三十七 三匹、うなだれる
三人それぞれが持ち寄った話をまとめ、今後の手はずを定めようとしたところ、追儺が俯きがちに呟いた。
「……来たようだね」
――やがて、店の外、通りのずっと先から足音がするのを、雅寿丸と慶吾も聞いた。尋常な様子ではない、まさに「狂ったような」とでもいうべき足音であった。店のすぐ前で細かな砂利を踏み砕く音がしたときには、一人の男が店へと転がりこんでいた。
青い小袖に浅葱の股引。その姿に見覚えがあったのは、落ち着きなくことの成り行きを窺う慶吾と、外の様子を気にして店の奥から顔を覗かせたお園であった。
「弥助」
「……さん」
この店と付き合いのある――慶吾が臍を曲げるほどお雪とも親しい、棒手振の弥助であった。勢い余って盛大に転び、お園を驚かせたが、店に男が飛び込んでくるのはこれで本日二度め。おかみはすぐに落ち着きを取り戻したのだが……。
「お、お、お園さん……川で、新……川……」
夜ともなれば冷え込む時期であるのに、弥助はなにかの病かと思うほどの汗をかいて震えている。呼吸すらも覚束ないありさまで、ようやくそれだけの言葉を搾り出し、激しく咳込んだ。吐息には微かに酒の匂いが混じっていたが、今やすっかり素面に戻っている。
「あらあら、どうしたんです、そんなに慌てて。まぁまぁ、すごい汗」
「まずは落ち着け、な? ここは大丈夫だ、なにも心配いらん。おれたちはまぁ……善人でもないが、少なくとも悪人ではない。世話になっているこの店のことで手伝えることがあればなんでもしよう。だからもう少し落ち着いて話を聞かせてくれんか」
雅寿丸は大きな体を屈め、土間にへたり込む弥助の背中をさすってやった。そうして人懐こい笑顔で大丈夫と言われれば、何の根拠があるわけでもないのに安堵してしまう。この男には、そういう力があった。
「大変な、大変なことになっちまいました。お役人が川に……お、お園さん、俺ッ……」
「はぁ、お役人がねぇ」
「川、かッ……川へ、い――かないほうがいいんすけど、でもやっぱ行かないと……」
己を取り戻したはずの弥助だが、どうも言うことに要領を得ない。
「わかった」雅寿丸は立ち上がり、店の暖簾を潜る。「おれたちがおかみを川へ連れてゆこう」
「えっ、どうしたって言うんです? 店を空けるわけにはいきませんよう」
「うむ。店は、弥助、おまえが見ていてくれるな」
図体に相応しからぬ童顔が、弥助にはどうしてか、これ以上はないというほど頼もしく見えた。尻餅をついたまま店内の面々を見渡し、胸の内で頷く。この者たちに任せておけば、これ以上は悪いようにはならぬ。
「ああ、店は俺が見ておく。物騒なことになってんだ、お園さんを守ってあげておくんなさい」
三人は弥助にしかと頷いて見せ、乳料理屋〈あわ雪〉を出た。
暮六ツ、辺りはすでに闇である。寧君――美玉の命により据えられた、たそや行燈が、西番所にほど近い川原を照らしている。川原には既に数人の野次馬と、二人の役人――陣笠に羽織袴姿が一人と、提灯を提げた小物が一人――がいた。
三人――否、お園が砂利を踏み分けて近づくと、役人が二人とも振り返り、提灯に照らされたその足元が見えた。
「お……おまえさん」
筵に横たえられているのは、変わり果てた久兵衛であった。歯を剥き、目を見開いた死に顔である。無念と恐怖と、信じられないものでも見たような顔つきだ。体には大きな切り口が四つ走り、その惨たらしい様といったら傷跡とすら呼べない。切り身にされたその体は、粗忽者が大慌てで沢庵漬を切ったように、体の右側の皮一枚で辛うじてぶら下がっているありさまた。腸は輪切りとなった胴体からほとんど抜け落ちてしまい、空っぽである。胴体以外に目立った傷はなく、川を流れる際にどこぞで引っ掛けたか、裾がわずかにほつれているくらいであった。
骸のあまりの惨さにどこへ取りすがったらいいのかもわからず、お園は久兵衛の手を握って泣き伏した。
「ど、どうして……」
「熊にしても山犬にしても大きすぎるように思うが、いずれにせよ人間業とは思えぬな」
陣笠は、役人としてうろたえる素振こそ見せない。しかし、得心のゆかない心中をありありと滲ませつつ言う。
「この辺りにこんなにも大きな爪痕を残すような熊公はいませんし、こりゃあもしかすると、化け物の類いかもしれませんね。おや……」
提灯の灯りに目を凝らして久兵衛の骸を見分していた小物が、なにかを見つけた。切り刻まれてほとんど衣の用を成していない朽葉色の小袖の懐を探ると、出てきたのは一本の簪であった。銀で拵えられており、一方には短冊のびら飾りのついているものだ。
「これは……あぁおまえさん……お雪……」
「心当たりがあるのか」
仕事柄しかたがないのであろうが、どうしても詰問口調になってしまう役人。小物の手にある簪を見るや、いっそう胸を詰まらせて泣き崩れるお園へ詰め寄った。
それでなくともひどく動転し、また憔悴しきっているお園は、言葉を失ったままである。
このままでは埒が明かぬと悟った慶吾は、進み出て「儂らはここ数日、久兵衛殿らと親しくさせてもらっとる者じゃが」と前置いて役人に言った。
「娘のお雪殿が今朝、『西洋留学団』へのお召しでお城へ上がったんじゃ。久兵衛殿はお雪殿のために、奮発して簪を作らせたと聞いている。恐らくこれがそうじゃろう」
「ふうむ」小物から受け取った簪を手に取り、提灯の灯りにかざして役人が首を捻る。「なかなか見事な細工だな。ほかに金目の物は持ち歩いていなかったのか?」
「お金……頂いたお金を、あ、あ、あたしが持ってたんじゃ無用心だからって……」
陣笠が目配せして、小物に懐と袂をさらに探らせる。小物は慣れた手つきで素早く久兵衛の着物の内を探り、顔を上げて首を横に振った。
「ない……か。しかし妙なこともあるものよなぁ」役人はまばらに伸びてきた髭を撫でつつ首を捻る。「物取りであれば簪も盗ってゆこうが、こちらは残されたままとは。ま、財布は川に流されてしまったのかもしれんな」
「それで、久兵衛殿はどがいな風にして見つかったんじゃ?」
「詳しくはまだわからん。呼びに行った男……弥助といったか。あの者が酔い覚ましにうろついていて骸を見つけたらしい。殺されたあと逆川へ捨てられ、ここに流れ着いたのであろう」
「上流から、ね……」
追儺の呟きに雅寿丸と慶吾は、涼しげな音を立てて流れる川へと目をやった。二人の目線は、そのまま新知川を上流へと辿ってゆく。逆川にさらに上ったその先にあるのは、月に照らされて闇夜に浮かぶ小栞城であった。
見上げた折、目に飛び込んできたのは、闇夜に輝く二つの金色。木の上にいるのは、物の怪でなければわかるまい、三色の毛皮をまとった獣である。異様な音がした。前足の爪が五寸ほども伸び、木の幹にめり込んでゆこうとする音である。
「お花坊……」
雅寿丸が呼ぶと、猫は口を耳まで裂いて牙を見せ、目にもとまらぬ速さで姿をくらました。




