恋人同士なら、下の名前で呼ぶべきか
§高校二年・冬§
「そういえば、私たち、いつまで名字で呼び合うの?」
放課後の図書室で、御影が突然尋ねてきた。
「いつまでって?」
「私は佐伯くん。佐伯くんは御影。付き合う前から変わっていないでしょう?」
「不満なのか?」
「不満があるとは言っていないわ」
「じゃあ、どうして聞いたんだ?」
「疑問を提示しただけよ」
テーブルの上には、三年生へ向けた参考書と、読みかけの文庫本が置かれている。
俺たちが付き合い始めてから、半年近くが過ぎていた。
一緒に昼食を食べる。
放課後に図書室で過ごす。
休日には二人で出かける。
付き合う前より、一緒にいる時間は明らかに増えた。
それでも、呼び方だけは変わっていない。
「名字で呼び合う恋人がいてもいいだろ」
「では、佐伯くんは、このままがいいの?」
「御影は?」
「質問に質問で返さないで」
「自分の意見を言わずに、俺だけ答えさせようとするな」
御影はしばらく考え、鞄から例のノートを取り出した。
表紙には、『佐伯くんとの議論』と書かれている。
「ディベートをしましょう」
「やっぱりそうなるのか」
「議題は、『恋人同士なら、下の名前で呼ぶべきか』」
「御影が、下の名前で呼ぶべき側?」
「いいえ。私は、名字のままでも問題ない側を担当するわ」
「自分から言い出したのに?」
「呼び方を変える必要があると主張するなら、その必要性を証明して」
「俺が?」
「ええ」
「俺は、べつに変えなくてもいいと思ってたんだけど」
「では、二人とも同じ立場になってしまうわ」
「ディベートをしなければいいだろ」
「それは困る」
「なにが?」
「せっかく、佐伯くんの下の名前を知る機会なのに」
「クラス名簿を見ればわかるだろ」
「知っていることと、呼ぶことは別よ」
「知ってるのか?」
「もちろん」
「じゃあ、俺にも御影の下の名前を教える必要はないな。御影冬華だろ」
御影の目が、わずかに見開かれた。
「覚えていたの?」
「同じクラスだし、恋人だぞ」
「そう」
御影は平静を装っているが、少しだけうれしそうだった。
「それでは、改めて立場を決めましょう。私は名字のままでよい側。佐伯くんは下の名前で呼ぶべき側」
「負けた方は?」
「勝った方が、今後の呼び方を決める」
「それだと、御影が勝ったら名字のままか」
「ええ」
「俺が勝ったら?」
「下の名前で呼び合う」
「御影に不利じゃないか?」
「私は名字のままでよいと主張する側だもの」
「本当に、そう思ってる?」
「ディベート中に、相手の本心を推測するのは不適切よ」
「その言葉、覚えておく」
御影はノートに、二つの立場を書いた。
名字のままでよい。
下の名前で呼ぶべき。
「まず、名字で呼び合うことに不都合はないわ」
御影は言った。
「佐伯くんと呼べば、佐伯くんは自分のことだと理解する。御影と呼ばれれば、私も反応できる。呼称としての機能は十分に果たしている」
「同じ名字の人がいたら?」
「クラスに佐伯は一人でしょう?」
「来年、同じクラスにもう一人いたら?」
「佐伯くんの方を見て呼ぶわ」
「俺たちが結婚して、同じ名字になったら?」
御影の手が止まった。
「……ずいぶん先の仮定ね」
「可能性の話だ」
「その場合は、必要に応じて再検討すればいいでしょう?」
「同じ家で『佐伯』と呼んだら、自分を呼んでいるようにも聞こえるぞ」
「結婚後も、お互いを名字で呼び合う夫婦は少ないでしょうね」
「つまり、どこかでは変える必要がある」
「結婚すると決まったわけではないわ」
「決まってないけど」
「けど?」
「結婚しないと決まったわけでもない」
「……そうね」
御影がノートへ視線を落とした。
「いまのは、議論上の仮定?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「将来の希望」
「急に本心を混ぜないで」
「御影が結婚後の話をしたからだろ」
「言い出したのは佐伯くんよ」
「じゃあ、話を戻そう」
「そうして」
耳を赤くした御影が、名字側の論拠を書き足す。
「名字は、周囲との関係において安定した呼び方よ。学校でも、社会でも、一般的に使われる。恋人になったからといって、必ず変える必要はない」
「必ずとは言ってない。でも、下の名前には、名字とは違う意味があると思う」
「どのような?」
「同じ名字は、家族で共有することがある。下の名前は、その人自身を指すものだ」
「同じ下の名前の人もいるでしょう?」
「同じクラスにはいない」
「私が言ったときは、来年増える可能性を考慮したのに?」
「そのときは、また考える」
「都合がいいわね」
「御影に合わせた」
俺は少し考え、言葉を続けた。
「下の名前で呼ぶことは、ほかの人とは違う関係だと示すことにもなる」
「名字で呼びながら付き合っている私たちは、恋人ではないの?」
「恋人だよ」
「なら、呼び方で関係は変わらない」
「関係は変わらなくても、表し方は変わる」
「表し方?」
「好きだと一度伝えたからって、その後は一生言わなくていいわけじゃないだろ」
「毎日言う必要もないわ」
「呼び方なら、毎日使える」
「毎回、恋人だと確認するために下の名前を呼ぶの?」
「そこまで大げさじゃない。ただ、名字より少しだけ近い感じがする」
「距離は、音の違いで決まるもの?」
「心理的な距離の話だ」
「私は『佐伯くん』という呼び方に、かなり親しみを感じているわ」
「付き合う前と同じなのに?」
「呼び方が同じでも、込めている感情は違うもの」
「それは、俺には見えない」
「見えなくても存在するわ」
「なら、伝わる形に変えてくれてもいいだろ」
御影が黙った。
「下の名前で呼ばれたいの?」
「少しは」
「最初から、そう言えばいいのに」
「御影が、名字のままでいいと言うから」
「私は立場を担当しているだけよ」
「本心は?」
「それは、議論が終わってから」
「また保留か」
図書室の閉館を知らせる放送が流れた。
周囲で勉強していた生徒たちが、荷物をまとめ始める。
「時間切れね」
御影がノートを閉じた。
「勝敗は?」
「私の主張は、名字でも呼称としての機能を果たし、恋人関係も成立するというもの」
「俺の主張は、下の名前には心理的な距離を縮め、関係を表す役割があるというもの」
「どちらも否定されていないわ」
「引き分け?」
「そうなるわね」
「引き分けの場合は、どうする?」
「両方を試して、比較する」
「最初から、それが目的だったんじゃないか?」
「実証は重要よ」
俺たちは図書室を出た。
冬の廊下は冷えている。
並んで昇降口へ向かいながら、どちらもなかなか口を開かなかった。
「御影」
「なに?」
「御影冬華」
「フルネームで呼ぶ必要はないでしょう?」
「練習」
「不自然よ」
「じゃあ、冬華」
足音が止まった。
振り返ると、冬華がその場に立っている。
「どうした?」
「急に呼ばれると、心の準備ができていないわ」
「比較するんだろ?」
「もう一度」
「冬華」
「……はい」
返事が小さい。
「感想は?」
「名字より、近い気がする」
「俺の主張を認める?」
「まだ一度しか試していないわ。次は私の番よ」
冬華は一度、深呼吸した。
「佐伯くん」
「それは今までどおりだろ」
「比較のために、先に基準を確認したの」
「なるほど」
「では」
冬華が、まっすぐ俺を見る。
「文哉くん」
自分の名前なのに、一瞬、誰か別の人間を呼んでいるように聞こえた。
けれど、冬華の視線は俺へ向けられている。
「なに?」
「返事が遅かったわ」
「慣れてないから」
「嫌だった?」
「いや」
「名字の方がいい?」
「今の方がいい」
「そう」
冬華は前を向き、再び歩き始めた。
その横顔は、少しだけ赤かった。
「結論は出たな」
「まだよ」
「お互い、下の名前の方がいいと思っただろ」
「呼び捨てと敬称つきでは条件が違うわ」
「俺も『冬華さん』にする?」
「それは距離を感じる」
「じゃあ、『冬華ちゃん』」
「子ども扱いされているようで嫌」
「難しいな」
「現状の『冬華』と『文哉くん』で、一定期間試験運用しましょう」
「試験運用って」
「一か月後に再評価する」
「恋人の呼び方を業務みたいに扱うな」
「問題がある?」
「ないけど」
昇降口で靴を履き替え、校舎の外へ出る。
冬華は俺の隣を歩きながら、何度か小さく「文哉くん」と口にした。
「なに?」
「呼んだだけ」
「用事がないなら呼ぶなよ」
「呼び方を定着させるための練習よ」
「じゃあ、冬華」
「なに?」
「呼んだだけ」
「仕返し?」
「練習だよ」
「そう」
冬華が笑う。
結局、一か月後の再評価は行われなかった。
そのころには、名字で呼び合っていたことの方が不自然に感じられるようになっていたからだ。
言葉の意味は、使う人間と関係によって変わる。
同じ名前でも、誰が、どのような気持ちで呼ぶかによって、聞こえ方は違う。
御影冬華は、冬華になった。
佐伯文哉は、文哉くんになった。
関係そのものは、昨日と変わらない。
それでも、彼女に名前を呼ばれるたび、昨日より少しだけ近くなった気がした。




