第2話 アレン猫に会う
山の奥深く。
そこには、この世界では目に見えない精霊の力と考えられている、俗に霊力と呼ばれるエネルギーが濃く漂っていた。
霊力を求め、強力な魔物たちが集まる場所。
その中には、霊力を多く宿した獲物を喰らい、通常ではありえない力を得る個体も存在する。
人々はそれを――強個体と呼んでいた。
強個体、グランドタイガー。
通常、その体長は五メートルから八メートルである。
だが、その個体はゆうに十メートルを超えていた。
この森で長い年月、獲物を狩り、喰らい続けてきた。
その巨体と力は、まさに森の頂点に立つ強者だった。
――さきほどまでは。
今、その巨体から頭がこぼれ落ちていた。
首から鮮血を噴き出しながら、十メートルを超える巨体が雪の中へ崩れ落ちる。
そして――
二つの金色の光が、倒れた巨体を咥えた。
そのまま、闇の中へと消えていった。
それから程なくして。
雪をかき分けながら、ひとつの影が山を登っていた。
「はぁ……はぁ……。この先に本当にあるのか……?」
「サッチェのやつ……これ以上、俺の信用をなくすなよぉぉぉ……」
ぶつぶつと文句を言いながら、アレンは雪山を登っていく。
今朝、家を出たアレンは、町を出る前にギルド職員のサッチェの家の前を通りかかった。
すると、ちょうど家から出てきたサッチェに声をかけられたのだ。
「おや、アレン。朝早くからご苦労なこった。昨日の分を挽回するにしちゃあ、今日はえらく早い出発だな」
「ああ、おはようサッチェ。まぁ、そんなとこだよ」
アレンは一度足を止め、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。サッチェ、山神様についてもっと詳しく知らないか? 昨日そんな話を聞いたから、少し気になってな」
少し子供っぽくはにかみながら、アレンはサッチェを見る。
すると、サッチェはわざとらしく顎に手を当てた。
「さてなぁ……。朝早くから頭が回らないから、あんまり思い出せないかもしれんなぁ」
ニヤリと笑いながら、右手を差し出す。
アレンは呆れたようにため息をついた。
「子供相手にいい商売だな。まったく」
そう言いながら、小袋から銀貨を一枚取り出し、サッチェの手に握らせる。
「おっと。なんだか急に頭がスッキリしてきたぜ」
「現金な奴だな……」
「んで、山神様だったな」
サッチェは銀貨を懐にしまいながら続ける。
「あれは昔から、この辺り一帯を縄張りにしてるって話でな。かなり昔から存在する、守り神とも悪魔とも言われてるみたいだ」
「ほう? 悪魔だと?」
「ああ。あれから俺も少し気になってな。古い文献を調べてみたんだ」
「何か分かったのか?」
「どうやら三百年くらい前、この辺りに村ができた頃には、もう存在していたらしい」
「三百年前?」
「ああ。当時はまだ開拓中でな。夜になると魔物に襲われて、開拓に来た人間が次々といなくなっていったらしい」
「……そりゃ大変だったな」
「村人たちも途方に暮れて、このままだと撤退するしかないと思っていたそうだ」
「それで?」
「ある日を境に、魔物の襲撃がぴたりと止まった」
「へえ……」
「それから開拓が進んで、ようやく村らしくなってきた頃だ」
サッチェは少し声を落とした。
「見たこともないような強個体のギガントウルフが村を襲った」
「ギガントウルフか。それはまた災難だな」
「ああ。そいつは村の少女をいっぺんに三人咥えて、そのまま山へ逃げていったらしい」
「三人……」
「村人たちは、もう助からないと思ったそうだ」
サッチェは一度言葉を切る。
「だが、三日後――村の外で、そのうちの一人が見つかった」
「一人だけ?」
「ああ」
「逃げて助かったのか?」
「それがな……」
サッチェの表情から、いつもの軽さが少しだけ消えた。
「少女には、目立った傷がほとんどなかったらしい」
「……それで?」
「村人たちは少女に聞いたそうだ。何があったのか。どうやって帰ってきたのか」
アレンは黙ってサッチェの話を聞いていた。
「すると少女は、ガタガタと震えながら――」
サッチェは少女の言葉を真似るように、声を落とした。
「にゃまがみしゃま……」
「……」
「みんな、食べられた……」
「……」
「やまの……おうち……」
「……」
「わたし、わたしは……」
「……」
「いやぁぁぁぁあ!」
アレンはしばらく黙っていた。
「……それで、その少女は?」
「それから数日のうちに、両親とともに村を出されたらしい」
「……そうか」
「帰ってこなかった二人の親も、複雑な感情だったんだろうな」
サッチェは肩をすくめる。
「それ以来、こんな話が残った」
「山の奥深くには祠があって、そこに山神様が住んでいる」
「村を守るかわりに、ときどき生贄を攫いに来る……ってな」
サッチェは苦笑する。
「とまあ、三百年も前から伝わる、おとぎ話みたいな話だな」
「……そうか」
「ああ。だからアレンも、あんまりアンジェを悲しませるようなマネはすんなよ」
「なんで急にそうなる」
「いや……悲しんだアンジェを俺が慰める。そのうちに、二人はいい感じに――うぉう……」
「あーはいはい。それは悪かったな」
アレンは呆れたように手を振る。
「空から星が降ってきたとしてもありえねーから」
そう言い残し、アレンは再び歩き出した。
――そして現在。
山を登り続けるアレンの前を、風に舞う雪が激しく横切っていく。
どれほど歩いたのか。
気がつけば、空には星が輝き始めていた。
「吹雪く前に、休めるところで休むか……」
少し進んだところで、アレンはちょうど一人が入れるほどの小さな洞窟を見つけた。
「ここでいいか」
アレンは人差し指を目の前に掲げる。
指先をじっと見つめたあと、目を閉じた。
そして、小さく何かを唱える。
やがて目を開き、指先に力を込める。
「ジル!」
瞬間。
指先から、拳ほどの大きさの炎が飛び出した。
炎は洞窟の奥へと飛んでいき、内部を明るく照らす。
「よし」
アレンは炎が消えないことを確認すると、洞窟の中へ入っていった。
「これで一息つけそうだ」
洞窟の中では、炎が宙に浮かび、周囲を照らしている。
アレンは近くに落ちていた木の枝を拾い、その炎へ近づけた。
枝に火が移る。
パチパチと音を立てて燃え始めると、宙に浮いていた炎はスッと消えた。
「……こっちのほうが楽だな」
一日中歩き続けたせいで、アレンはすっかり疲れ切っていた。
背負っていた荷物を降ろすと、中から薄いシートを取り出して広げる。
その上に倒れ込むと、乾燥肉を口に放り込んだ。
ゆっくりと咀嚼しながら、アレンの瞼が重くなっていく。
意識が現実と夢の境界を行き来する。
外では、いつの間にか吹雪が荒れ狂っていた。
星は姿を消し、辺りは深い闇に包まれている。
その闇の中で――
二つの金色の光が、眠りにつこうとするアレンをじっと見つめていた。
朝の光が雪山の斜面を照らしだす頃、アレンは瞼をゆっくりと開いた。
ちょうどいい洞窟があってよかった。
よく眠れたな。
アレンは乾燥肉をひとつ口に咥えながら、荷物をまとめて準備を進める。
水筒の水を少し口に含み、肉を流し込んだ後、荷物袋を背中に背負って立ち上がる。
よし、行くか。
アレンは膝下まで積もった雪の中を進んでいく。右手にはアレンの背丈ほどの木の枝で作った杖を持ち、積雪に突き刺しながら進む。
少しずつ進んでは休み、無理をせずに体力をコントロールしながら進む。今は急ぐ必要には迫られていない。重要なのは、今いる場所の把握と、過信せずに周りの気配に注意することだ。
そうして、3日目の朝を迎えた。
昨夜は雪を集めて火を起こし、お湯にして体を拭いた。少しさっぱりした気分で眠ったおかげで、寝覚めはばっちりだ。
軽く伸びをして出発しようと、一歩を踏み出そうとした時、何かがこちらを見ている視線を感じた。
殺意はなさそうだが、今まで感じたことのない視線。
気配の方を見ると、10mくらい先にある木々の影からこちらを見る視線の持ち主と目が合った。
ん……あれは……猫か?
そこには、黒い、暗闇の中に目だけが浮かんでいるような真っ黒な猫がいた。
黒い瞳でこちらをじっと見つめる。
「よぉ! こんなとこで散歩かい?」
アレンは進むはずの足を止めて、猫に話しかける。
猫はじっと見つめたまま、ピクリとも動かない。
「ほら。これでも食うか?」
アレンは背中に背負った袋から小さめの乾燥肉を取り出し、猫に見えるようにヒラヒラと揺らす。
猫はハッと目を見開いて体を起こす。前足を震わせながら、一歩、一歩とアレンに近づく。
アレンまでの距離が3mくらいまで迫った瞬間、勢いよく飛びかかり、アレンの手の中から乾燥肉を奪う。
「ニャニャ? ニャニャ!」
猫は乾燥肉を齧りながら、鳴き声をあげる。
「おっ。気に入ったか。良かった、良かった。
この辺はあんまり魔物が出ないみたいだけど、気をつけろよ? じゃあな」
アレンは袋を再び背負って、歩みを進める。
猫は名残惜しそうに、自分の前足を何度も舐めていた。
それから2時間ほど歩いただろうか。
少し開けたところに、小さな川が流れている。
「ちょっと休憩するか」
アレンは呟きながら荷物袋からカップを取り出し、川の水をすくう。
そして、カップの上に右手を軽くかざして、集中しながら呪文のようなものを詠唱する。
「クレア!」
アレンが力を込めてそう叫ぶと、カップが少し輝き、数秒後に元に戻った。
「よし。大丈夫そうだ」
そう言って、カップに入った水を飲み干した。
「うまいな。いい水だ」
そう言いながら、水筒を小川に沈め、中を満たしていく。
疲れた体に冷たい水を取り入れ、一息つこうと辺りを見渡す。
「なんだ。ついてきちまったのか」
アレンが向いた先、20mほどのところに黒い猫がいて、アレンをじっと見ていた。
迷子猫かな? それなら悪いことをしちゃったかもしれないな。下りて帰るところを肉で釣っちまったかもしれない。
そう考えていると、
「ニャ! ニャ!」
と、黒猫は後ろ足で立ち上がり、前足を体の前に出して叩き始めた。
「なんだか催促されてるみたいだな。どこかの飼い猫だったのかなコイツ」
そう言いながら、袋から乾燥肉を2つ取り出す。
「ほら、お前の分だ。一緒に食うか?」
「ニャ!」
黒猫は勢いよくアレンの元へ走ってくる。
そして、前足で受け取り、そのまま齧りつく。
「ニャー!」
面白いな、コイツ。
心の中でそう思いながら、また名残惜しそうに前足を舐める黒猫を眺める。
「さて、それじゃあそろそろ行くか」
アレンは荷物袋をまた背負って、歩き始める。
黒猫もその後ろを歩くが、ピタリと止まる。
クンクンと鼻を動かし、小川の向こう側を見つめる。
「どうした? 何か見つけたのか?」
アレンがそう呼びかけた瞬間、黒猫は小川へ向かって走り出し、そのまま小川を飛び越えて、その先の森へ消えていった。
「あーあ。行っちゃったか……。て、え? 今、飛び越えた? この川、10mは軽くありそうだが。あの猫、なんなんだ……」
アレンは、目の前で今さっき起こった出来事を思い出し、しばらく呆然としていた。
まあ、悪いやつじゃなさそうだったし、気にしないでおくか。
そう思うことにして、再び歩き始める。
小川から少し森の奥へ入ったところ。そこには、獲物を探してはや3日ほど彷徨う、飢えたホワイトウルフがいた。
腹が減りすぎて嗅覚が研ぎ澄まされたホワイトウルフは、人間の匂いを察知して近づいていた。
近い。匂いが濃くなった。
目の前の木々の先、小川の向こうに久しぶりの食い物がある。
できるだけ息を潜めながら速度を上げる。
しかし突然、目の前の雪と森と空が転がるように見えた。
最後に、自分の首のなくなった体が見えた後、意識は途切れた。
4度目の朝。
目を覚ますと、目の前にはあの猫がいる。
これはアレンにとって、凄い衝撃だった。
ここ数年、気配の察知に関してはそこそこ上達していると自信があった。
それが、寝ているからといって目の前の至近距離にいる相手に気づかない。
朝から嫌な夢でも見ているようだ。
体を起こしながら、もう一度猫を見る。
「ニャ」
猫は二足歩行で、前足を使って催促する。
「わかったよ。待ってな」
アレンは荷物袋から乾燥肉を取り出し、猫に渡す。
「はぁ」
そうため息をつきながら、アレンも乾燥肉を口に入れる。
まあ、昨日の感じからしても、普通の猫じゃないよな、コイツ。
前足を舐める猫を見ながら、もう一度ため息を吐く。
その後、袋から丸薬を4つか5つ取り出して口に入れ、水で流し込む。
「ニャンだ、その豆は?」
「ああ、これは野菜を凝縮した母さん特製の丸薬でな。毎日肉を食ってたら体に悪いんだと……」
「へえ。そうニャんだニャ。吾輩は毎日その肉でいいニャ」
「……」
「……」
「喋った?」
「ニャ?」
アレンと猫は目を合わせたまま、時が止まった。




