恋人と同じ大学を目指すのは、アリかナシか
§高校三年・春§
「佐伯と御影って、やっぱり同じ大学を目指すの?」
三年生になって最初の進路希望調査が配られた日の放課後。
前の席の女子が、なんでもないことのように尋ねてきた。
その瞬間、教室に残っていたクラスメイトたちの視線が、一斉に俺たちへ集まった。
俺と冬華が付き合っていることは、すでにクラス全員が知っている。
昼休みには一緒に弁当を食べ、放課後には一緒に帰り、休日に二人で歩いているところも何度か目撃されている。
交際を隠そうとしたことはない。
かといって、わざわざ報告したこともなかった。
それでも毎日のように顔を突き合わせて、
「ホワイトチョコレートをチョコレートと呼ぶのは適切か」
「エスカレーターで歩く人間のために片側を空ける文化は存続させるべきか」
「恋人のプリンを一口もらった場合、それは窃盗に該当するか」
などと議論していれば、嫌でも関係は伝わる。
なにしろ最後の議題については、俺が冬華のプリンを食べたことが発端だった。
クラスでは、俺たちが恋人同士であることより、くだらない議論をしていることの方が有名になりつつある。
「恋人と一緒に同じ大学を目指すのは、ナシだと思うわ」
冬華が答えた。
教室が静まり返った。
「えっ」
質問した女子の顔が引きつる。
「ちょっと待て」
俺も思わず冬華を見た。
「それは、俺と同じ大学には行きたくないという意味か?」
「まだ立場を表明しただけよ」
「なんの立場だよ」
「ディベートの」
冬華は鞄から、見慣れたノートを取り出した。
表紙には、『文哉くんとの議論』と書かれている。
「議題は、『恋人と一緒に同じ大学を目指すのは、アリかナシか』。私はナシの立場を担当するわ」
「いま始めるのか?」
「ちょうど進路希望調査も配られたでしょう?」
「私は普通に質問しただけなんだけど……」
前の席の女子が困惑している。
冬華は気にせず、ノートの新しいページに議題を書いた。
「文哉くんは、アリの立場でいい?」
「いいけど、本心と立場は同じなのか?」
「それは議論が終わってから判断して」
「一番気になるところを保留にするな」
「ディベート中に、相手の本心を推測するのは不適切よ。提示された主張に反論して」
相変わらず面倒な彼女だった。
そして、そこが好きなのだから仕方がない。
「勝敗はどうやって決めるんだ?」
「教室に残っている人たちの多数決で」
「俺たちも参加するの?」
クラスメイトの一人が尋ねた。
「公正な判定をお願いするわ」
「帰りたいんだけど」
「人の進路がかかっているのよ」
「お前らの惚気に付き合わされるだけじゃない?」
「惚気ではなく、将来に関わる真剣な議論よ」
冬華は黒板に、大きく二つの言葉を書いた。
アリ。
ナシ。
「敗者は、自分の第一志望を先に公開する」
「つまり、冬華はまだ俺に志望校を教えてくれないのか?」
「文哉くんも教えてくれていないでしょう?」
「お互いの選択に影響を与えないように、一度自分で考えてから話そうって決めただろ」
「ええ。二人とも、もう決めたはずよ」
俺の鞄には、記入済みの進路希望調査が入っている。
第一志望から第三志望まで、何度も書き直して決めた。
冬華がどの大学を志望しているのかは、まだ知らない。
彼女も、俺の志望校を知らないはずである。
「わかった。始めよう」
「それでは、私から」
冬華は黒板の「ナシ」に下線を引いた。
「大学は、将来の進路へ大きな影響を与える場所よ。学びたい分野、取得できる資格、卒業後の就職先、学費、通学時間。さまざまな条件を比較して、自分に合った大学を選ぶ必要がある」
「異論はない」
「高校時代の恋人と一緒にいたいという理由で、その選択を変えるべきではないわ」
「どうして?」
「交際関係が、卒業まで続く保証はないから」
教室の空気が、わずかに重くなった。
「御影さん、もう少し手加減してあげたら?」
前の席の女子が心配そうに言う。
「一般論よ」
「一般論でも、彼氏の前で言う?」
「文哉くんなら、感情と論理を分けて考えられるわ」
冬華が、俺を見る。
「できるでしょう?」
「努力はする」
できるとは言い切れなかった。
「恋人と同じ大学へ行くために、本来の第一志望を諦めたとする。その後に別れてしまったら、大学を選んだことまで後悔する可能性があるわ」
「別れないかもしれない」
「もちろん。でも、未来のことは誰にもわからないでしょう?」
「それは、恋愛以外の理由にも言える」
俺は黒板の「アリ」に線を引いた。
「将来やりたい仕事が変わるかもしれない。入りたかった研究室の教授が異動するかもしれない。大学の環境が、入学後に変わることだってある。未来が不確定だからという理由だけで、現在の希望を判断材料から外すことはできない」
「でも、恋人の存在は学問と関係がないわ」
「大学を選ぶ理由は、学問だけじゃない。家から通いやすい、学費が安い、街の雰囲気が好き。そういう条件だって判断材料になる」
「恋人も、立地条件と同じ?」
「冬華を駅からの近さと同列には扱ってない」
「では、なにと同じなの?」
「……重要な人間関係」
「急に率直な言葉を選ぶのは卑怯よ」
「恋人との話なんだから仕方ないだろ」
冬華が目をそらした。
耳が少しだけ赤くなっている。
教室の後ろから、
「やっぱり惚気じゃん」
という声が聞こえた。
「静粛に」
冬華が言った。
「裁判じゃないぞ」
「では、文哉くんに質問するわ」
冬華は俺へ向き直った。
「私が、文哉くんの志望校とは別の大学を第一志望にしていたら、自分の志望校を変える?」
「変えない」
「ずいぶん即答ね」
「そのために、お互いの志望校を教えずに決めたんだろ」
「では、私が『どうしても同じ大学に行きたい』と頼んだら?」
「まず、どうして同じ大学に行きたいのかを聞く」
「好きだから離れたくない、と答えたら?」
教室に残っている全員が、息を潜めていた。
もはや審判というより、観客である。
「うれしいとは思う」
「それで?」
「でも、冬華の志望を変えてほしいとは言わない。俺も変えない」
「それでは、『同じ大学を目指すのはアリ』という主張と矛盾するでしょう?」
「矛盾しない。俺がアリだと言っているのは、恋人と一緒にいたいという気持ちを、大学選びの理由に含めることだ」
「最優先にはしない?」
「しない」
「恋人と同じ大学へ行くために、学びたいことを諦めるのは?」
「ナシ」
「自分の学力に合わない大学へ、無理に志望を変えるのは?」
「ナシ」
「学費や通学の負担を無視するのは?」
「ナシ」
「ナシばかりね」
「条件を極端にするからだ」
俺は黒板に書かれた議題を指した。
「議題は、恋人と同じ大学を目指すこと自体がアリかナシかだろ。『恋人以外のすべてを犠牲にして』とは書かれていない」
「言葉の隙を突くのね」
「57をスーパー素数と呼んだ人に言われたくない」
「昔の話を持ち出すのは反則よ」
「あれからまだ一年も経ってないぞ」
57は素数ではない。
そのどうでもいい事実をきっかけに、俺たちは話すようになった。
そして三年生の春を迎えたいま、同じ大学へ進むべきかどうかを議論している。
まさか、あの数字がここまで俺の人生へ影響を与えるとは思わなかった。
「では、こちらから質問する」
今度は俺が冬華へ向き直った。
「同じくらい学びたいことが学べて、学費も難易度もほとんど同じ大学が二つあったとする」
「ええ」
「片方には恋人がいて、もう片方にはいない。それでも、恋人がいる方を選ぶのはナシか?」
「ほかの条件が完全に同じなら、恋人がいる方を選ぶことは不合理ではないわ」
「認めるのか?」
「ただし、現実に条件が完全に同じ大学なんて存在しない」
「でも、すべての条件に順位をつけることはできないだろ。学べる内容はこっちが少し上。でも、立地や設備はあっちがいい。そういうとき、最後の判断材料として恋人の存在を加えるのは?」
「……それだけなら、否定はしない」
「だったらアリじゃないか」
「恋人と同じ大学へ行くことを目的にするのは、ナシだと言っているの」
「俺は、理由の一つにするのはアリだと言っている」
冬華が黙った。
俺たちの主張は、最初から微妙にずれている。
冬華は、恋人のために自分の進路を曲げることへ反対している。
俺は、自分の進路を考える際に、恋人の存在を無視する必要はないと主張している。
「二人とも言ってること、ほとんど同じじゃない?」
審判役のクラスメイトが言った。
「違うわ」
冬華が即座に否定する。
「文哉くんは、恋人を大学選びの加点要素にしている。私は、まず恋人と無関係に進路を決めるべきだと主張しているの」
「決めたあと、偶然同じ大学だった場合は?」
「それなら問題ないわ」
「第一志望は違うけど、第二志望が同じだった場合は?」
「合否の結果によるでしょうね」
「片方だけが第一志望に合格して、もう片方が落ちたら?」
「合格した方は、自分の第一志望へ行くべきよ」
「落ちた方が、一緒に行くために浪人すると言ったら?」
「本当にその大学で学びたいなら止めない。でも、恋人を追うことだけが理由なら反対する」
「俺も同じ意見だ」
「だから、同じこと言ってるじゃん」
クラスメイトの声に、冬華は不満そうな顔をした。
「細部が違うわ」
「カップ焼きそばが焼きそばかどうかより、細かい違いだと思う」
「あれは重要な議論よ」
「重要じゃないよ」
教室に残っていた生徒たちが、次々に帰り支度を始めた。
「判定は?」
冬華が尋ねる。
「引き分け。二人とも、恋人だけを理由に進路を決めるのはナシ。でも、条件の一つにするのはアリ。それでいいでしょ」
「多数決を取っていないわ」
「早く帰りたいから、全員それに賛成ってことで」
審判たちは、俺たちを残して教室を出ていった。
最後の一人が扉を閉める直前、
「どうせ志望校も同じなんだろ」
と言い残した。
「そんなわけないでしょう」
冬華が反論する。
扉が閉まった。
教室には、俺たち二人だけが残された。
春の夕日が、窓から斜めに差し込んでいる。
「それで、引き分けの場合はどうする?」
俺は尋ねた。
「両方が同時に第一志望を公開する」
「そんなルールだったか?」
「いま決めたわ」
冬華は鞄から、四つ折りにした進路希望調査を取り出した。
俺も自分の用紙を出す。
「せーので開く?」
「幼稚ね」
「じゃあ、冬華から」
「それでは私の負けになってしまうでしょう」
「一緒に開くしかないじゃないか」
「仕方ないわね」
二枚の紙を、机の上へ伏せる。
「せーの」
同時に表へ返した。
第一志望の欄には、同じ大学名が書かれていた。
学部は違う。
俺は文学部。
冬華は法学部。
だが、大学は同じだった。
「…………」
「…………」
しばらく、どちらも話さなかった。
「同じだな」
先に口を開いたのは俺だった。
「そうね」
「偶然?」
「私は、法学を学ぶならここが一番いいと思ったの。文哉くんがどこを志望しているかは知らなかった」
「俺も、文学部の授業内容と、図書館の蔵書で決めた。冬華が志望してるとは知らなかった」
「では、恋人とは無関係に決めた結果、同じ大学になったのね」
「そういうことになる」
冬華は、自分の進路希望調査を見つめている。
「安心した?」
俺は尋ねた。
「なにが?」
「俺が、冬華に合わせて大学を選んでいなかったこと」
彼女は答えなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
「冬華がナシの立場を選んだのは、俺の進路を変えたくなかったからか?」
「立場と本心は同じとは限らないと言ったでしょう」
「違うのか?」
「完全には否定しないわ」
冬華は、少しだけ視線を下げた。
「文哉くんが、私と同じ大学へ行くためだけに、自分の志望を変えていたら嫌だったの」
「どうして?」
「いつか後悔したとき、私のせいにしてほしくないから」
「冬華のせいにはしない」
「いまは、そう言えるでしょう。でも、大学は四年間ある。その先の人生にも影響する。私たちの関係が、これからも必ず続くとは――」
「冬華」
名前を呼ぶと、彼女が言葉を止めた。
「必ず続くとは、俺にも言えない」
「そうでしょう?」
「でも、続けたいとは思ってる」
冬華が顔を上げる。
「大学を選ぶ理由が、冬華だけだったら危ないと思う。でも、冬華の存在が理由に含まれていることまで否定したくない」
「私は、まだ文哉くんの理由に含まれていなかったはずよ。志望校を知らなかったもの」
「大学を決めるとき、この大学なら冬華と離れることになっても、きちんと通いたいと思えるかは考えた」
「離れる前提で考えたの?」
「逆だ。離れても選べる大学なら、同じだったときにはもっといいと思った」
「……そう」
「それに、同じ大学なら、これまでみたいに議論を続けられる」
「別の大学でも議論はできるわ」
「毎日は難しいだろ」
「毎日するつもりなの?」
「嫌なのか?」
「嫌とは言っていないわ」
冬華は進路希望調査を持ち上げ、俺の用紙の隣へ並べた。
同じ大学名。
別々の学部。
独立して選んだはずの二つの進路が、偶然、同じ場所へ伸びている。
「同じ大学を目指すことにはなったわね」
「ああ」
「でも、まだ合格したわけではない」
「これから勉強しないとな」
「もし、片方だけが合格したら?」
「合格した方は、その大学へ行く」
「落ちた方は?」
「自分のために、次の進路を決める」
「恋人のためではなく?」
「恋人のことも考えながら、自分で決める」
冬華が、かすかに笑った。
「やっぱり、完全には意見が一致しないわね」
「その方がいいだろ」
「どうして?」
「同じ意見しか持ってなかったら、ディベートができない」
「それは困るわ」
「困るのか」
「文哉くんと話す理由が、一つ減ってしまうもの」
「恋人なんだから、議論しなくても話せばいいだろ」
「なにを?」
「今日あったこととか、読んだ本とか、行きたい場所とか」
「それを議題にするの?」
「普通に話すんだよ」
「難しそうね」
「ディベートより簡単だろ」
俺たちは進路希望調査を鞄へしまい、教室を出た。
昇降口へ向かう途中、冬華が俺の制服の袖をつかむ。
付き合い始めたころは、手をつなぐだけでも合理的な理由を要求していた。
最近では、理由を聞かなくても、こうして近くに来るようになった。
「明日から、放課後は図書室で勉強しましょう」
「受験勉強か」
「同じ大学を目指すのでしょう?」
「それ、恋人と同じ大学へ行くことを目的にしてないか?」
「違うわ。恋人と一緒に、互いの第一志望を目指すの」
「言い方の問題じゃないか?」
「重要な違いよ」
冬華は俺の袖をつかんだまま、少し考えた。
「ところで、恋人同士が一緒に勉強する場合、それは勉強会とデートのどちらに分類されると思う?」
「勉強を目的に集まるなら、勉強会だろ」
「私は、デートに含まれると思うわ」
「また始めるのか?」
「大学に合格するまでには、結論を出したいでしょう?」
恋人と一緒に同じ大学を目指すのは、アリかナシか。
結局、その問いに明確な答えは出なかった。
ただ、翌日から俺たちは、放課後の図書室で同じ大学の過去問を開くようになった。
それが受験勉強だったのか、デートだったのか。
たぶん、どちらでもよかった。




