三十四 白いの、浮世の闇を視る
「何年振りのお目見えか、覚えておいでかえ?」
「さて。十年くらいかな」
「ぼけておいでか。もう十五年」
老いさらばえたとはいえ、さすがは元筆頭遊女である。誰もが飲まれる追儺を前にしても、微塵も気後れせずに背筋を伸ばして座っている。老いと美とを切り離してみるとすれば、なるほど、よい女である。
「こうして参ったのはなにも、ぬしの皺だらけの顔を見にきたわけではないよ」
「そうかえ。それならわっちがお前様をふん捕まえて、延夫屋に売り飛ばしてやろうかい」
「面白いことを言うね。あそこは若い色男でなければ働けないよ。まろが色男なのは知っているけれど……どうだろう、若くないということも、そろそろ承知しておくべきだと思う?」
「心にもない、しおらしいことをお言いでないよ、このくされ上玉が」
鈴虫の啖呵に、襖の向こうから遠慮のない笑い声が起こった。声から察するに遊女ばかりでなく、髪結いお針、太鼓持ち、聞き間違いでなければ見世番まで――つまり〈虫屋〉の面々が総出で襖にへばりついているらしい。
罵詈といって然るべき言葉を投げつけられ、追儺は笑う。腹の底からおかしそうに。
こめかみを隆起させつつ激しい舌打ちを一つやってから、笑い止まぬ追儺に鈴虫が言う。
「じれってぇ。用があって来たなら、勿体振らずに言いなんし」
「それなら聞こう」ようやく笑いを収めて膝を詰め、鈴虫の耳へと口を寄せる。「小栞侯には、よからぬ作意があるらしい。もし役人が入れ込んでいる遊女がいるのなら、話を聞かせてもらえないかな」
鈴虫、余計なことは一切聞かず、黙ってひとつ手を打った。
襖の向こうでしばし、うろたえるかのような気配がしたかと思うと、廊下の奥から「あーいー」と禿の声がした。姉女郎の差し金か、わざわざ間を置いて、奥の部屋から駆けてきたと思わせる小細工を弄したようである。
そんな些細なことは問い質さず、鈴虫はただひと言「蟷螂を」とだけ禿に言いつけた。
その遊女、もちろん襖一枚隔てただけの廊下にいたものだから、これまた足音を忍ばせて廊下の奥へと引き返し、大げさな衣擦れをさせながら部屋へ入らなければならなかった。
現れたのは、打ち掛けの代わりに蜘蛛の巣を思わせる西洋の編地を羽織った、柳のような遊女であった。父親が異人であったそうで、見事に結い上げられた立兵庫は鋼色をしている。蟷螂は〈虫屋〉の遊女の中では古株で、小栞侯、北条清輝の側近の侍を客に持っていた。「蟷螂と申しいす」というその女の話によれば――。
北条清輝は、二の丸御殿の脇へ新たな茶室まで作らせて通人を気取る人物であるらしい。小栞侯のみならず、惣士共々いい女に目がないそうで、あくが強いがいい女の揃った〈虫屋〉の上客とのこと。役人の入れ込む遊女というのは一人や二人ではなかったのである。
「お侍様があるとき、酔いなんした勢いで『このたびの留学騒動においては、遊女であることが吉と出たな』とお言いなんした」
「どういう意味だろうね」
物憂げに首を傾げる追儺に、蟷螂も首を傾けて続ける。
「知りいせん。わっちもいつか舶来船に乗って異国を見て回りたいと頼みいしたら、お侍様みるみる顔を青くしなんして『そんな恐ろしいこと二度と口にしてくれるな』と。それだけですっかり酔いがさめなんしたようでしたえ」
「小栞は若い娘をかき集めて西洋留学団を次々異国へ送り出していたと聞くけれど、廓の遊女はそれに含まなかったわけだね」
「留学だかなんだか知りいせんが、身請けということなら、一人三百両は出しておくれでないと」
「うん、それで蟷螂も今ここにいるというわけだね。そして侍は、それが吉だと言った」
「あい」
袖の内のまま顎に手をやり、追儺の面持ちは真剣というにはいささか物騒すぎるものへと様変わりした。目が合えば魅了されてしいまそうな茜色の双眸はいよいよ深く沈んでゆき、見つめる蟷螂を、深い淵でも覗きこんでいるかの心地にさせた。それこそ、禿のころからの付き合いである鈴虫にさえ初めて見せる、仙――否、妖の本性に最も近い姿だったかもしれない。
やがて、追儺が丁寧に礼を述べると、蟷螂はたおやかに笑んで部屋を辞した。部屋には再び、狩衣姿の二枚目と、留袖姿の婆が差向いになる。
「一昨日までは、小栞へ来るつもりはなかったんだ。その夜、宗旨変えをしたとたんに寄ることになって、どうしてもぬしに会わねばならなくなったのさ。不思議なものだね」
答えず、鈴虫は口元を歪めて笑う。
「助かったよ、ありがとう」
「お役に立ちましたかえ」
「来てよかった」
追儺が薄雲のように微笑むと、鈴虫が背筋を真っ直ぐにしたまま立ち上がった。それに追儺も倣う。長っ尻は野暮である。こと花柳界において、野暮は蛇蠍の如く嫌われる。
「また来るから。せいぜいくたばらぬよう、しぶとく頼むよ」
襖を開けるとそこへ鈴なりになっている〈虫屋〉の面々にも愛想を振りまきながら、来たときと同じように、追儺は悠然と去っていった。遣り手の鈴虫は見送りもしないが、そうかといって襖から漏れ出づる雰囲気に険しさは微塵もない。
「あ、揚代……」
番頭が零すのへ、鈴虫はぶつ真似をしながら、
「そんなの、とっくの昔に貰っとりいす」
隣で目を凝らさねば見分けられぬほどの笑みを刻み、言ったのである。
花のお江戸の千両役者も裸足で逃げ出す突っ転ばしが、遣り手目当てにやってきたというこの騒動は「妖華来臨」と口々に、しばらくは小栞廓の謎として語られるのであった。
むろん、そんなことは露とも知らぬ追儺狐ではあったが。




