三十 三匹、城下に散る
白犬がさかんに吠えるのをじゃれているのだと勘違いした雅寿丸は、「うははは! よしよし」と両手を広げたのである。そして、そのまましゃがみ込み、相撲でも取るようにしっかと犬に組みついた。驚いた犬が身を捩って後退るのを放さず、両手で荒々しく撫でてやる。いつしか吠え声が低い唸り声へ変わっているのにも、気づいた様子はない。
怪しい者を城に近づけないことが己に課せられたお役目である白犬は、散々吠え、最後には唸った挙句、ついに最後の手段へ出るほかなかった。
曲者がほんの少し腰を浮かせた隙を突き、白犬は顎を開いた。尚も体を撫でてくる大きな手を、鋭い歯の並ぶ口で捕らえ、噛みついたのである。悲鳴あるいは絶叫が、曲者の口からほとばしるはずであった。
「おう。おまえ、いい歯をしているなあ! 毛並みもいいし、きっといい食い物を貰っているんだろう。飼い主はあの侍か?」と、空いている方の手で右の侍を示す。「大事にされているんだなあ」
白犬はもはや、わけがわからなくなったに違いない。今さら後へも引けず、大男の手に喰らいついたまま、この場を収めてくれる者の登場をひたすら待ち望んだであろう。
「おぬし……」
覚束ない足取りで右手の侍――白犬を従えていた方である――が、犬を撫で回す狼士風の男に近寄り、声をかけた。侍が近くで目を凝らしても、起こっている事柄は変化するはずもなかった。
「手を噛まれているぞ」
「うん?」
顔を上げた袴姿は、侍が思っていたよりもずいぶんと若かった。人好きのする顔いっぱいに笑みを浮かべながら、楽しげに言う。
「こんなものは噛んでいるうちに入らん。じゃれているだけだ」
「そ、そうなのか?」
いささか胸を撫で下ろしながら改めて犬を見れば、その鼻の頭には幾重にも皺が寄っている。傍目にも必死の形相であった。どう考えても、犬は本気で男の手を食いちぎろうとしている。いずれにせよ、噛みつかれながらというわけにもいかないので、侍はひとまず犬をなだめ、大男から離れるよう命じた。
待っていましたとばかりに白犬は男の手を放し、尾を股の間に挟んで門の隅へと退散した。
「まぁ、とにかく、だ。怪しい奴め、小栞城に何用だ」
「怪しいのは生まれつきだ、すまんが勘弁してくれ」とは言うが、やましいことなど微塵もなさそうな笑みのまま、顔の前で手刀を切る。「ちと町で留学の噂を聞いてな、どういうものか知りたくて訪ねた」
「ふん。ここまで来たのはご苦労だったが、生憎と留学できるのは若い娘だけだ。おぬしのように無駄に大きい男には関わりない」
左の侍が言うと、褒められたわけでもないのに、大男は照れ笑いを浮かべて頬を掻く。
右の侍がそれに畳み掛けた。
「そうだ。それに、此度の留学志願者は本日をもって締め切った。当分はないとのお達しだ」
「そうか、残念だなあ。それじゃあせめて、どこへ留学に行くのか聞かせては貰えんだろうか? 次に志願者を募るのは、これから国を出るものたちが帰ってからだろう。いつ帰るんだ?」
「いつ戻るかなど、知らぬ。それにおぬし、どこそこの国だと言われてそれがどこだかわかるような手合いか?」
「ううむ、これは参った。たしかにおれは、異国のことはこれっぽっちもわからん」
狼士は一人で愉快そうに笑ってから、「手間を取らせた」と踵を返した。
さして残念そうもなくそう言い、思いの外素直に引き下がった大男を、二人の侍――と一頭の白犬は不審そうに見つめていた。ともあれ、風変わりな嵐が去ったことは実のところ、かなりありがたかった。
雅寿丸たちは、追儺の案内を得て竹薮に佇む社へと場所を移した。そこは今日も茂った葉や枝で、日の光と人の目ををよく遮り、居心地のよい場所を供してくれている。吹き渡る風も涼しげな音で、絶えず涼味を添えた。まさに追儺好みの場であった。
「ほうじゃ。おんし、手はどがいした。あの犬め、噛みつきよったじゃろう」
「手か。手はどうもなっていないぞ」怒りと心配を巧みに合わせた表情で詰め寄る慶吾の目の前で、雅寿丸は手をひらめかせて見せる。「あれは噛んでいるのではなくて、じゃれているんだ。痛くも痒くもない」
見れば、噛まれていたはずの左手には、ごく薄く歯型が浮いている程度。たしかに、どうかなった内には入らないだろう。しかし二人には、人であればとうに食いちぎられていても不思議はない噛まれ方をしているように見えた。人でなくとも、犬に噛まれると大怪我をするという物の怪は多い。
玉砂利を踏み分け、三者は思い思いの場所へと散った。鳥居の左右両端の土台に雅寿丸と慶吾が座り、社の近くに追儺が立っている。来る人があれば、昼にもならぬうちから男三人が連れ立って何事かと思われるであろうが、それはそれ、仙狐である追儺が抜かりなく人払いの術を使っていた。ふだん使いの、印を結ぶだけのまじないではなく、呪文と歩行術により、場を目に見えぬ壁で囲ってしまう術である。この社へ参る者――人だけでなく妖も含む――に如何なる用があろうとも石段を登りきることは叶わず、万一力尽くで壁を破ろうとすれば、たちどころに追儺へ知れる。
「慶吾、今朝の火車を忘れてはいないだろう?」
「か……ああッ」竹に休んでいた鳥が驚いて飛び立つほどの声を上げ、荒法師は目の玉をひん剥いた。「た、たしかに火車が……ちゅうことは、あん家――〈あわ雪〉から死人が出るちゅうことじゃろか?」
「そう考えておくべきだろうね」
死んだように眠っていてそのことを知らない雅寿丸に、追儺がことの次第を話して聞かせる間、三十六の慶吾は青黒い顔で、筑波山の四六の蝦蟇もかくやというほど汗を流していた。
「あんときは、儂ゃてっきり雅寿丸が死んだんで現れたんじゃと思うとったが、生きとるしのう。儂も生きとるし、優狐めも生きとる。するとあの火車は……」
「……まろもそう読むよ」
すべてを見とおすかに思える追儺の赤い目が半ば伏せられると、風が竹を奏でる音さえも、不吉めいて耳に響く。
「こうしちゃおれん。お雪殿……〈あわ雪〉の人たちが殺されるのは、なんとしてでも食い止めるがぞ」
見事に太い眉を凛々しく吊り上げ、僧侶姿の慶吾が勢いよく立ち上がる。
大柄な体を墨染め袴で包んだ雅寿丸もそれに応えて頷き、立ち上がって景気よく愛刀を叩いた。
やや遠巻きにそれを見上げていた白い狩衣姿、追儺は、二人の投げかける眼差しにも黙ったままでいた。久兵衛、お園、そしてお雪。火車が見たのは誰の死期であったか。誰にも死んで欲しくはないが――。
「規律で雁字搦めにしようとも、脅しや金をちらつかせても、人の口に戸は立てられない。浮ついた惣士の一人か二人は、酒や女に釣られて秘密をどこぞに漏らしているかもしれないね」
「酒か。酒……酒……酒場かのう。賭場は、いくらなんでも侍はうろつかんよなぁ」収まりよい位置を探して菅笠を直し、顎紐を弄りながら慶吾が唸る。「おなごしちゅうと……ふむ、廓か。儂ゃどうも得意じゃあないわい」
「それなら、まろがそこへ出向こう」
「おい、助平狐。おんしゃ仙だなんだとのたまっとったろうが。生臭も喰えんようなやつが、どん面下げて廓へゆこうというんじゃ」
突っかかってこられても、追儺は艶やかな笑みを湛えて動じない。それでなくとも、すぐに熱くなって突っ走る慶吾の言動など、手に取るようにわかるのだ。
「ふふん。ぬしにあげつらわれるまでもなく、まろは女断ちをしているさ。とはいえなにも、女と口を利いてはならぬ、手を触れてもならぬというわけではないよ」
夕日よりも赤いくせに冷ややかな目で見下ろされ、慶吾はただでさえ面白くない。背が低いはずの追儺に見下ろされるのは、己の姿勢が災いしているのだが、それは脇へ置いておく様子。「ふん」と唇を歪めて吐き捨てた。
「都合のいい仙人じゃのう」
腰から引き抜いて杖にした愛刀吉勝楽喜丸の柄尻に顎を乗せ、調子外れな鼻歌とも唸り声ともつかぬ音を出していた雅寿丸は、今度は鯉口を鳴らしながら顔を上げた。
「それならおれは、酒場と賭場を回るとするか」
「待て待て、おんしまでそんなところへ出入りしよるんか。そがいな童顔しくさって」
「おいおい。なんだかみんな寄ってたかっておれのことを、やれ小僧だ小童だと言ってくれるが、もうそんな歳じゃあないぞ」
「そんならいくつなんだ?」
「いくつってなあ……」音高く腹を掻きながら、童顔の大男は竹に覆われた空に目を泳がす。「まあ、二十やそこらにはなっていたんじゃないか」
「ないか、て。自分の歳も数えられんやつがどこにおる」
「うへへ。おれはそういう細かい仕事が苦手でな。下の弟が得意だったんで、そいつに任せていたんだ。三つ子だからな、歳なんぞ一人が覚えていればことたりるだろう? それがいなくなっちまったからなあ」
傍からは笑い事ではないように思えたが、雅寿丸は一人愉快そうである。よほどの間抜けでも、正月を何度迎えたかくらいは覚えているものだが、どうもこの鎌鼬、ただの間抜けではないらしい。雅寿丸だけがこうなのか、鎌鼬という物の怪がそもそも間抜けなのか……ほかに鎌鼬の知り合いがいない化け狸には判断がつかなかった。
「儂ゃどこを当たるかのう」目を落とせば、石畳と薄汚れた法衣が目に入る。「やれやれ、困ったわい」
「なにが困るんだい? ぬしのゆくべきところは、ひとつしかないよ」
と追儺。
「どこじゃい?」
「決まっている、〈あわ雪〉さ。火車が出たと言っておきながら、あの夫婦から目を離すわけにはゆかないだろう」
「ほ、ほうじゃが……」
うろたえる慶吾ををそのままに、雅寿丸と追儺は揃って石段を降りてゆく。置き去りにされたまましばし佇んでいた慶吾も、菅笠が吹き飛ぶほど駆けて追いつく。こうして妖怪三匹は、三者三様の務めを果たすべく散っていったのである。




