五十二 長いの、兄弟のかたきを討つ
雅寿丸、今度は避け損ない、右腕から肩にかけてを大きな虎の口の中へ、たやすく収められてしまう。
咀嚼されれば終いだが、雅寿丸とて黙って腕を喰わせてやらなければならぬ義理はない。牙が食い込む肩から血をしたたらせながらも、半狂乱で力尽くに腕を引き抜こうとはしない。
それよりも確実にこの窮地を脱するため、長く柔らかい体をねじ曲げ、両の後ろ足をも窮奇の口へと突っ込んだのである。こうして片手と両足を踏ん張れば自身がつっかえ棒になり、そう易々とは口を閉じさせない。
喰いちぎろうとする者と、喰わせじとする者の攻防がしばらく続き、後者が突然閃いて、
「窮奇とやら、これでも食らえ」
言うとともに、今まさに飲まれかけている腕を伸ばし、上の顎を長い爪でくすぐった。
「ぶはッ」
たまらず甚蔵、顎に捕らえた獣を吐き出した。
唐ではひたすら恐れられていたこの妖物にとって、未曾有の屈辱であった。吊り上った眼から今にも火を吹きかねない形相で、転がる鼬を睨む。そして歯噛みしながら一頻り唸ったあと、突然静かな声音で言った。
「やはり、これでけりをつけよう」
大きな熊がでんぐり返るようにして、窮奇は再び人の姿をとった。
「よし、そうしよう」
雅寿丸にも頷き、墨染め袴姿へと転ずる。
放り出した刀をつかんだ甚蔵は、息つく間を与えず間合いを詰めた。
突き立てた二刀を引き抜いたところであった雅寿丸は、とっさに吉勝丸、楽喜丸を十字に違え、大刀の一撃を受け止めた。
しかし、ここで体勢を崩したのが非常に拙く、防戦一辺倒へ追い込まれた。
駆け足での後退を余儀なくされ、上下左右から襲い来る大刀をすべて防ぐなど無理な話である。太刀筋から打ち込みの勢いを見極め、軽いものをあえて食らうことで深手を避けた。
一度など、振り下ろされる前に鍔際に頭突きを食らわせるようにして甚蔵の刀を防いだ。当然、雅寿丸の頭からは血がしぶく。
そんなさまを、それぞれほぼ手筈どおりの割り当てをこなしてきた追儺、慶吾と花江が固唾を飲んで見守る。
このままでは、月の選びし稀有な心情の持ち主が死んでしまう。追儺はそう思った。助勢せねばならぬとも。
しかし、心のあり方を裏切り、足は膠で貼りつけられたように一歩たりとも動かなかった。
面妖なこともあるものだと首を捻りつつ気を逸らせていて、今年米寿を迎えた仙人は、はたと気づいた。
甚蔵の剣気に当てられ、動けないのである。恐らく慶吾も花江も同様だろう。
海千山千の我が身さえ竦ませる相手と渡り合う、雅寿丸という男の丹力に、追儺は賭けるしかないことを悟った。
そしてついに草鞋の踵を小石に引っ掛け、あわや転倒の憂き目にあったとき、ようやく反撃の手段が頭に浮かび、雅寿丸は黒々とした目を輝かせた。
血まみれの若武者が、豪傑の膝を蹴りつけて間合いを大きく取り直す。甚蔵が思いのほか用心深く、踏み込んでこないのを悟ると、雅寿丸は両腕の力を抜いて刀を下げた。それから、
「風隼鎌鼬流、一太刀の構え!」
と叫んで、両手を横から大きく持ち上げ、頭上で合わせる。すると、二振りであった吉勝丸と楽喜丸は、再び肉厚の一振、吉勝楽喜丸へと戻る。
「おまえは、おれだな」
「なにィ?」
突然言い出した雅寿丸に、甚蔵は裏返った声で応じた。
「おれも今は、おまえと変わらない。斬ることしか能のない物の怪だ」手の愛刀をおどけて回して見せてから、腰を一段と低く落とし、「風隼鎌鼬流、一太刀改、逆太刀の構え!」
まずは八相の構えに戻す。それから刃は正面のまま馬手を被せ、切先を己の爪先へ。弓手は添えるのみ。仕掛けるにせよ守るにせよ、利点らしきものがまるで見受けられぬ構えであった。
雅寿丸本人が満身創痍の血まみれであるせいで、破れかぶれ、さもなければとち狂ったとしか、甚蔵には思えなかった。
「おまえにも兄弟があればよかったのにな。己が馬鹿をしでかしても、それを埋め合わせてくれる兄弟が」
これを好機と見たか、甚蔵が踏み込む。苛立たしげな鼻息とともに大刀を大上段に振りかぶり、大きく踏み込んだ一太刀を浴びせてきたのだ。
奇妙な構えのまま雅寿丸は切先をさらに下げ、あろうことか柄尻でこれを防いだ。
「今、おれにはまた兄弟ができた。おまけに妹もだ。すると不思議なもんで、まったく負ける気がしないんだ」
「ぬ」
甚蔵の刀身が泳いだところへ狙い澄ました一撃。両腕の力を吉勝楽喜丸へと注ぎ込み、一息に斬り上げた。愛刀の分厚い刀身は、甚蔵の右脇腹へ入り込むや駆け上り、右腕ごと首を逆袈裟に斬り落したのである。




