三十六 短いの、韋駄天の如し
小栞城を一回りした慶吾の目の先には、再び逆川が流れている。菅笠を目深にかぶり直し、東にあるという仁藤門とやらを目指す。門の南の人目につかぬ場所を選び、さきほどと同様、空樽になって連雀町へ流れてゆこうという算段である。狙いどおり天然寺へと流れ着き、僧形であるのをいいことに、何食わぬ顔で表通りへ。
昼八ツをだいぶ過ぎ、日差しが橙色に染まり始めるころ。神代地川を渡って連雀町を目指す雲水の背後から、楽しげな話し声がする。走ったり止まったりしながら菅笠を追い抜いてゆくのは、手習いから家へ戻る途中の子どもらだ。なにやら芝居ごっこをしている風情で、役の取り合いで言い争っている膝丈の四分一袴姿の童男二人を、目刺し髪の童女三人が「また喧嘩してェ」と囃している。
連雀町へ入るや、通りのど真ん中にて人だかりができているのに行き合った。立て板に水の口上を聞けば、寄りて見るまでもなく読売の仕業とわかる。
慶吾は懐に腕を突っ込み、軽くなりはじめた財布から、ため息混じりに波銭を一枚つまみ出した。それを押しつけるようにして読売に渡し、紙を一枚をつかんだと同時に人垣の外へと押し出される。よろけながら通りの脇へ寄り、〈あわ雪〉へと戻りつつ手に入れた読売に目を走らせた。黒々と太い眉が次第に寄せられ、間に深い皺が刻まれる。読売を握る手がわななき、唇が尖りだす。
「えらいことじゃ……」読売を袂へ乱暴に突っ込み、僧衣の裾を捲り上げて駆け出した。「おかみ、おかみッ! 無事でおれよ」
――だものだから、菅笠をかぶった黒い塊が、暖簾へ頭突きでも食らわせるようにして飛びこんできたとき、〈あわ雪〉おかみのお園が腰を抜かしたのは無理もない。呂律もまわらぬほど慌てふためきながら、袂から引っ張り出した紙くずを伸ばし、いつもの卓に広げてお園に見せた。
「小栞で立て続けに殺しが起きとること、殺されるのが『西洋留学団』のため城へ上がった娘の親兄弟であること、知っとったのじゃろ? どうして教えてくれなんだ」
「ええ、そりゃあ知ってますよう。これまで幾度も、お雪のことを話したら、みなめでたがってくれた次には、『殺されないよう気をつけな』なんて真顔で言うんですから。慶吾様たちくらいには、笑顔で見送ってほしいじゃありませんか」
お園は気落ちしていたが、割合しっかりとした口振りでそう言った。
「他にも……これじゃ」慶吾は口を尖らせたまま、大きな眼を読売に走らせる。「殺しのあった家からは、いずれも必ず金五十両が消え失せて……」
「まぁ、やはり下手人は物取りなんでしょうか。でも、あたしは心配しちゃいませんよ。北条様が大勢の惣士様を使ってこの事件の解決に当たってくださっているんで、下手人はすぐにつかまります。異国の空の下でひとりぼっちのお雪のほうがどれだけ心配か……」
「――血に餓えた悪玉妖怪の暗躍か」
読売が下手人と目した顔ぶれを読み上げると、お園は笑った。昨夜までとは違い、力ないものではあったが。
「読売なんてそんなものですよ。面白おかしく騒ぎ立てて、最後は決まって悪玉妖怪のしわざ、ってねぇ。相手が人だろうと妖怪だろうと、お城にはほら、鳥獣惣士の風間様がいらっしゃいますから、心配はいりませんよう」
「むむ……」
己がどうも空回りしていたのを感じ、きまりの悪い慶吾。それでも事件に怯えて戦々恐々するよりはよいかと思いはじめてきたころ、やおら大声を上げて立ち上がった。
「ご主人ッ。お、おかみ、ご主人はどこへ行きんさった」
「あの人なら、今日は朝から出掛けていますよ」
「朝から、というと……」
「ええ、みなさんが朝餉をお召し上がりになっているころには出ておりましたねぇ」
「そんな早くに。ほいで、戻ってはおらんのか?」
「そろそろ戻るとは思いますけれどねぇ。今朝、お役人様が約束の刻限よりずいぶん早くにお雪を連れていきなさったんで、あの人、簪を渡し損ねたんですよ。飾り物屋さんのところへいって、それからお城へ向かったんじゃないでしょうか」
慶吾はうめきながら、胸の中でときを数える。三人揃って朝餉をとったのが明け六ツごろであった。そして今は夕闇が駆け足で迫りつつある昼七ツ。〈あわ雪〉亭主の久兵衛は、およそ半日に渡り店を留守にしている勘定になる。
すぐにでも店を飛び出し、心当たりを探し歩きたい思いに駆られた。しかしそうかといって、ここにお園を一人残してゆくわけにもいかない。あの火車を見てしまい、挙句に血生臭い事件がひっきりなしに起こっているとあらば、なおさらである。雅寿丸か追儺、どちらか一人でも帰ってきてはくれないものかと気をもんだ。居ても立ってもいられぬ様子で〈あわ雪〉の暖簾の下に立ち、卓を布巾で拭いて回るお園と通りの外とを交互に眺めては足踏みを繰り返した。
――と、狸の願いが通じたか、折りよく中町の方から、人込みに頭一つ飛び出た元結の高い総髪を見出すことができた。
「おい、雅寿丸。えらいことだぞ」
大声で呼ばわって手招きし、手を上げながら近寄ってくる雅寿丸の胸倉を掴んで〈あわ雪〉へと引きずりこむ。
「どうしたどうした、ずいぶんな慌てようだなあ」
「今慌てんでいつ慌てるんじゃ。久兵衛殿が朝出掛けたまま、まだ戻っとらん」
事情を話して聞かせるのももどかしく、慶吾は雅寿丸へ、とにかくお園から目を離さぬよう言いつけて店を出た。
三十六の慶吾、その名のとおりに「三十六計逃げるに然ず」を座右の命とする。身に降りかかる災難からも、凶刃妖怪白犬からも、逃げて逃げて逃げまくる。逃げに逃げたり三十六の慶吾、その逃げ足はめっぽう速い。菅笠を背に流し、僧衣の裾を大きく絡げ、夕暮れの町を駆け出した。前のめりになり、右足を出すときは左手を前に、左足を出すときは右手を前にするという、南蛮人のような走り方である。まずは研屋町にあるという飾り物屋、次に茶店や湯屋、思い当たる場所に飛び込んでは久兵衛の消息を尋ねて回った。次第に心当たりが尽きてくると、今度は下手な鉄砲。店という店を片っ端からあたり、店主や茶汲み女だけでなく、客にまで熱心に声をかけて久兵衛の行方を追った。
西町から木町、小栞宿の隅々まで駆け回るのにちょうど一刻かかった。飾り物屋と久兵衛の知人という数人が、これから城へ上がってお雪に簪を渡すのだと話すのを聞いただけである。日はすっかり落ちていた。廓にまでは足を伸ばさなかったが、そこは追儺が抜かりなく調べているだろうと踏む。どうあっても――あの白犬をどうこうしてでも、城へ押し入らぬわけにはゆかなくなった。
ひとまず〈あわ雪〉へと駆け戻ると、またしても折りよく、今度は追儺が戻ってくるのに行き合った。
「えらいことになった」
今日一日で口癖になってしまった言葉と共に、物の怪三匹は〈あわ雪〉へと集った。




