緑のギザギザは、地球を滅ぼすのか
§高校二年・秋§
「この緑のギザギザ、地球の環境破壊に加担してないか?」
彼女が初めて作ってくれた弁当を受け取った男の第一声としては、たぶん零点だった。
御影冬華は無言で弁当箱の蓋を閉じた。
「返して」
「待ってくれ」
「佐伯くんに食べてもらおうと、今朝はいつもより三十分早く起きたの」
「ありがとう。すごくうれしい」
「卵焼きを作り直したら、卵を三つも使ったわ」
「本当にありがとう」
「その結果、最初に出てきた感想が環境破壊」
「弁当に対する感想じゃない。バランに対する問題提起だ」
「返して」
「ごめんなさい」
頭を下げると、御影は弁当箱から手を離した。
どうやら、もう一度開ける権利を与えてもらえたらしい。
御影冬華は、俺の彼女である。
数か月前までは、クラスで美人かつミステリアスと評判の、まともに話したこともない女子生徒だった。
それが、57は素数なのか、カップ焼きそばは焼きそばなのか、他人の唐揚げにレモンをかけることは許されるのかといった、人生の役には立たない議論を重ねているうちに、いつの間にか一緒にいることが当たり前になっていた。
最終的には御影から、
「私たちが交際することに、合理的な反対理由はある?」
と問われ、
「ないと思う」
と答えた結果、付き合うことになった。
告白として正しい手順だったのかは、いまだに議論の余地がある。
ともかく、俺たちは現在、恋人同士である。
付き合い始めたからといって、放課後の過ごし方が劇的に変わったわけではない。
図書室で一緒に本を読んだり、帰り道に寄り道をしたり、休日に映画を観たりするようにはなった。
だが、それ以上に増えたのは、無益なディベートの回数だった。
「それで?」
御影は俺の向かいに座り、自分の弁当箱を開けた。
「このバランが、具体的にどのような環境破壊を引き起こすの?」
俺の弁当箱の中央には、緑色のギザギザが立っている。
正式名称は、バラン。
卵焼きと、鶏の照り焼きの間を隔てている、草の形をした仕切りである。
「使い捨てのプラスチックだろ?」
「一般的なものは、そうね」
「弁当を食べ終わったら捨てられる。使われる時間はせいぜい数時間。それなのに、自然界では長期間分解されずに残る」
「佐伯くんのお弁当に入っている、たった一枚が?」
「一枚だけなら小さい。でも、日本中の弁当に毎日入っていると考えれば、無視できない量になる」
俺は箸袋から割り箸を取り出し、緑の仕切りを指した。
「一枚一枚は小さくても、それが何百万枚、何千万枚と積み重なれば、大量のプラスチックごみになる。製造にも輸送にも処分にもエネルギーが必要だ。バランは、地球の環境破壊に加担している」
「なるほど」
御影はノートを開いた。
以前は議論のたびに黒板を使っていたが、付き合い始めてからは、彼女が持ち歩いているディベート専用ノートを使うようになった。
表紙には、『佐伯くんとの議論』と書かれている。
初めて見たとき、少しだけうれしかった。
その直後、内容が『プリンのカラメルは上か下か』『傘を持っているときに雨が降らない現象を、敗北と呼ぶべきか』だったので、感動は薄れた。
御影は新しいページに、議題を書いた。
――弁当に使用されるバランは、地球の環境破壊に加担しているのか。
「立場は、佐伯くんが加担している側。私が加担していない側でいい?」
「ああ」
「敗者は勝者の望みを一つ聞く」
「範囲が広すぎないか?」
「恋人同士なのだから、信頼して」
「その言い方をされると、断りづらいな」
「交渉成立ね」
「いまのは同意じゃない」
「では、反対?」
御影が、じっと俺を見る。
「……同意します」
「よろしい」
恋人になってから、御影は自分の容姿が俺に対して有効であると学習しつつある。
非常に危険な傾向だった。
「まず、バランには実用的な役割があるわ」
御影は、弁当箱の中央にある緑の仕切りを指した。
「料理同士が触れるのを防ぎ、味や水分が移ることを抑える。彩りを加えて、見た目も整える。無意味な飾りではない」
「役割があることと、環境へ負担をかけていることは両立する」
「でも、その役割によって、食べ物がおいしい状態に保たれる。味が混ざって食べ残される量が減れば、食品廃棄を防ぐことにもつながるでしょう?」
「この弁当で、バランがなければ食べられなくなる料理はないだろ」
「卵焼きに照り焼きのたれがつくわ」
「おいしそうじゃないか」
「せっかく甘い卵焼きにしたのに」
「甘いやつなのか?」
「佐伯くんは、甘い卵焼きの方が好きでしょう?」
「覚えてたのか」
「前に話したもの」
御影は少しだけ目をそらした。
「だから、たれが移らないように仕切ったの」
「……バランには重要な役割があるな」
「早くも立場を変える?」
「いや。個人的には感謝するけど、環境問題とは別だ」
「頑固ね」
俺はバランを指でつまんだ。
「料理を分けたいなら、紙の仕切りでもいい。アルミカップだってある。レタスのように食べられるものを使う方法もある」
「紙は水分や油を吸うわ。加工によっては再利用も難しい。アルミニウムの製造にも、大きなエネルギーが必要になる」
「レタスは食べられる」
「仕切りとして使った、しなびたレタスを必ず食べる?」
「食べるよ」
「本当に?」
「食べる」
「ドレッシングがなくても?」
「食べる」
「照り焼きのたれと、卵焼きの水分を両側から吸っていても?」
「それはむしろ、味がついている」
「意地になっているだけでは?」
「食べ物を無駄にしないという強い意志だ」
「では、明日から毎日入れてあげる」
「毎日は少し多いな」
「地球のためでしょう?」
「環境保護を人質にするな」
御影は、ノートに「代替品にも環境負荷」と書いた。
「プラスチック製品だけを悪者にして、ほかの素材へ置き換えれば解決すると考えるのは単純すぎるわ。紙にもアルミにもシリコーンにも、それぞれ製造や廃棄の際の負荷がある」
「それでも、使い捨てのプラスチックを減らす意味はある」
「もちろん、減らすこと自体には賛成よ。でも、バランだけを取り上げて環境破壊の象徴にするのは妥当かしら」
「小さいから見逃せと?」
「優先順位の問題よ」
御影は俺の弁当箱を順番に指した。
「鶏肉を育てて、加工して、冷蔵して、店まで運ぶ。卵や野菜も同じ。この弁当箱自体も工場で作られている。佐伯くんが飲んでいるペットボトルのお茶は?」
「これは、あとで分別する」
「ペットボトルは許容して、バランだけを糾弾するの?」
「バランはなくても困らないからだ」
「私は困るわ。せっかく作った卵焼きに、たれをつけたくないもの」
「そこまで味が移るか?」
「移る可能性がある」
「可能性だけで使い捨てプラスチックを使うのか?」
「佐伯くんだって、雨が降る可能性だけでビニール傘を買ったことがあるでしょう?」
「急な雨だったんだ」
「私は急な照り焼きのたれに備えたの」
「予報できるだろ。自分で入れたんだから」
「たれは、ときに人の想像を超えて流れるものよ」
「自然災害みたいに言うな」
御影は卵焼きを一つ取り、自分の口へ運んだ。
俺も弁当を食べようとしたが、手に持ったままのバランが気になる。
これを机の上に置くべきか。
すぐに捨てるべきか。
弁当箱へ戻すべきか。
「食べないの?」
「議論の対象をどう扱うべきか考えている」
「料理が冷めるわ」
「もともと冷めてるだろ」
「恋人が作ったお弁当を前にして、もう少し情緒のある言葉を選べないの?」
「いただきます」
「はい。どうぞ」
卵焼きを食べる。
優しい甘さだった。
焼き加減も柔らかさもちょうどいい。
「おいしい」
「そう」
「本当においしい」
「二回言わなくても聞こえているわ」
御影は平静を装っていたが、口元が少し緩んでいた。
「ただし、バランの環境負荷とは別問題だ」
「いま、せっかくいい雰囲気だったのに」
「議論と感想は分けて考えないと」
「それなら、恋人とディベート相手も分けて考えるべきね」
「どういう意味だ?」
「議論中は、恋人としての手加減をしないということ」
「いままで手加減してたのか?」
「少しだけ」
御影は俺の指からバランを取り上げた。
「佐伯くんの主張は、小さな使い捨て製品も、大量に消費されれば大きな環境負荷になるというものね」
「ああ」
「それ自体は正しいと思う」
「認めるのか?」
「でも、個々人に罪悪感を負わせるだけでは、問題は解決しないわ」
「どういうことだ?」
「消費者が一枚のバランを使うかどうかより、製造や流通の仕組みを変える方が影響は大きい。代替素材の研究、過剰包装の削減、回収制度の整備。個人の努力は必要だけれど、すべての責任を個人へ押しつけるべきではない」
「だから、個人はなにもしなくていいと?」
「そうは言っていないわ。個人の選択が集まって、企業や制度を動かすこともある。でも、『この小さなバランを使ったあなたは環境破壊に加担している』と責めるだけでは、問題の全体像を見失うと言っているの」
「俺は御影を責めたわけじゃない」
「最初に言ったでしょう。このバランは環境破壊に加担していると」
「バランに言ったんだ」
「物体へ責任を負わせるの?」
「製造した企業と、選んで使った人間にも少しずつ責任がある」
「このお弁当を喜んで食べている人には?」
「……あると思う」
「では、佐伯くんも加担しているのね」
「俺まで?」
「バランの恩恵を受けて、たれのついていない卵焼きを食べたでしょう?」
「たれがついていても食べた」
「でも、ついていない方を食べた」
「用意されたものを食べただけだ」
「環境問題において、消費者がよく使う言い訳ね」
自分で持ち出した理屈が、こちらへ返ってきた。
「御影、今日の立場は環境破壊に加担していない側だったよな?」
「私はバランを弁護しているの。佐伯くんを弁護しているわけではないわ」
「味方を選ぶ順番がおかしくないか?」
「議論中は、恋人としての手加減をしないと言ったでしょう?」
御影は楽しそうだった。
俺が反論に詰まると、彼女はいつも少しだけ目を輝かせる。
恋人が困っているのに楽しむのはどうかと思うが、俺も御影を言い負かせそうなときは同じ顔をしているのだろう。
「そもそも、環境破壊に加担しているかどうかを、完全な二択にすることが間違いなのかもしれない」
俺は言った。
「どういうこと?」
「バランは環境へまったく影響を与えないわけじゃない。でも、これ一枚ですべてが決まるわけでもない。便利さと環境負荷を比較して、必要な場面では使い、不要な場面では減らすべきだ」
「ずいぶん穏当な結論ね」
「現実の問題は、57が素数かどうかみたいに、明確な答えが出るものばかりじゃないからな」
「つまり、佐伯くんは最初の主張を修正するの?」
「バランは環境破壊に加担している。ただし、主犯ではない」
「共犯者?」
「事情を知らずに荷物を運ばされた運転手くらいだ」
「本人に犯罪の認識がないなら、共犯とは限らないわ」
「急に法律の話を持ち込むな」
「たとえが不適切だったから訂正しただけよ」
「じゃあ、御影の結論は?」
「使い捨てのバランを大量に消費することには、改善の余地がある。ただし、バランには食品を分ける役割があり、代替品にも環境負荷は存在する。よって、バランそのものを環境破壊の加害者と断定することはできない」
「ほとんど同じ結論に着地してないか?」
「私は最初から冷静だったもの」
「俺が極端だったみたいに言うな」
「彼女が作った最初のお弁当に対して、環境破壊と言いだす程度には極端だったでしょう?」
「それについては謝ってる」
「なら、私の勝ちね」
「待て。まだ勝敗は決まってない」
「佐伯くんは、バランにも役割があると認めた。私は、使い捨てによる環境負荷を完全には否定していない。最初の主張を大きく修正したのは佐伯くんの方よ」
「御影だって修正してるだろ」
「ところで」
御影は、ずっと手に持っていたバランを左右へ引っ張った。
緑のギザギザが柔らかく曲がる。
「これは使い捨てのプラスチック製ではなく、洗って繰り返し使えるシリコーン製よ」
「…………」
「すでに半年ほど使っているわ」
「それを最初に言えよ!」
「議題は『バランは環境破壊に加担しているか』でしょう? このバランが使い捨てだとは、一度も言っていないわ」
「俺が持ち上げたとき、黙ってたよな?」
「佐伯くんが自信満々に議論を始めたから、反論を聞いてみたくなったの」
「前提から間違ってたじゃないか」
「事実確認を怠った佐伯くんの責任ね」
御影はバランを弁当箱へ戻した。
「したがって、私の勝ち」
「ずるい」
「情報を確認することも、ディベートでは重要よ」
「57のときから成長してないな」
「佐伯くんは、いまだに私の詭弁へ引っかかってくれるわね」
御影が笑う。
教室ではめったに見せない、恋人になってから少しずつ増えた笑顔だった。
「それで、敗者は勝者の望みを一つ聞く約束よ」
「なにをさせる気だ?」
「簡単なこと」
御影は自分の弁当箱から卵焼きを一つ取り、俺へ箸を差し出した。
「食べさせて」
「御影が俺に、じゃなくて?」
「佐伯くんが、私に」
「教室で?」
「恋人同士なのでしょう?」
周囲を見る。
昼休みの教室には、まだ何人ものクラスメイトが残っていた。
こちらを見てはいない。
見てはいないが、全力で聞き耳を立てている気配がする。
「別の願いにしないか?」
「反対する合理的な理由は?」
「恥ずかしい」
「それは感情であって、合理的な理由ではないわ」
「恋愛では感情を尊重してくれ」
「では、放課後に二人きりならいい?」
「……それなら」
「交渉成立ね」
御影は満足そうに卵焼きを自分の弁当箱へ戻した。
「それまで取っておくのか?」
「だめ?」
「衛生面が心配だ」
「では、いま食べさせて」
「二択が極端なんだよ」
結局、その卵焼きは昼休みのうちに御影が自分で食べた。
代わりに放課後、駅前の喫茶店で注文したプリンを一口、俺が彼女へ食べさせることになった。
今回のディベートが、本当に御影の勝利だったのか。
そもそもバランは、どの程度まで地球の環境破壊に加担しているのか。
明確な結論は出なかった。
ただ、御影が洗って繰り返し使っている緑のギザギザは、翌日も俺のために作られた弁当の中で、卵焼きと照り焼きの間に立っていた。
地球の環境を守りながら、二つの味が混ざることも防いでいる。
小さいくせに、なかなか立派な仕事をするやつだった。




