5話 チェンジリンガー
場所は移る。人が住む人の世界──人間界。一つの超大な大陸と広大な海。たった二つで構成されたシンプルさが特徴の世界。その大陸中心地の東区画に、コーマック家と呼ばれる大家があった。
その本家の一画に備えられた倉庫の中で、フィンは目を覚ました。
「……ッ」
最初に感じたのは二つ。暗い。そして空気が乾燥している。そのどちらも、意識を失う前にはなかった感覚だ。女王と対面していたのは早朝だった。顔に掛かる月光とは無縁の筈だ。それに精霊界は自然と共にあり、満ちる空気は瑞々しさを備えている。唇がカサつく程の乾燥を感じるのは珍しい。フィンも、幼少期に栄養失調だった時期にしか経験がない。つまり普通なら起こり得ないということだ。
板張りの床に体を投げ出していたフィンは、転移が成功していることを理解した。
「……人間界か」
大の字で仰向けになったまま天井を見上げる。月光を透かした先で闇が伸びていた。背の高い建物だ。人の気配はなく、物置か何かだろうとフィンは予想した。ただ視界に映った情報を処理しているだけだ。ボーとしているのだ。しかしそれも束の間、フィンの顔が険しくなる。
奥歯の擦れる音が響いた。
「くそッ! 祝いの日をぶち壊しやがった! 王に成れだと……黙って従うとでも思ったか!」
家族との約束を破らされた。特別な日だというのに。頭と腹が熱い。グツグツと煮立っている。
「あのクソ女王ッ」
吐き捨てる。火炎が口から漏れ出るようだった。
「見聞を広げるとか知るかッ……絶対帰ってやるからなッ」
気丈に宣言するも、その声は弱い。帰還の目処が立たないからだ。
まず、転移能力は希少である。数メートル先に飛ぶ程度の規模であっても、滅多にお目に掛かれないくらいには。世界の壁を超えるとなれば皆無と言っていい。それ程に隔絶した力なのだ。
例外足りえるには、“権能“を備えている事が最低条件になる。
──権能。
長い時を生きた精霊が稀に発言する力である。個体ごとに能力が異なり、その精霊の生き様を写し取ったかのような性質を備えている。そして総じて超越的な効力を持っており、長命な精霊ならではの力と言えた。
しかし、取得はそう容易ではない。ただ長生きであれば良いというものでもなく、世界樹に認められる事が必要だった──ので、十五歳を迎えようとしていたフィンが身につけている筈もなかった。
もし権能を持っていたとしても、都合よく転移を可能にする力になるとも限らないが。
つまり帰還は絶望的だった。しかし諦める気はない。家族と離れるなどまっぴらだ。孤児であり迫害の対象でもあったフィンにとって、家族という繋がりは重い。王様になる話を速攻で蹴るくらいには。
フィンは帰る方法の手掛かりを探す為に立ち上がり──転んだ。それはもう派手に。滑る体に巻き込まれて埃が宙を舞った。月光に照らされて瞬いている。
「なんだこれ……身体が重い。それに、妙に寒い?」
手を付いて上半身を起こす。見下ろす形になった己の手。小刻みに震える指は細く弱々しい。とても日々剣を振っている手とは思えない。感覚も妙に可笑しい。明らかに反応が鈍い。
「衰弱、にしては軋みがない。まるで俺の体じゃないみたいな……」
ただの転移じゃなかったのか。そう疑問が溢れた瞬間──頭に痛み。見に覚えのない記憶が流れ込む。錆び切った刃で刺し貫かれたような痛みに、たまらず頭を抱える。
「ぐッ……」
フィンは痛みに慣れている。日々の修練と霊害獣との戦闘がそうさせていた。それでも堪らず声が漏れた。痛みと共に不快感が湧き出したからだ。脳を泥だらけの手で好き勝手に弄られているような気持ち悪さだ。脂汗が全身に浮かび上がる。
フィンの状態を他所に、記憶は濁流のごとく流れ込んでくる。
「この記憶はッ」
それは人の記憶だった。一人の青年の、十五年分の人生の記憶。物心付いてから、つい先ほどまでの全ての記録。
追体験にも似た記憶の濁流は未知に溢れていた。人間界の人間の記憶なのだから当然だ。しかしその中に、既知の単語も散見していた。
精霊、霊術、契約、次代の王、女王ダーラ、霊害獣、そして──チェンジリング。
全ての記憶を流し込まれて鈍痛の残る頭で、フィンは現状を理解した。
「俺が、俺も……チェンジリンガーってことか」
対面までの道中でダーラが口にしていた、チェンジリングの該当者。魂の取り替え子。女王ダーラと育ての親エグナの関係性と同じ。
つまりフィンは人間の魂を持ちながら精霊として生まれ、この体の持ち主だった青年──フィンディル・コーマックはその逆だった。他人事だと考えていたそれは、フィン本人のことだったのだ。
フィンの外見は精霊だった時から大きく変わっていた。紺色の髪は真っ白に。青に近い深緑色の瞳は淡いシャンパンゴールドに。容姿自体は他人の空似レベルに似ているが、血色の悪い痩せた体が異なる肉体であることを主張していた。
「なんで今更元に戻して……って、答えが記憶の中にあるな」
流れ込んだフィンディルの記憶の中に疑問の答えは用意されていた。それは精霊界と人間界の繋がりに関係するものだった。
「狙いは精約をすり抜ける為か……精霊は人間との契約なく人間界の滞在を許されない、ね」
精霊は強力だ。人間とは魂の格が異なる。身体能力や霊力も根本的に規模が異なっていた。故に精霊が人間界で好き勝手しない為に設けられた、世界間で結ばれた条約だ。それが人間との契約──精約。人間は精霊の滞在認可証となる要石であり、精霊はその対価として人間に力を貸す関係性となる。人間に上位権限を持たせる事で精霊の暴走を抑える役割もあり、人間と精霊の力関係を調整する為の契約である。
もしチェンジリングの繋がりを辿った人間への転移ではなく、精霊の体のまま人間界に訪れていた場合どうなっていたか。フィンは想像する。
「契約すれば誰とも知らぬ人間に束縛されて、それを拒否すれば精霊界への強制退去か」
フィンとしては是非後者であって欲しかった。しかし仕掛け人であるダーラがそれを許さないだろう。権能まで使ってお膳立てしたのだ。逃げ道を残すようなヘマはしない。
「伊達に女王はやってないよな……」
ダーラの権能は“導き“。その概念そのものを操る。声を導けば遠くの者と会話を可能にする。規模を広げれば世界を超える事も可能だ。例えば、魂を元の体に導く事も。
その力を使って精約に引っかからない形でフィンを人間界に送り込んだのだ。どう考えても思いつきではない。明らかに計画的な行動だった。
「全部、女王の計画通り……いや、婆さんも一枚噛んでるな? 朝から変だと思ったら、これを知ってたからか」
ダーラはフィンディルに接触していた。と言っても声のみだが、記憶の中にやりとりが残っていた。どうやらフィンディルの同意はしっかりとっていたらしい。ちゃっかりしている。
その中で明かされている。何故今なのか。決行が十五歳の誕生日を迎える今日だったのか。
「チャンジリンガーの魂が体に定着するのに必要な時間……それが十五年。定着してしまえば、それ以降はチェンジリングの解除は出来ない……だから夜になる前に、俺をこの体に戻す必要があったってことか」
つまり誕生日の日が期日だったということだ。むしろ今日まで待ってくれていたとも取れるだろう。その辺りにエグナが関わっているのだろうと、フィンは予想する。
ダーラが言っていた“三人が限界“という話も、これで答えが出た。フィンの魂が人間界に向かうために、精霊界との繋がりは可能な限り薄めておく必要があったらしい。だからダーラはほぼ全ての精霊を眠りに落とし、フィンとの接触を防いでいたのだ。次代の王を送り出すために、現女王として力を振るったのだろう。
フィンからすれば大規模な嫌がらせでしかないが。
「ああッ! ムカつく。女王もそうだが何よりこの記憶だ。配役を変えただけのコピー演劇を見せられてるみたいだ」
フィンディルの記憶は不幸に溢れていた。彼の血統は優秀だ。コーマック家は三大師族と呼ばれる名門だ。人間界にも霊害獣は存在しており、その対処を行う霊術師が存在する。そのトップ層が三代師族。フィンディル・コーマックはその本家血統なのだ。
しかしそうでありながら、実際は貧弱な体と霊術の才能の無さ。家族には失望され周囲には辱められ、人としての生を否定される日々。その十五年の苦悩は、フィンが精霊界で受けてきた仕打ちに酷似していた。違いといえば、フィンは縁に恵まれたおかげで己を鍛える事ができたことか。
「精霊朽ち……羽無しの人間版ってことか」
無才の精霊が羽無し。無才の人間が精霊朽ち。フィンがそう呼ばれていたように、フィンディルも同じだった。いちいち蔑称を考える奴がいるなんて、どこにでも暇なやつはいるものだ。フィンは呆れてため息を吐いた。
記憶を追体験したからか、フィンディルの事は他人とは思えない。似た境遇だからという以上に怒りも不快感もある。それはもう多分に。しかし今は驚きが勝っていた。それはこれまでの境遇の原因に対してだった。
「まさか、原因がチェンジリングだったとはな……」
記憶の中でダーラがチェンジリングの影響について語っていたのだ。魂の取り替えによって、チャンジリンガーは肉体との繋がりが乱れてしまう。結果、体には幾つもの不具合が発生するらしい。中でも問題なのが身体能力と霊力操作能力の低下だった。これはフィンにも覚えがあった。精霊でありながら羽が育たずに朽ち果てた。そして霊術も使用できない。
「人間の場合は……純粋な身体出力や免疫機能の低下」
体を重く感じる理由の一つだった。握り拳を作ってみても、どうも弱々しい。そして影響はそれだけに留まらない。
「加えて、精霊との契約ができなくなる、か」
これは致命的な欠陥だった。自らの霊力を霊術に変換できる精霊と異なり、人間は霊力を操る事は出来ても変換はできない。だから精霊と契約することでその変換能力を借り受け、疑似的に霊術を操ることを可能としてる。精約で人間が受ける最大の恩恵がこれだ。
しかし十五歳未満のチェンジリンガーは契約そのものが出来ない。精霊界と同じく霊害獣が存在する人間界において、それは戦う力を持たないのと同義であり、大きすぎるハンデとなる。
「仕掛け人、というか元凶は……こんなの、絶対女王だろ」
魂の取り替えを行う為に、“導き“の権能はさぞ有用なことだろう。フィンの中で犯人は確定していた。怒りをすっ飛ばしてもはや傍観に入っていた。
「今日決行したのは十五年の制約があったからか。せめて一言あればちょっとは……」
“ちょっとは“何だろうか。妥協したと? いや。自分なら絶対に頷かなかった。期日まで逃げ隠れるだろう。女王の選択はそれを見越していたのだろう。その通りである。年の功からか何枚も上手だった。
「──くしッ」
くしゃみ。それが自分の体から出たことにフィンは正直驚いた。鍛えた体は多少の寒さや埃っぽさに影響を受けない。寒さに震えるなんていつぶりだろうか。
と、思い出す。そういえば体が違っていた。エグナの師事の下で鍛えた歴史は、この体には無い。
「……」
妙な寂しさがあった。無意識に近くにあった薄い毛布を掴み体に巻きつける。どうやら今は冬の季節らしい。毛布は冷たくじんわりと熱を奪っていく。手の震えは治まらない。
「……一人だ」
ポツリと溢れた言葉。それを弱音だと認めたくなくて、フィンは未だ痛みの残る頭を振った。そのまま思考の焦点を変える。
「フィンディル……妙に名前が被ってるせいか、やっぱり他人とは思えない。それともチェンジリングの影響か? 記憶の追体験が一番の原因だろうが……苦痛も屈辱も、全てが鮮明だ」
フィンディルの記憶を染める苦悩の日々。しかし彼がダーラから話を持ちかけられた時から、記憶の中で一つの光が灯っていた。
光の名前は希望。フィンという本来の体の持ち主が戻る事で、現状を打破してくれるという夢想だった。ダーラからフィンの事を聞いていたのだろう。次代の王の器として語られたフィンの姿は煌びやかだ。まるで英雄に焦がれる子供だった。孤児であり迫害の対象であったという経歴もフィンディルの共感を強く引き出す要因なのだろう。もはや共感を超えて同調の域に達しているようにも思える。そしてそれはフィンにも言える事だった。
「見て見ぬ振りをしろと? ……半身みたいなコイツの苦悩を?」
頭まで被った毛布の奥で、フィンは眼光を尖らせた。
フィンにとって迫害は敵だ。それも家族を脅かす敵である。羽無しと呼ばれた兄弟達はいつだって震えていた。そんな家族を守る為に、フィンは精霊大祭で剣を振るったのだ。
そして今、似た境遇の青年の記憶を見てしまった。しかもチェンジリングという妙な縁がある。この縁がなければ互いにもっとマシな生活を遅れていた事だろう。その“もしも“を奪ってしまったという意味で、フィンは小さくない罪悪感のようなものを感じていた。
きっと、自分の思考はダーラの狙い通りなのだろう。それくらいは理解できている。だが、しかし。
「王にはならない……でもやってやる。フィンディル……いや、ディルが積み重ねてきた分くらいは、抗ってやる」
ディルの誇りを取り戻す。精霊界に帰還する目処が立つまでは、やってやる。フィンは己の行動指針を決めた。
それはそれとしてやっぱりダーラのことはムカつくので、再開したら殴る事を決意した。




