序章「 胎動」 I 偽装
「信じられない……無機物と有機物、まったく相反する二つの性質を、同時に示しているというのか……」
老人は報告書を両手で支えたまま、震える指先でページをめくっていた。まるで、一文字たりとも見落とすまいとしているかのようだった。
「ふふ……ずいぶん興味を持たれたようですね、先生」
青年は書斎机を挟んだ向かい側に腰掛け、どこか愉快そうに老人を眺めていた。
そこは、典型的な西洋古典様式の書斎だった。重厚な木製家具に、深紅の絨毯。室内には古書の紙の匂いと蝋燭の蝋、それに湿気を含んだ木材特有の香りが静かに混ざり合っている。
青年は机上のペンケースから一本の万年筆を取り上げると、指先でゆっくりと回し始めた。老人はなおも報告書に没頭している。もはや青年の存在など、意識の外に追いやられているようだった。
かつての恩師がこれほどまでに心を躍らせている姿を目にすると、さすがの青年も声を掛ける気にはなれなかった。たとえ、自分がかつて先生に最も嫌われていた学生だったとしても。
青年は視線を落とし、手にした万年筆を静かに眺める。
軸の大部分は金属製で、表面には鈍い金色のメッキが施されていた。キャップの頂部には一粒のルビーが埋め込まれ、燭台の炎を受けて、まるで凝固した血液のような深い輝きを放っている。
さらに握りの近くには透明な水晶がはめ込まれていた。その内部には、灰白色の土がほんのわずか封じ込められている。月から採取されたものだ、と聞いていた。
青年は万年筆を裏返した。透明な水晶の表面には一行の文字が刻まれ、彫り込まれた溝には金粉が丁寧に流し込まれている。
――ロメフィラ。
その名を目にした瞬間、青年の指先がわずかに止まった。
ロメフィラ。それは、先生の一族の姓だった。
アメリカ建国期において最も大きな影響力を持った名門の一つとされ、その財力は小国一つに匹敵するとさえ言われている。一族は核兵器開発にも深く関与し、第二次世界大戦におけるアメリカの勝利、さらには核覇権の確立を陰から支えた――そんな噂さえ存在していた。
もっとも、その真偽が公に証明されたことは一度もない。
先生自身はロメフィラ家の傍流にすぎず、本家中枢の資産に触れる立場ではなかった。それでも、傍流と呼ばれるだけで動かせる資源は、並の財閥とは比較にならないほど莫大だった。
青年は静かに顔を上げた。
老人はなおも報告書の世界に没頭している。唇がかすかに動いているものの、声にはならない。まるで、自分にしか理解できない思考実験を頭の中で繰り返しているかのようだった。
――また始まった。本当に、変わらない人だ。
いや、狂人と呼ぶべきなのかもしれない。
研究室にいた頃も、まったく同じだった。少しでも興味を引く研究課題を目にすれば、先生はたちまちその世界へ没頭する。そして次の瞬間には、学生たちを容赦なく罵倒し始めるのだ。
愚かだ。鈍い。お前たちは豚や犬にも劣る――。
そんな言葉が、研究室には日常のように響いていた。とりわけ、その矛先はいつも自分へ向けられていた。
先生は、こちらに視線を向けることさえせず、居並ぶ学生たちの前で平然と言い放ったものだ。
「お前は、私がこれまで教えてきた中で最低の学生だ」
それほど他人に厳しい一方で、先生は毎日のように一冊の聖典を抱え、研究室の奥にある自室で静かに読み耽っていた。気づけば半日が過ぎていることも、決して珍しくはない。
聖典――。
青年はふと思う。そういえば、自分は先生が何を信仰しているのか、今なお知らなかった。
彼は静かに書斎を見渡した。
部屋全体は古典ヨーロッパ様式で統一されている。しかし、その調和の中には、どこか異質なものが幾つも紛れ込んでいた。石造りの書棚には楔形文字が刻まれ、その縁には長い歳月の痕跡が残されている。部屋の隅には人頭獣身の小さな彫像がいくつも並び、棚に置かれた器物にも、古代エジプトを思わせる意匠が色濃く残っていた。
まだ昼間だというのに、分厚いカーテンは一枚残らず閉ざされている。陽光は重い布地に遮られ、部屋の中を照らしているのは、いくつかの燭台だけだった。揺らめく淡い灯火が辛うじて机を照らし、この閉ざされた空間にわずかな温もりを与えている。
老人の背後の壁には、一体の磔像が掛けられていた。
一見すれば、キリストの磔刑像にも見える。だが、十字架に掛けられているのはイエスではなかった。
異様なまでに細長い肢体。古代エジプト彫刻を思わせる、どこか硬質で無機質な顔立ち。その額には茨の冠ではなく、幾束もの枯れた葦が静かに巻き付けられていた。
青年は思わず、もう一度その像へ目を向ける。
――いや。
あれは、聖像などではないのかもしれない。
「ジョン」
老人が、不意に口を開いた。
その声音は変わらず穏やかだった。だが、その奥底には、抑え切れないほど熱を帯びた狂気が静かに潜んでいた。
ジョンは思考を引き戻し、すぐに老人へ視線を向ける。
「先生」
老人の瞳を見つめる頃には、口元にはいつもの穏やかな微笑みが戻っていた。
「お読みになって、いかがでしたか」
ジョンの視線は老人の顔から離れない。
瞳孔のわずかな変化。口元の筋肉の動き。呼吸の乱れ。
ほんの些細な反応すら見逃すまいと観察していた。それは、CIAに入ってから身につけた習慣だった。
老人はゆっくりと顔を上げ、冷ややかな目でジョンを見据えた。
「ジョン。あの愚か者どもが好んで使うような手口で、私を観察する必要はない」
そう言うと、静かに報告書を閉じる。
「私は政治には興味がない。今回の件に協力すると決めた理由は、ただ一つ――」
そこで老人は言葉を切った。
瞳がわずかに右へ流れる。視線の先には、石造りの書棚に置かれた小さな置物があった。
ジョンもまた、その視線を追うように横目で一瞬だけ確かめる。
懐中時計だった。
見覚えがある。先生は昔から、あの聖典にそれを掛けていた。
半秒にも満たない時間で、ジョンは再び老人へ視線を戻す。その表情は微塵も変わっていなかった。
「……私は、探究者だからだ」
老人は静かに言った。深く椅子にもたれかかり、その声はさらに低く沈む。
「人類とは、実に哀れな生き物だ。何千年という歳月を経ても、本質は何一つ変わらない。文明の発展と呼ばれるものも、所詮は虚構のゲームの中で、自らの持ち札を増やし続けているにすぎない」
燭火が、かすかに揺れた。
老人はジョンをまっすぐ見つめる。
「だが、そのゲームで……我々はいったい何を相手に賭けている?」
ジョンは答えなかった。
老人の眼差しが、妙に胸につかえる。問い掛けというより――警告だった。
まるで、こう告げられているようだった。
お前もまた、この賭けの盤上に立っている。
焦って賭ける者ほど、最後にはすべてを失う。
「先生のお考えは、尊重しております」
ジョンは穏やかに微笑みながら答えた。その声色に、不快感は欠片も滲ませない。
しかし、その瞳の奥では、別の言葉が静かに囁かれていた。
――先生。あなたも同じではありませんか。
あなたもまた、自らが作り上げた幻想のゲームに囚われているだけだ。
しばらくの沈黙のあと、老人は再び報告書を手に取った。
「その計画なら、一度見に行こう」
そう言って、短く続ける。
「来週の月曜日。フロリダ州クリークシティ、ヘンリー通りのトルコ料理店まで迎えを寄越せ」
「承知しました」
ジョンは小さく一礼する。
「ご指導いただけることを、光栄に存じます」
そう言って机上の書類へ手を伸ばす。
だが、老人の動きのほうが早かった。
年老いた手が静かに報告書を押さえ、そのまま持ち上げる。ジョンが止める間もなく、一角を燭台の炎へ近づけた。
紙はたちまち火を食い、赤い炎が縁から音もなく這い広がっていく。
「……先生、それは」
「どうせ持ち帰ったあとで、お前も処分するつもりだったのだろう」
老人は燃え上がる報告書を見つめたまま、淡々と言う。
「ならば、私が代わりに済ませておいた」
炎の明かりが、老人の横顔を赤く照らした。
「学生は学生らしくあるべきだ。教師の許可もなく、ここから物を持ち出そうなどとは感心しない」
報告書は瞬く間に縮れ、黒く焼け焦げ、やがて灰となって崩れ落ちた。
老人は静かに背を向ける。もう何も語ろうとはしなかった。
壁に掛けられた異形の十字架像を見上げたまま、微動だにしない。その背中は、長い年月をそこに立ち尽くしてきた石像のように硬く、静まり返っていた。
――これ以上話すつもりはない。
そう告げるには、それだけで十分だった。
ジョンはゆっくりと立ち上がり、老人の背中を冷ややかに見つめた。
研究室での日々が、不意に記憶の底からよみがえる。
浴びせられた罵声。容赦ない嘲笑。そして、一度として自分を真っすぐ見ようとはしなかった、あの冷たい眼差し。
「承知しました、フェイマン教授」
ジョンは静かに袖口を整える。
「それでは、失礼いたします」
扉へ向かいかけたところで、ふと足を止めた。
「そういえば――この研究については、まだロメフィラ本家にはお伝えしておりません」
老人は振り返らない。返事もなかった。
ジョンもそれ以上は何も言わず、静かに書斎をあとにした。
書斎の外には、小さなティールームが続いている。メイド長のマヤは、そこでずっと彼を待っていた。
ジョンの姿を認めると、すぐに立ち上がって一礼し、そのまま屋敷の前庭へ続く廊下を案内する。歩きながら、マヤは何度もジョンの表情を盗み見ていた。
中庭へ差しかかった頃、彼女はついに口を開く。
「ご主人様とのお話は、うまくいきましたか?」
その声は、どこか遠慮がちだった。
「旦那様は少々変わったお方ですから……失礼なことを口になさってはいなかったかと、少し心配で」
「いいえ」
ジョンは彼女のほうへ顔を向け、非の打ちどころのない微笑を浮かべた。
「とても有意義な時間でした。どうか、ご心配なく」
マヤはその青い瞳と視線を合わせた。だが次の瞬間には、照れ隠しをするように目を逸らしてしまう。頬がほんのりと赤く染まっていた。
ジョンの瞳は深い蒼色をしていた。穏やかな海の底に、人知れず激しい潮流を秘めているような色だった。その奥に何が隠されているのか――そう思わせる得体の知れない魅力が、人の好奇心を自然と掻き立てる。
その整った容姿も相まって、彼はこれまで幾人もの女性の心を惹きつけてきた。
マヤも、その一人に過ぎない。
今回、先生と接触する機会を得られたのも、彼女の力があってこそだった。メイド長であるマヤは、この屋敷の中で決して小さくない権限を持っている。
とはいえ、まだ二十八歳。
その若さでメイド長にまで上り詰めた理由は――おそらく、あの老人の個人的な趣味なのだろう。
やがて二人は屋敷の正門へたどり着いた。
ジョンは足を止める。
「マヤ」
「はい」
「これからも、お互いを理解し合える関係でいられると嬉しいですね」
その声音は穏やかで、眼差しもまた柔らかく変わっていた。口にはできない想いを、そっと託しているかのようだった。
マヤは一瞬目を丸くし、それから照れくさそうに小さく頷いた。
やがて、屋敷の重い門が静かに閉じられた。
ジョンは背を向ける。
門が閉じると同時に、その口元から笑みが消えた。
先ほどまでの柔和な表情は跡形もなく消え失せ、残ったのは感情を失ったような無表情だけだった。
彼は黙ったまま、山道をゆっくりと下っていく。
マヤは知らない。
自分がジョンの周囲にいる数多くの女性の一人に過ぎないことを。
恋人ですらない。
ただ、利用価値のある駒。
それだけだった。
山道は思っていた以上に長かった。ようやく麓が見え始めた頃、ジョンは小さく息を吐く。
――ようやく、あの薄気味悪い場所を離れられる。
彼はふと足を止め、振り返った。
丘の上に建つ屋敷は深い木々に覆われ、その姿の大半を隠している。見えているのは、暗い赤色の屋根の一角だけだった。
遠目には、森の奥で獲物を待ち伏せる巨大な獣のようにも見えた。
ジョンは目を細める。
――フェイマン。
結局、お前は本家から切り捨てられた人間に過ぎない。
理想だけは立派だ。才能もある。だが、お前が追い続けてきた研究は、現実には何の価値も持たない空想ばかりだ。
ロズウェル事件がなければ――祖国のために身を削ってきた本当の研究者たちがいなければ、お前はあの書斎で朽ち果てるだけだっただろう。
お前は、この国のために何一つ成し遂げてはいない。
自分で作り上げた神話に酔い、自分自身に感動しているだけだ。ああいう退屈な上流階級の人間は、税金を浪費することしか知らない。
だが、私は違う。
この国の未来を、本気で憂えているのは私だ。
あの場所に立つべき人間も、本来は私であるはずだった。
ソ連が何だ。ヨーロッパが何だ。
奴らも核を持っている?
だから何だという。
あの遺産が完全に解析された時、力の均衡は再びアメリカへ傾く。その時になれば、ソ連の共産圏も、老いさらばえたヨーロッパ諸国も、いずれ頭を垂れることになる。
その力を手にする資格があるのは、アメリカ合衆国だけだ。
世界の平和を守る資格を持つのも、我々だけなのだから。
気がつけば、ジョンは車の運転席に座っていた。
ハンドルを握る両手には力が入り、爪が掌へ食い込むほど強く握り締めている。
彼はゆっくりと指先の力を抜き、一つ深呼吸をした。
ルームミラーに映る自分の顔。
そこに浮かんでいた陰鬱な表情は、少しずつ溶けるように消えていく。
数秒後には、見慣れた微笑だけが口元に残っていた。
穏やかで、上品で、何一つ隙のない笑みだった。
ジョンは静かにギアを入れ、アクセルを踏み込む。
車は山麓を離れ、蛇行する道路の彼方へと走り去っていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回「序章Ⅱ」も、お付き合いいただければ幸いです。
※本作はフィクションです。
実在する人物・団体・国家・歴史・宗教等とは関係ありません。
作中の設定には、創作上の独自解釈が含まれます。




