二十九 長いの、犬と戯る
昨夜と同じ一つの卓を三人で囲む。朝餉は焼魚に白飯、香の物という取り合わせは目新しくないものの、味噌汁の代わりに乳仕立ての濃厚な汁物がついた。むろん、仙である追儺のそれには昨晩と同じ気配りがされている。
「お雪坊、もう出立したんだな」
「明け方にね」
「寂しくなるのう。お雪殿……」
数刻前はあれほどまでに盛り上がったというのに、今は静まり返る〈あわ雪〉だ。常であれば静けさを歓迎するであろう追儺も、この静まり具合にはさすがに息が詰まった。というのも、店の中に満ちているのは狐の好む心地よい静けさからは程遠い、重苦しい静寂であったからだ。
真っ先に音を上げたのは化狸の慶吾で、斜向いの仙狐追儺に小声で呼びかける。
「なぁ、追儺。おんし、さっきはなぜそいつが死んでおらんとわかった?」
話の種はなんでもよかった。
「音さ。いかに死んだように眠っていても、心の臓は止められないからね」
黒々とした眉の雲水は、無言で二三度飯を掻き込んでから漬物で箸を休め、それから音高く汁物を吸い込む。得体の知れない間の後、
「するとなんじゃ、おんしは儂の寝間を挟んでさらに奥におったこの男の、心の臓の音が聞こえたっちゅうわけか?」
「聞こえたよ」
さも当たり前かのように言われ、慶吾は返答に窮した。ありきたりな感嘆を表すのも癪であったが、そうかといって己まで当たり前のように張り合うには、いささか驚きが大きすぎた。結局黙り込まざるを得なくなり、成るべくしてまた霧にも似た沈黙に包まれる〈あわ雪〉。
長居をする雰囲気でもなかったので、三人は手早く朝餉を終え、各々身支度を整えて店を出た。
「二日もただ飯を食わせてもらうわけにはいかんからなあ、ちと稼いでくる。今晩も、美味い飯を頼むな」
雅寿丸が朗らかに言うと、お園は赤く腫らした目のまま少し微笑んだ。
「ようし。まず手始めに、役人に会おう。留学留学と聞くが、それにしてはどんなものなのかさっぱりわからん。せめて、なんという国に何年留まっていつ戻るのか、直に聞こうじゃないか」
「おい。手始めと言いながら、いきなり本丸に斬り込むんか?」
連雀通りを跳ねながら言う墨染め袴姿――雅寿丸に、小汚い僧衣を纏う慶吾が問う。相変わらずといいたいところだが、心なしか慶吾の衣の汚さは控えられているように見えなくもない。菅笠を頭に乗せ、鼻先よりも臍が前に出る立ち姿はいつもどおりだ。草履の踵をすり減らすがに股歩きにも変わりないが、その勢いは幾分控え目で、これでは二日で履きつぶす草履が四日はもってしまいそうな具合である。
狐ほど極端に用心深い性分ではない狸だが、いきなりでなくとも小栞城の大手門には近寄りたくないわけがあった。なんとか先延ばしに、あわよくば行かずにすむ算段はないものかと思案に耽りながら足を運ぶので、足取りは自ずと重くなる。先頭をゆく雅寿丸を追う仕事を足のつま先に任せたままゆけば、いつしか大手門が間近に差し迫っていたという寸法だ。
右に狩衣姿で狐面の白月追儺、左に僧形の化狸慶吾を従える形で歩いていた鎌鼬の雅寿丸は、あるとき不意に二人の姿が消えていることに気づいた。振り返ってみれば、七、八間も後ろのほうで、追儺と慶吾が揃って足を止めている。
「どうした、行かんのか?」
雅寿丸が呼んでも、二人は足に根でも生えたように動かない。
間を置いてまず慶吾が、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「行きたいのはやまやまじゃが……」
「うん。門に手強いのがいるからね」
こういうときばかり呼吸が合うのか、慶吾の言葉を追儺がよどみなく引き取った。常ならばからかうような調子が見え隠れするはずの声音に、今やわずかも余裕が見えぬ。
「手強いの、だと?」
よほどの使い手がいるのかと、雅寿丸は珍しく表情を引き締めた。優しげで子どもっぽい顔立ちが、こうすると若武者の如き凛々しい面構えになる。そのまま左手を愛刀――吉勝楽喜丸の飾り気のない鍔に掛け、いつでも抜き放てるよう身構えてから顔を前に戻した。
小栞城の入り口たる仰々しい大手門の両脇には、どこの城や奉行所さらには町の木戸門でもそうであるように、侍が二人、睨みを利かせている。年のころは二十半ばから三十路に差し掛かるかどうかといったところだろうか。三人と同様、人の姿をとった物の怪の類いということもあり得るが、雅寿丸の目には別段強そうには見えない並の侍としか映らない。身の丈も体格も、大丈夫の鎌鼬に比べれば相当見劣りする。それを補うかのように、向かって右の若い方の侍は白い犬を連れていた。
「ほほう。左の侍は見かけによらず使い手なのか?」
「違う違う」
慶吾がすぐさま異を唱える。
「右のやつか? 弱そうだぞ」
「阿呆。その若造が連れている犬だよ」
「犬だと?」
追儺の阿保呼ばわりは右の耳から左の耳へ軽やかにとおり抜けたか、大げさな身振りで驚いてから、雅寿丸はもう一度振り返って犬を見た。
「ううむ。単なる犬にしか見えんがなあ。どう手強いんだ?」
「単なるって、おんしなぁ……」
「並の犬ならまだしも、白犬だよ」
力説されたので雅寿丸、仕方なく三度犬に目をやった。
「あのな、追儺。いくらおれでも、あれが白犬だということくらいはわかるぞ。だからどうだと言うんだ?」
並んで棒立ちの姿勢のまま、追儺と慶吾は向き合い、頷き合った。
「ぬしは犬が恐ろしくはないの?」
「いいや」
首を横に振る雅寿丸。
慶吾はただ、口を開いた。
追儺もまた面の下では呆然とした表情を浮かべざるを得なかったが、なんとか言葉を繋ぐ。
「狐に狸、猫などの妖怪はみな、犬が恐ろしいものさ。ましてや白犬は強い神通力を持つと言われているから、尚更だよ」
「犬とはよく遊ぶぞ」懐から手を出して顎を掻きながら雅寿丸が言う。「山犬ともな。猫はすぐ木に登ってしまって遊んでくれん。冷たいよなあ。熊はたまに加減を忘れるからちと困るな」
「熊」
と、狐狸二人が異口同音。熊といえば、そこらの木っ端妖怪よりも腕っ節の強い、山の主ではあるまいか。
「だからおれは犬と遊ぶ」
笑いながら、さすがにこんな町中で鼬の姿になってまで犬とじゃれ合うことはないがな、と付け加える。
「わかった、それなら話は早いよ。雅寿丸、ぬしが行って聞いてきてくれればいい。まろはこれ以上先に進めないから」
「うむ、そうしろ。儂ゃあと二、三歩進めんこともないんじゃが、今日のところはこのくらいで勘弁してやる」
これに関しては一切手を貸さぬと断言されても雅寿丸は素直に頷き、小栞城大手門へと歩き出した。
悠然とした足取りで近づいてくる大男へ、二人の門番はあからさまに忌々しげな目を向けた。それも無理からぬこと。見上げる上背に、奇妙な白黒二色の髪色。墨染めの袴には、今まで見たこともないような大振りの刀が無造作に差してある。まともな侍であろうはずがない。異人の剣客あるいは渡世狼士か、悪くすればよからぬことを企む妖物の類いやもしれぬ……とまあ、その心中には喜ばしくない思いが駆け巡っていたのである。
件の白犬はいち早く門の前へ踊り出て、果敢に吠え立てた。あるいは追儺の言っていた神通力とやらで、大男が人ならざる者であることを見破ったのかもしれない。しかし、相手が悪かった。




