では、一人の若い女性奉仕者がこちらに背を向け、掃除道具を載せたワゴンを押しながら長椅子を丁寧に拭いている。
誰も、こちらを見ていない。
それでもジョンは動かなかった。
壁の時計へ視線を送る。秒針が静かに十二を越えていく。
一秒。
二秒。
三秒。
すべての視線が完全に自分から離れたことを確認すると、ようやく両手を下ろした。
祈りを終えた信徒のように、胸の前でぎこちない十字を切る。それから何事もないように身を翻し、説教壇の左手へ歩き始めた。
足取りは終始落ち着いている。急ぐ様子は微塵もない。
小さな木の扉は壁際にひっそりと埋め込まれていた。注意して見なければ、その存在に気づくことすら難しい。
ジョンは扉の前で立ち止まった。
すぐにはノブへ手を掛けない。わずかに身を寄せ、耳を澄ませる。
静かだった。
足音はない。話し声もない。息遣いさえ聞こえない。
ジョンはそっと真鍮製のドアノブへ指を添え、ゆっくりと押し下げた。
――カチッ。
錠が、ごく小さな音を立てる。
ジョンはそのまま動きを止めた。
礼拝堂には、箒が床を掃くかすかな音だけが流れている。誰一人、振り向く者はいなかった。
ジョンの口元が、わずかに緩む。
――どうやら、お前の神は私に微笑んでくれたらしい。
そう心の中で呟くと、身体を横へ滑らせた。まるで壁際を音もなく流れる影のように、彼は素早く扉の向こうへ姿を消す。
木の扉が静かに閉じていった。
礼拝堂は再び、元の静寂を取り戻す。
十字架だけが変わることなくそこに立ち続けていた。
まるで最初から最後まで、誰一人その視線の外へ出ることなどなかったかのように。
木の扉が閉じると同時に、礼拝堂の灯りは向こう側へ置き去りにされた。
闇が、ゆっくりとジョンを包み込む。
彼はその場で静かに足を止めた。暗闇に目が慣れてくるにつれ、前方の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
そこには一本の細く薄暗い廊下が、音もなく奥へと伸びていた。
廊下の両側には、古い壁付けのランプがいくつか残されている。蝋燭はとうの昔に失われ、埃をかぶったガラス製のシェードの下には、煤けた燭台受けと、くすんだ真鍮の金具だけが残っていた。この教会がまだカトリック教会だった頃に使われていた照明なのだろう。いまでは、すっかり役目を終えている。
頭上には裸電球が一つぶら下がっていた。配線は壁に沿って無造作に這わされ、電球は頼りない黄色い光を落としている。照らし出せるのは足元から数歩先まで。その先の廊下は、再び闇へと溶け込んでいた。
ジョンは扉の脇で足を止め、左から右へゆっくりと視線を巡らせる。
左手の木戸は固く閉ざされていた。脇には古びた祭服が数着掛けられ、壁際にはホーロー製の洗面器が置かれている。教会スタッフが休憩や着替えに使う部屋なのだろう。
一方、右手の扉は半開きだった。隙間から覗く室内には、折り畳み椅子や燭台、壊れた木製ラック、聖書を詰めた古い段ボール箱が雑然と積み上げられている。
物置か。
ジョンは中を覗こうとはしなかった。フェイマンが身を潜める場所ではない。
廊下の突き当たりには、もう一枚の扉があった。
ジョンはノブを握り、静かに押し下げる。蝶番が小さく軋み、湿り気を帯びた夜風が隙間から流れ込んできた。
その先は、教会の中庭だった。
広さはそれほどない。大型車がようやく方向転換できる程度の広さしかなかった。三本のイチジクの木が塀沿いに枝を伸ばし、その葉が重なり合って、中庭の大半を濃い影で覆っている。
塀際には、低い墓石が二基並んでいた。風雨にさらされ続けた碑面はひどく摩耗し、かろうじて姓と年代の一部が読み取れる程度だった。墓石は静かに、イチジクの木の下へ寄り添っている。
そこに刻まれた名前も、ほとんど判読できない。おそらく、この教会を最初に建てた人物か、あるいは長年ここで仕えた牧師なのだろう。
そのうち一つの墓石の前に、一人の白髪の老婦人が立っていた。両手を静かに組み、目を閉じ、小さな声で祈りを捧げている。
ジョンは一瞬、どんな身分を名乗るべきか考えた。
しかし、口を開くより早く――老婦人のほうがゆっくりと振り返った。
穏やかな笑みが、その顔に浮かぶ。
「あなたも、グウェン牧師に会いに来たのかい?」
ジョンの表情は微塵も揺らがない。自然に頷いた。
「ええ。失礼ですが……こちらはグウェン牧師のご家族のお墓でしょうか」
彼は墓石へ目を向ける。
老婦人もしばらく墓石を見つめたあと、小さく首を横に振った。
「誰も知らないのさ。ずっと昔、一度だけ若い男の人が来たことがあってね。自分はグウェン牧師の息子だ、と言っていたよ」
老婦人は小さく息をつく。
「それきり、誰も訪ねて来なくなった」
視線が隣の墓石へ移った。
「昔はね、グウェン牧師がこの教会を預かっていたんだよ。日曜日になれば、礼拝堂はいつも人でいっぱいだった」
懐かしむように微笑む。まるで、何十年も前へ戻ったかのようだった。
「だけどね……」
その笑みが、静かに消えていく。
「そのうち、この教会には幽霊が出るって噂になってしまった」
老婦人の声が少し低くなった。
「夜になると、教会の中から足音が聞こえてきたり……獣みたいな唸り声が響くようになったんだ。最初は、ホームレスでも入り込んだんだろうって、みんな思っていた。だから何度も中を調べたんだけどね」
ゆっくりと首を振る。
「教会の中には、誰もいなかった。動物もいない。窓だって、一枚も開いていなかった」
そこで、老婦人は一度言葉を止めた。
「それなのに……人が出て行くとね。また奥のほうから、その音が聞こえてくるんだよ」
声が、かすかに震える。
「それからは、礼拝に来る人も少しずつ減っていった。神様の怒りを買ったんじゃないかって……そんなことを言う人までいた」
老婦人は静かに目を伏せる。その声は、風に溶けるように小さくなっていった。
「その後も、牧師はずっと塞ぎ込んだままでした。それから数年も経たないうちに……主のもとへ召されました」
ジョンはすぐには口を開かなかった。
ゆっくりと墓石の前へ歩み寄り、静かに頭を垂れる。胸元で小さく十字を切った。
どこにでもいる、ごく普通の信徒のように。
しばらく沈黙が流れた。
やがて、ジョンは小さく口を開く。
「私は――こういう怪談というものは、大抵、本当に隠したい何かを覆い隠すために生まれるものだと思っています」
そして墓石へ目を落としたまま、静かに続けた。
「グウェン牧師は……きっと、そのことを誰よりもよく知っていたのでしょう」
老婦人は一瞬だけ目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「そのあと、この教会はある実業家に買い取られたんです。修繕を終えると、その方は無償で今のプロテスタント教会へ寄付してくださいました」
老婦人は墓石へ目を向けた。その瞳は少しずつ潤み始めている。
「グウェン牧師は……本当に優しい方でした。でも……優しい人ほど、生きるのは難しいものですね」
そう言うと、老婦人は皺だらけの両手で、そっとジョンの手を包んだ。
「神様の祝福がありますように」
そう言い残し、老婦人はゆっくりと踵を返した。静かな足取りで中庭をあとにしていく。
その姿が廊下の向こうへ消えるまで、ジョンは黙って見送っていた。
やがて視線を墓石へ戻し、小さく呟く。
「……そうですね」
短い沈黙。
「善人ほど、生きるのは難しい」
数秒の静寂のあと、その瞳に浮かんでいた感傷は、あっという間に消え去った。
残ったのは、調査員としての冷静な眼差しだけだった。
彼の視線が、中庭をゆっくりと舐めるように動いていく。
木々。
石塀。
排水溝。
墓石――。
そして。
その視線は、中庭の最も奥で止まった。
枝を低く垂らした一本のイチジクの木。濃い木陰が、地面の大半を覆い隠している。
その闇の中に――
四角い木板の角が、わずかに姿を覗かせていた。
この位置に立たなければ、おそらく門のほうから見つけることはできない。
ジョンはゆっくりと歩み寄った。
枝葉をかき分けるたび、隠されていたものが少しずつ姿を現していく。
やがて、その全貌が露わになった。
それは、地面へ埋め込まれた地下室の扉だった。
湿気を吸って黒ずんだ木板。縁には一面に苔が広がり、中央には錆びついた鉄の取っ手が取り付けられている。一見しただけなら、何年も開かれていないようにしか見えない。
ジョンはその場へしゃがみ込み、指先で扉の縁を静かになぞった。
苔がわずかに剥がれ落ち、その下から色の新しい木肌が現れる。
鉄の取っ手の周囲にも、不自然なほど錆の擦れた跡が残っていた。その傍らには、まだ乾き切っていない泥の跡がいくつも付着している。
――最近まで、この扉は何度も開閉されていた。
ジョンはゆっくりと顔を上げ、枝葉の隙間から曇った夜空を見上げた。
もし、この教会にまだ誰にも見せたくない秘密が残されているのだとすれば――
その答えは、おそらく、この地下にある。




