2話 女王からの呼び出し
男の顔から赤みが引くまでの数分間。フィンは家の中に通すでもなく、沈黙の中でただ男を観察した。
初対面の相手だ。名前は知らない。しかし百歳には達していないだろう。そう予想する。時の中で培われる“慣れ“を感じないのだ。薄い。軽い。淡い。受ける印象は上の世代とは違っている。外見年齢こそ交流のある御歴々と同じだが、だからこそ一層際立っている。
上擦った声が正にそう。同世代の若さをフィンは捉えた。とはいえ、精霊の一世代は五十年の幅がある。関わりの無い相手がいても不思議ではない。フィンはそう納得し、観察に潜んだ警戒を薄めた。
動きやすい軽装を見に纏う男は、細かい瞬きを挟み息を整える。そして名乗る。
「先ほどは失礼を。私はクリン・テフターリャと申します。改めて、おはようございます」
背筋を正した彼の名乗りを、フィンは手で払う。
「挨拶はいいから、要件を頼む」
「そ、そうですか。ええっと、では……女王陛下がお呼びです。すぐに参上するように、と」
フィンは頷く。そして真顔で言う。
「嫌だけど」
「は……いや、え……今なんと?」
「断るってこと。悪いけど、そう伝えといて」
「お、お待ち下さい!」
閉まる扉。クリンは手を滑り込ませた。
半開きで止まる扉。隙間に詰まった四本の指を見下ろし、フィンはため息を溢す。
「安心してくれ。一時間もすればちゃんと顔を出すから」
「どこも安心できないのですがッ!? 遅刻を宣言された私にどうしろと?」
「ティータイムでも洒落込めば良いのでは?」
言って、クリンの指を摘む。まずは一本。人差し指を外す。続いて中指。少し汗が滲んでいるが、気にせず摘んで外す。残り二本。
特別な日だからと、剣を我慢して朝食を作ったというのに。邪魔されては堪らない。間違ってへし折らないよう気をつけながら薬指に手を掛ける。そこで何故かクリンは声を上擦らせた。
「ま、まさかご招待頂けるのですか!? 私をッ! お茶まで!?」
「なんでそうなった? 店を使ってくれ店を」
「こんな早朝に店の釜の火は着いていませんよッ」
「そんな早朝になんで来るかな」
ウッ。声が詰まる。
気にせず、フィンは最後の小指も摘んだ。
クリンは慌てて言う。
「その、フィン殿! これは命令なのです。女王陛下直々の──」
「緊急要請なら眷属の蛇が来る。クリンさん。アンタみたいに会話の通じる伝令じゃなくてな」
フィンは断言した。
人間と比べて精霊は神秘的だ。しかし限度はある。動物との会話は成立しない。ただし、眷属として契約でもしなければだが。
女王はその稀有な例の一人だ。蛇と意思を通わせ、感覚の同調すら可能とする。便利なもので、一次的に発声機能を付与できる。蛇がメッセンジャーになれるのだ。
ここで憎らしいのが、読解機能は付与しない所にある。蛇は言うだけ言って、耳は貸さない。一方的に指示を出して反論は封じる。女王の好む手だ。幼い外見通りの自分本位なやり口を、フィンは何度も経験していた。本当に憎らしい。
だから、耳のある伝令を寄越したのは“そういう事“だ。フィンはそう判断した。
遂に小指も摘まみ上げられた。ああッ!と悲観するクリン。
「こ、交渉の余地は」
「もう無くなった」
扉を閉める──前に肩を掴まれる。エグナだ。
「行きな。フィン」
「おいおい……まさかまさかだ。本当に雨が降るぞこれは」
小指を摘んだままフィンは笑った。しかし目は笑っていない。思わず力が入ったのか、クリンが顔を顰めた。軽く謝罪しながら手を離す。
「ちょっと待っててくれ」
返事は待たず扉を閉めた。
対面する二人。エグナは腕を組んで眉を寄せる。
「アタシは、そんなに可笑しなことを言ったかい」
「朝食は全員一緒に。そう約束させたのはアンタだろ」
「強制したような言い方だね」
「一生分土を食された後に言われて、心から納得するとでも?」
七歳の頃だ。剣ばかりで他を疎かにしていたフィンは、エグナに叩き潰された。約束を交わしたのはその時だ。
こめかみに熱が篭っている。フィンは頭を降って熱を払い、疑問だけが残る。
「けど、それは当時の話だ。今は納得してる。だから分からない。なんだって約束を破らせようとする? それもよりにもよって今日、この特別な日に」
「言ったろう。身分差を考えな──特別なこの日にケチを付けるつもりかい」
重く、念を押す声だった。浮かぶのは兄妹の顔。悲しむか、呆れるか。少なくとも喜びはしない。長男として、家族を守る者としていただけない。
だが約束を破るのも嫌だ。フィンの顔にはそう書いてあった。
エグナは息を吐いて肩の力を抜く。
「だから……さっさと終わらせてきな。他の子には私から言っとくよ」
「でも、待たせるのは悪いって」
「アンタねぇ……剣に夢中で食事を忘れた回数を言ってみな」
顔を逸らす。心当たりが有り過ぎた。フィンの食事は結構な頻度で兄妹に分配されていた。食べる物を最初から無かった事にすれば、“一緒に食事“という前提を崩れる。だから約束を破った事にはならない。賢狼院ではそんな屁理屈が常套手段となっている。フィンは毎度の如くやらかしていた。
「まぁ、約束を守るって意識が育ったのは良いことさ」
「別に破りたくて破ってた訳じゃない……」
「分かってるさ」
エグナは目元を緩めた。温かい声だった。
フィンは首を窄める。七歳で約束を交わし、慣れるのに十歳まで掛かった。努力はしたのだ。でも剣を振っていると安心できた。泥に塗れて隠れるように帰宅するのが日常で、“ご馳走様“と皮肉を言われた事もある。でも責められた事はない。兄妹から向けられる目も、エグナと同じものだった。
「あの子達も、分かってくれる」
「……了解した」
渋々、フィンは頷いた。
「速攻で帰ってくる。だから、ちゃんと俺の分は置いといてくれよ」
「……ちゃんと帰ってくるならね」
エグナは笑みを浮かべた。
フィンには、その笑みが固く思えた。だがエグナの笑顔は稀だ。見分けが着くほど見ていない。きっと気のせいだ。フィンは軽く流した。
兄妹の顔は、帰ってから見る事にした。“寝坊助め“と揶揄ってやるのだ。
行くと決まれば行動は早い。フィンは扉に手をかける。
「ッ、フィン!」
エグナが呼ぶ。
振り返ると、中途半端に伸ばされた手が宙を彷徨っていた。フィンは首を傾げた。
エグナは苦笑し、手を戻して髪を掻き上げる。
一拍。目が合う。
「……帰ってくるんだよ」
「死の国に行くんじゃないんだ。すぐ戻るさ」
フィンは笑った。
扉を開け、振り返る事はなかった。
「さっそく参りましょうかフィン殿!」
「嬉しそうだなクリンさん」
「それはもう! 5年前の大会は圧巻でした。脳裏に焼き付いております。かの剣王にお供出来るなど──ッああ! 夢のようです!」
「そう。でも悪いね。早く終わらせたいんだ」
「ん、ええ。ですので──」
「だからクリンさん。アンタのことは置いてくから」
「は……」
「悪いね」
言って、フィンは駆け出した。風に乗るかのような俊足だった。
瞬き一つ。クリンの瞳は緑だけを映していた。
「……フィ、フィン殿ぉぉおおッ!」
叫び、追いかける。クリンの声がただ木霊する。返答は無い。森に静寂が戻るのは早かった。
「……行ったね……いや、行っちまった、か」
扉を閉める。聞き慣れた枯れた音が、今は妙に大きく響いた。
エグナはテーブルに向かう。重い足取りだ。座り込みたい気分だった。
だが、先にやらねばならない事がある。
「食事は皆揃って……」
ポツリと呟く。自嘲が漏れた。
無機質な動きで皿を手に取る。普段は使わないガラス製。高級品だ。今日の為に倉庫から引っ張り出したのだろう。
祝いに即したものを。フィンの心遣いだとすぐに分かった。こうした行動に滲む優しさが、フィンの周りを温かにするのだ。エグナはそう理解していた。
経験が浅いながら、持ち前の器用さで丁寧に作られた料理。森の食材を合わせただけのシンプルな品だが、嫌いではない。愚直に剣を降り続けるフィンの姿が脳裏に過った。
料理は既に湯気は収まっている。手に伝わるじんわりとした熱。エグナは小さく笑った。
手に持つ皿を──ゴミ箱に落とす。他の四枚も同じように。全て落とし切る。皿がぶつかり合い硬い音が響く。
部屋に沈黙が戻る。誰も目を覚まさない。その気配すらない。まるで、眠らされているかのように。
砕けた皿。破片が混じり、もう食べられない料理。エグナはボンヤリと見落とした。暗い瞳だ。
「食事がなけりゃ、約束を破った事にはならない……これまでと一緒さ、フィン」
椅子に腰を下ろす。背に乗る重さに耐えきれなかった。耐える気力がなかった。視線が宙を彷徨う。
「恨むよ……」
──メイヴ。そう呟いた。




