第1話 アレン旅の始まり
ひらひらと、羽のように白い雪が舞い落ちる。一片が少年の頬に触れ、冷たさを残して消えた。
――雪だ。
ふもとの村に住む少年アレンは、薬草を詰めた籠が濡れないよう、慌てて布を被せた。
「ふぅ……」
小さく息を吐き、空を見上げる。雪は少しずつ勢いを増していた。
「積もる前に、今日は帰るか」
そう呟いて山道を下ろうとした、その時だった。
「ん……?」
ふと、何かに気づく。
見上げていた空から視線を下げると、二百メートルほど先、木々の隙間からこちらをじっと見つめる大きな影があった。
「……まずい」
アレンの顔から血の気が引く。
こんなところで出会うなんて。
アレはおそらく……ブラッドベアだ。
この地方に生息する魔物の中でも、特に危険な存在。近年、この辺りでの目撃情報はなく、生息地域が変わったと言われていた。
――はずだった。
アレンの喉が、ごくりと鳴る。
目を逸らさず、ゆっくりと一歩、また一歩と後ずさる。
――頼む。
そのまま、どこかへ行ってくれ。
だが、願いが届くことはなかった。
「グァッ!」
ブラッドベアが吠えた。
次の瞬間、地面を蹴り、こちらへ向かって一気に駆け出す。
「……!」
今までに出会ったことのない恐怖に、アレンは言葉も出ず、その場にうずくまった。
逃げなければ。
そう分かっているのに、足が動かない。
「……あぁ」
迫り来る足音を聞きながら、恐怖で涙ぐむ。
これは……助からないな――。
「……母さん……」
その言葉を最後に、アレンの意識は途切れた。
雪は、その間も無情に降り続けていた。
「……ゲホッ……ぷはぁっ!」
アレンは雪の小山から勢いよく身体を起こした。
「……え?」
辺りを見回す。
どれほど気を失っていたのだろう。周囲には、先ほどまでなかった新雪が積もっている。
「生き……てる……?」
恐る恐る身体を触る。痛みはなく、手も足も動く。
なぜ助かったのかは分からない。
それでも――。
「……早く、逃げよう」
アレンは薬草の籠を背負い、急いで立ち上がった。
周囲には何本もの木がなぎ倒され、地面には巨大な爪痕が残っていた。雪の上には、血が飛び散ったような赤黒い跡もある。
「……何があったんだ……?」
考えている暇はない。今は、とにかく村へ帰ることが先だ。
アレンは震える足に力を込め、山を下り始めた。
それから一時間ほど、ほとんど走り続け、ようやく山を下りきった。
村の入口が見える。
だが――。
「あれ?」
いつもと様子が違う。
村の門には門番が二人。しかも、普段より明らかに物々しい装備を身につけている。
「アレン!」
門番の一人が気づき、声を上げた。
「無事か!」
「なんとか無事だけど……ヤバいところだった……」
息を切らしながら答えるアレン。
「はぁ……はぁ……」
張り詰めていた緊張が一気に切れ、村の門をくぐったところで、その場に突っ伏した。
「……はぁぁぁぁ……」
「ついさっき、隣村から連絡が来たんだ」
門番が険しい顔で続ける。
「隣村が、ブラッドベアの強個体に襲われたらしい」
「……強個体?」
「ああ。三人ほど食われたそうだ」
アレンの顔が強張る。
「それから、村人総出で追い出したそのブラッドベアが、この山へ入っていったらしい」
アレンはゆっくりと顔を上げた。
脳裏に蘇る、山の中で見た巨大な影。そして、自分が倒れていた場所に残されていた血の跡。
「ブラッドベアの……強個体……」
小さく呟く。
「やっぱり……夢じゃないよな……」
身体がぶるりと震えた。
「どうした、アレン? 何か見たのか?」
「見た。……ていうか、遭遇した」
「何?」
門番は目を見開いた。
「よく生きてたな。ブラッドベアといえば、狙った獲物は三日三晩追いかけて仕留めるっていう、執念の塊みたいな魔物だぞ」
呆れたように息を吐く。
「まあ……無事に逃げ切れて何よりだ」
だが、アレンは首を横に振った。
「いや……俺、逃げてないんだよ」
「……は?」
「目の前に走ってきたブラッドベアを見て……怖くて、気絶したんだ」
「……」
「それで、死んだと思ったら……雪に埋もれて生きてた」
「なんだそりゃ?」
門番は困惑した顔をする。
「本当にブラッドベアだったのか?」
「ああ。俺も、なんで助かったのか分からない。でも、俺が倒れてた周りを見たら……木が何本も倒れてて、血が辺りに飛び散って、ブラッドベアはいなくなってた」
アレンは眉を寄せた。
「まるで……もっと凶暴で、もっと強大な何かにブラッドベアが倒されて、そのまま連れていかれたみたいだった」
「……」
門番は何も言わなかった。
アレンも口を閉じ、二人の間に重い沈黙が流れる。
やがて、門番がゆっくりと口を開いた。
「……アレン。それはもしかしたら……山神様かもしれないな」
「山神様?」
「ああ。この山の奥深くには、遠い昔から山神様が住んでいるっていう話がある」
「へぇ……」
「この周辺に強大な獣が現れて、人々が困っていると、山神様が現れて退治してくれる。そんな守り神みたいな話さ」
「……なんだよ、それ。そんな話、聞いたことねえよ」
「まあ、最近じゃ山神様を見たって話自体、聞かないからな。俺も、ひいばあちゃんから聞いた話だ」
「エリックは見たことあるのか?」
エリックと呼ばれた門番は首を振った。
「いや、俺はない。というか、今この村……いや、周辺の村を含めても、実際に山神様を見た人間なんていないんじゃないか」
「じゃあ、その山神様って本当にいるのか?」
「わからん。そもそも、あの山の奥は昔から禁忌とされてるんだ。近づいたら死ぬ、とまで言われてる」
「……じゃあ、余計に分からないじゃねーか」
「まあな」
エリックは少し遠くを見るような目をした。
「ただ、俺のひいばあちゃんが今のアレンと同じくらいの十五、六の頃にな……山で迷子になったことがあるらしい」
「へぇ」
「その日も今日みたいに急に雪が降り始めて、あっという間に辺りが真っ白になったそうだ。道も崖も分からなくなって、怖くて動けないうちに日が落ち始めた」
アレンは黙って話を聞く。
「そこで出会ったんだと」
「山神様に?」
「いや」
エリックは真顔で答えた。
「グランドタイガーに」
「……最悪だな、それ。よく生きてたな」
「ああ。ひいばあちゃんも、その時は自分は終わったと思ったらしい」
「そりゃそうだろ……」
「その瞬間――」
エリックは声を少し落とした。
「闇の中で、金色の眼が光った」
「……金色の眼?」
「ああ。そして次の瞬間には、目で追うことすらできない速度で何かが走った」
アレンは息を呑む。
「気づいた時には、グランドタイガーが切り刻まれて倒れていた。そしてそのまま、何者かに引きずられるようにして、山の奥へ消えていったそうだ」
「すげぇな……」
アレンは思わず呟いた。
「グランドタイガーって、五メートルから八メートルくらいあるって聞くけど……」
「ああ。それを一瞬で倒すって……すごいだろ?」
エリックは肩をすくめた。
「それから、ひいばあちゃんは近くにあった洞窟で一晩近く過ごしたそうだ」
「……で、無事に助かったのか?」
「ああ。ちょうど俺のひいじいちゃんが見つけたらしくてな。おかげで俺が今ここにいるのさ」
アレンは苦笑した。
「まあ、エリックの曾祖父さんだからな」
エリックはニヤリとアレンを見る。
「それより……」
アレンは山を振り返った。
「本当に、山神様は今でもいるのか?」
「さあな。それは俺にも分からない」
「……」
「でも、アレン。お前があの状況で助かった理由を考えるなら……俺には山神様くらいしか思いつかない」
「……そっか」
アレンは山を見つめた。
白い雪が、静かに山を覆っている。
「ああ、そういや余談だが、山神様の近くには特殊な湧水があったみたいでな」
「特殊な湧水?」
「ひいばあちゃんは足を怪我して動けなくなり、洞窟で寒さと痛みに耐えていたらしい。すると、どこからともなく声がしたそうだ。
『オマエ……足を痛めているな。ならそこの水を飲むな』
気づくと、それまで何もなかったはずの岩の窪みに湧水があった。でも、ひいばあちゃんは喉の渇きに耐えきれず、その湧水を飲んじまったらしい」
エリックは苦笑した。
「そうしたら痛みがだんだんと引いていって、朝には治ってたらしい」
「え?」
「まあ、ひいばあちゃんも当時は混乱していたみたいだから、本当かどうかまでは知らんがな」
「それなら本当に守り神なんだな」
そう言うと、エリックは少し声を落とした。
「だが、本当に守り神なのかは意見が分かれるみたいだ。もっと昔は山神様に生贄を捧げていた、なんて話もある」
「生贄……?」
「ああ」
「……」
「だから、もし本当に山神様が助けてくれたんだとしても、単なる気まぐれかもしれない」
エリックは冗談めかして笑った。
「まあ、今回の件は色々と運が良かったな」
「……そうだな」
アレンは少し考えたあと、頷いた。
「ありがとな、エリック」
疲れたように肩を回す。
「とりあえず今日は、ギルドに薬草を卸して帰って寝るよ。もう疲れた」
「ああ。疲れてるところに長話しちまったな」
「別にいいよ」
「じゃあな、アレン」
「ああ」
アレンは振り返らず、右手だけをひらりと上げ、村の中心部にある薬師ギルドへ向かった。
「よう、アレン!」
受付にいた男が、アレンに気づいて声をかける。
「今日は来ないのかと思ってたぜ。いつもよりかなり遅い時間まで頑張ったんだな」
そう言いながら、アレンの背負う籠を覗き込んだ。
「……って、少なっ!」
「……」
「どうした? 雪で採れなかったのか?」
「いや、雪は降ってきたけど……途中で色々あってな。ようやく帰ってこれたんだよ」
アレンは肩をすくめる。
「まあ、聞いてくれよ」
「ああ、話は聞くが、それよりもだな」
ギルド職員は少し声を落とした。
「何でも隣村にブラッドベアの強個体が出現したらしいぞ。アレンも気をつけた方がいいな」
「ああ、さっきエリックに聞いたよ」
アレンは頷く。
「まあ、聞いたって言うより……」
「なんだ?」
「出会っちまったよ」
アレンは職員の目を見る。
「ソレに」
「…………」
ドサリ。
職員の手から、薬草の籠が床に落ちた。
「は?」
顔が引きつる。
「今、なんて言った?」
「だから――」
「ブラッドベアに?」
「ああ」
「出会った?」
「ああ」
「…………」
「体長六、七メートルぐらいのデカいやつだったよ」
アレンは遠い目をする。
「おいおい……よく生きて逃げられたな。見つからなくて本当によかったよ」
「いや、見つかった」
「……え?」
「襲われかけた」
「……」
「なんなら、俺は怖くて気絶してた」
「…………」
職員はしばらく黙り込んだあと、真顔でアレンを見た。
「……アレンさん」
「なんだよ」
「今まで少し安く換金していたことを恨んで、化けて出てきたのなら……申し訳ありません」
「おい!」
「どうか、早くあの世へお帰りください」
「聞き捨てならねーな、サッチェ! どういうことだよ!」
「いや、冗談だよ」
サッチェと呼ばれる職員は笑いながら手を振った。
「しかし、その状況でよく助かったな」
「それが、俺にも分からないんだよ。その話をエリックにしたら、山神様じゃないかって話を聞いたんだ」
「……ほう」
サッチェは顎に手を当て、少しだけ天井を見上げた。
「古い話を知ってるもんだな、エリックも」
椅子に腰を下ろすと、サッチェは尋ねた。
「で、エリックの奴はなんて言ってた?」
アレンはエリックとの会話をサッチェに話した。
話を聞いたサッチェは記憶を辿るように話し始めた。
「俺が昔見た記録によると、その湧水の話は辺境伯にまで届いてな。それを調べるために、軍の調査隊が大勢で村に来たらしい」
「軍の調査隊が?」
サッチェは頷いた。
「その時に派遣されてきた調査隊が、当時の村長に『天女の泉』はどこだ? って聞いていたらしい」
「天女の泉?」
「天女がこの地に現れる時に、どんな怪我や病気も治す泉が湧くって話だ。実際、その時の少女は怪我が治っただけじゃなく、持病の黒紫病まで治ったらしい」
「……黒紫病って、黒子状の痣が身体中に広がって、最後に全身から血を吹き出して死に至るっていうアレか?」
サッチェは人差し指をアレンに向けた。
「そう。よく知ってんな。まさにそれだ。二十歳を過ぎたあたりからだんだんと痣が広がり、紫に変色して死ぬ。当時は薬もなかったんだが、その少女からはきれいに消えたらしい」
「!……それならすごい発見だな」
「ああ。だが、いくら探してもその湧水は見つからなかったらしくてな。それからも何度か来たらしいが、どれも手がかりを見つけられず、そのうち来なくなったみたいだ」
アレンは小さく頷いた。
「そうか。そんな話があったんだな」
「ああ。まあ、それとして」
話しながら薬草の仕分けを終えたサッチェは、机の上に硬貨を並べた。
「ほれ、今日の分。三千フィートだ」
銀貨を三枚、アレンの前に置く。
「……安くしてねえだろうな?」
「アレン」
サッチェは呆れたように笑った。
「今日だけ三千三百フィートにしといてやるよ」
そう言って、小銀貨をもう三枚横に並べた。
「……ちっ」
アレンは硬貨を手に取る。
「やっぱり、いつもが疑わしいぜ」
「気のせいだ」
「絶対違うだろ」
「まぁ、そう言うなって。あとコレ。そろそろ無くなる頃だろ」
サッチェは戸棚から瓶に入った薬を取り出した。
「ああ、いつも悪いな。もらってくよ」
「なぁに。いつも安く買い取ってる礼さ」
「はいはい。わかったよ」
アレンは腰袋に硬貨をしまい、瓶を受け取るとギルドを後にした。
帰り道。
「……天女の泉か」
アレンはぽつりと呟き、ふと足を止めた。
振り返ると、今日、自分が降りてきた山が見えた。
頂上付近には雲がかかり、積もった雪が山肌を白く染めている。その奥に何があるのかは、何も見えない。
「…………」
しばらく山を見つめたあと、アレンは小さく息を吐いた。
「……本当にあるなら……」
再び前を向き、家路を急いだ。
「ただいま」
ギイィ……。
木が軋む音を立てながら、玄関の扉が開く。
「おかえり、アレン」
奥からか弱い声がした。
「ただいま、母さん。今日は少し遅くなった」
「ええ。ちょっと心配していたのよ」
母親のアンジェは微笑んだ。顔色はあまりよくない。それでも、いつものように息子を気遣う姿は変わらなかった。
「薬を貰ってきたよ。あとで忘れずに飲んでね」
「ありがとう。いつも助かるわ」
アレンは薬を渡し、夕食の支度に取りかかった。
アンジェが薬を飲むのは夜に一度だけ。薬が効けば翌日の夕方頃までは身体が楽になり、日常生活もなんとか送れる。
だが、夜が近づくにつれて倦怠感が増し、動くことさえつらくなる。
それを知っているからこそ、アレンはアンジェに無理をさせたくなかった。
夕食を終え、夜も更けた頃、アンジェはいつもの薬を飲んで寝室へ向かった。
母が休んだのを確かめてから、アレンは家を出た。
この辺りでは至るところから温泉が湧き出している。村の人々が天然の温泉に浸かって身体を温めるのは、珍しいことではなかった。
アレンも家の近くにある湯溜まりへ向かい、ゆっくりと身体を沈めた。
「……ああ」
温かい湯が身体を包む。
「ああ、生きてたぁ……」
思わず声が漏れた。
目を閉じると、今日の出来事が鮮明に蘇る。
迫ってくるブラッドベア。
動かなくなった身体。
そして、目を覚ました時に残されていた、あの血の跡。
「……」
アレンは湯の中で小さく身震いした。
「うーん……」
空を見上げる。
満天の星が、静かに夜空を埋め尽くしていた。
「……天女の泉、か」
エリックから聞いた話が頭をよぎる。
怪我を治したという、不思議な泉。
あんな話が本当だなんて、普通なら信じない。
けれど――。
アレンは湯の中でゆっくりと目を閉じた。
夜になれば、母さんはまた薬を飲む。
薬が効いている間は少しだけ普通に過ごせる。それでも、翌日になれば同じことの繰り返しだ。
以前、母さんの友人らしい魔法士が、母さんの病は簡単には治せないと話していたのを偶然聞いたことがある。
今の俺には、母さんの命を繋ぐ薬を手に入れ、食事を用意し、できる限りのことをする。それが精一杯だった。
でも、この先、俺に何かあったら母さんは……。
「……もし、本当にそんな泉があるなら」
小さく呟く。
怪我だけでなく、黒紫病まで治す水があるのなら、母さんの病気だって、もしかしたら……。
もちろん、ただの言い伝えかもしれない。
山の奥は危険だ。ここ数十年以上、この山で強力な魔物を見たという話はほとんどないが、ゼロではない。
まさに今日、一歩間違えれば命を落としていた。
それでも――。
「……このままゆっくりと弱っていく姿を見るよりも、可能性はある……か」
しばらく星空を眺めたあと、アレンは静かに目を閉じた。
そして、何かを決意したようにゆっくりと立ち上がった。
翌朝。
まだ朝日が昇る少し前、薄暗い家の中でアンジェは朝食の準備をしていた。
「母さん」
「なに?」
「今日、ちょっと遠出する予定なんだ」
アンジェの手が止まる。
「しばらく戻れないかもしれない」
ピタリと調理の手を止め、アンジェはアレンを振り向いた。
「……どうして?」
「実は俺……」
アレンは少し言葉を探した。
「昨日、少し実入りのいい仕事を紹介してもらってさ」
「仕事?」
「ああ。ちょっと遠くまで荷物を取りに行くだけなんだけど、何日か家を空けることになりそうなんだ」
アンジェは黙ってアレンを見つめた。
「だから……その間、母さん一人にしちまうことになるんだけど……」
しばらく何も言わなかったアンジェは、やがてふっと微笑んだ。
「……やっぱり、そういうところはお父さん似なのね」
「え?」
「ウソをつく時に真っ直ぐ見るけど、目の奥が泣いてるわよ」
小さくため息を吐き、アンジェは再び調理を始めた。
「……ごめん、母さん」
「謝らなくていいわ」
しばらくして朝食がテーブルに並べられると、アンジェは寝室へ向かった。
そして、古びた一本の剣と胸当てを持って戻ってきた。
「これ……」
アレンが目を向ける。
アンジェは、それらをゆっくりとテーブルの上へ置いた。
「あなたのお父さんの形見みたいなものよ」
「父さんの……?」
アレンは剣に手を伸ばした。
長い年月を感じさせる傷や錆が残っている。それでも、手入れだけはされていた。
「遠くへ行くのなら……」
アンジェは真っ直ぐにアレンを見る。
「自分の身は、自分で守る覚悟はあるわね?」
アレンは剣を見つめ、ゆっくりとその柄を握った。
覚悟を決めたような目でアンジェを見つめ、静かに頷く。
「……分かった」
「わたしも夜に薬を飲んだら、日中はある程度動けるから一人でも心配ないわ。それより、朝食にしましょうか」
アンジェはいつものように微笑んだ。
朝食を終えると、アレンは旅支度を整え始めた。父親が昔使っていた剣と胸当てを身につけ、必要な荷物をまとめていく。
その様子を見ていたアンジェが、戸棚の奥から袋を取り出した。
「これも持っていきなさい」
「これは?」
「うちには大したものはないけど……」
少し照れたように笑う。
「お守りみたいなものかな」
アンジェは袋から首飾りを取り出し、アレンの首に掛けた。
鈍く光る銀色の鎖に、赤い宝石のようなものが取り付けられている。
「じゃあ行ってきます」
アレンはもう一度、真剣な眼差しでアンジェを見る。
アンジェもその目を見つめ返した。
胸の内には不安も心配もあった。それでも、それを押し込めるように穏やかに微笑み、アレンを優しく抱きしめた。
「……無事に帰ってきてね」
「ああ」
アレンも母親を抱きしめ返す。
「行ってきます」
「……いってらっしゃい」
ぎゅっと抱きしめていた腕が、名残惜しそうに離れる。
アンジェの手が、ゆっくりと見送りのために振られた。
「……」
アレンも手を振り返す。
母親の姿が小さくなっていく。それでも、アレンは何度も振り返り、その姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて、アレンは前を向く。
目の前に広がるのは、昨日、命を落としかけた山。
それでも、もう迷いはなかった。
「……行くか」
アレンは山へ向かって走り出した。
――その頃。
山の奥深く。
雪に覆われた森は、朝になっても薄暗かった。
風が木々の間を抜けていく。
その闇の中で――。
ふたつの金色の光が、ゆっくりと開いた。
じっと何かを見つめている。
まるで――。
獲物が来るのを、静かに待ち構えるかのように。




