三十五 短いの、老僧にしてやられる
行き先の定まっていた雅寿丸と追儺から、竹薮の真ん中で置き去りにされたのは、乞食坊主の慶吾である。正しくは、〈あわ雪〉にて久兵衛、お園夫婦を見守るよう言いつけられてはいた。しかし、なんとものけ者にされた気分は拭えないまま。己とて、久兵衛、お園、そして二人の娘お雪のことが心配でないわけは――。
「……お雪殿ッ」
とまあ、このような按配で、慶吾は〈あわ雪〉へ戻る前にひとつ、寄り道をすることを思い決めたのであった。
草鞋履きの足音に苛立ちを滲ませつつ逆川を越え、連雀通りまで戻った。時が移ればあるいは……という慶吾の願いも空しく、門には件の白犬が鎮座している。侍二人は見慣れぬ面構えで交代したらしいのは幸いだったが、近寄れぬことに変わりはない。ならばと三十六の慶吾、足を速めて中町を行き、円満寺沿いの道へ折れ、川原に出た。道すがら、寺の脇から伸びた一枝から失敬した葉に指で文字を書きつけ、額に乗せて宙返り。
どろんと煙が立ち昇った後、水へ軽いものが落ちる音がしたことに、気づいた者はいないようだ。突如逆川に降った空樽は、緩やかに川を下り、武家屋敷の立ち並ぶ対岸へ流れ着いた。空樽はすぐに再び汚らしい坊主姿の男に戻ると、しきりに辺りを窺った。侍町側から中へ入り込む道を見出せないだろうか、というわけである。
いかに城郭が堅牢で堀が切り立っていようと、物の怪である化け狸が本気になればどうにでもなる――犬さえいなければ。漆喰の壁に瓦を葺いた城郭と武家屋敷に挟まれた道を辿れども辿れども、入り込めそうな隙は見出せなかった。城の左手に位置する西御門を除いて、侍の姿はない。これに関しては、慶吾の読みは概ね正しかったといえる。だが、どこまで行っても犬がいるのだ。それも、白くて大きな、狐狸妖怪が最も苦手とする犬が。
「お、お雪殿……」
この城郭を乗り越えれば……と夢想する。白犬の目を掻い潜り、城郭を乗り越え、さらに堀を泳ぎきって石垣をよじ登れば、お雪を探し出すことができるかもしれない。酷い目に合っていなければよいが、もし救い出すことが叶ったら、お雪は己を好ましく思ってくれるだろうか。あの忌々しい、棒手振の弥助よりも……。
するとなんだか、命を賭けてみてもいいような気になってきた。犬に――それもあれほど大きな白犬に噛まれれば、ただですむはずがない。それでも、もし上手くゆけば……。
道端で、犬を追うための棒切れを拾う。草鞋の藁緒と菅笠の顎紐とを、きつく結び直す。
「ええい、儘よ」
気合一閃、楼閣へと走りこみかけたとき、
「もし、そこの方」と柔和な声が。「尻尾が出ておりますぞ」
「ややッ」
いきり立つあまり、狸の姿へ立ち戻ってしまったかと、慌てて尻に手をやる。すると、右手に持った棒切れがしたたかに尻を打ち据えた。太い眉を吊り上げて振り返れば、顎鬚の長い相当な年寄りが、歯のない口を開けて笑っている。
「鳥獣さんが、お城になんぞ御用ですかな?」
「うぬう……騙された」
奥歯をかみ締めて唸っても、もう遅い。巧みな転変術はそこらの人間においそれと見破られることはないが、修行を積んだ僧侶や神職に正体を見抜かれることは、なくはない。
「犬は苦手でしょうに、危のうございますぞ。それを越えたとしても深い掘、高い石垣、挙句の果てには僧都を集めて妖魔結界まで施す念の入れよう。よほど鳥獣さんに来てもらいたくないんですなぁ。それでも中へ?」
「や、まぁ……」
慶吾、あいまいに言葉を濁す。これが追儺であれば、言葉に詰まったりなどすまい。
老僧は探ろうと思えばいくらでもできたであろうが、あえてそうせず、目元を大仏のように和ませて言った。
「拙僧も息抜きです。このところ、人手不足だというのに俄然忙しくなりましてね、老骨に鞭打ってなんとかやってきましたが、これ以上は」
「大火事の噂はとんと聞かんが、それほどまでに寺を忙しくするとは、どがいな人が死んどるんじゃ?」
「そりゃあ鳥獣さん、あれですよ、西洋留学団の……」
「る、留学団の……?」
「娘の――オヤ、どうしなすったね――親兄弟ですよ。決まっているでしょうが」
老人の萎びた口が「娘」と結ばれたのを見るなり、慶吾の顔からは血の気が引いてゆく。その音が聞こえないのがいっそ妙なくらいに青ざめて、危うくひっくり返るところであった。続く言葉も耳へ入らなかったらしく、引きつった顔は戻らぬまま。なんぞ恐ろしい考えに行き着いたのか、その体は次第、小刻みに震えだした。
「なにせ、弔う立場であるはずの娘が異国の空の下でしょう。みんな無縁仏になってしまいましてね。もし、鳥獣さん、知り合いに留学団の方でもいらっしゃいましたか?」
「先日知り合った娘が、今朝早くにこの中へ」
と、震える右手を上げ、日の光を浴びて佇む天守閣を指差す。
「妙だとは、思いませんか?」老僧は不意に、百物語でもするような声の調子になって「最初の留学団が旅立ってから、まだ一年と経っていません。帰国するのはまだまだうんと先の話。留学がうまくいくのかいかないのかかも、判じようがないはずでしょう。それなのに、また今朝、娘たちが城へ召し上げられた」
「むう」
「挙句、巷ではその親兄弟が殺されている。読売では下手人を、娘の引渡し金五十両を狙った物盗りか、留学団に行き損なった娘か、己が国の技を守らんとする異人か……血に餓えた悪玉妖怪かと書き立てているようで」
顔を強張らせた鳥獣坊主へ、老僧は笑って、
「このころは事件が起こると、終いに必ず『妖怪の仕業』がつきますな。いやいや、あなたはそういう悪玉妖怪とは違うと、拙僧はお見受けしますが」
「儂ゃ、小栞侯が召抱えたという妖怪どもの素性が気になるし、中の娘の様子も気になる。どうにかして入り込めんものかと、城の周りを探っとるところじゃ」
「ああ、それならこの辺りがいいでしょう」
話しながら、二人は北東に天王山を臨む三の丸辺りまで歩いてきていた。しかし、ここにも空けて白犬が置かれており、慶吾はどの辺りが「いい」のやら見当がつかない。
「昼八ツに侍が犬に餌をやりにくるほかに、人はとおりません。城郭を越えればすぐ三の丸ですから、勢い余って堀にはまり込むこともないでしょうし」
「しかし、犬がのう。儂ゃ犬にだけは、どうやっても勝てる気がせん」
「たしかに、実によく躾られていますよ。餌で釣ろうとしても、見知らぬ者かやった食べ物は一切口にしないようで」
打つ手なし、と言いかけた乞食坊主の頭に、がき大将がそのまま大きくなったような男の姿が浮かぶ。
「……やれんこともないかもしれん。犬がどうにかできたら、ここを使わせてもらうとするわい。礼を言う、御坊」
「礼には及びませんて。代わりといってはなんですが、もし中で若い坊主を見かけたら、この老いぼれがろくろ首みたいになって帰りを待っているとお伝えくだされ」
「心に留めておく」




