1話 特別な日
精霊の国──アン・セール・エリュ。その東の森の奥深くでは、緑の空が広がっている──と思える密度で、背の高い木々が乱立していた。
瑞々しく青々とした空。そこに1つの空白地帯があった。夜に浮かぶ満月の様に、そこだけが丸く、そして大きく開けている。
円の中央。ポツンと建物。二階建ての木造建築だ。朝露が陽光を反射し、光の衣が宙を舞っている。密林の影の中で、そこだけが輝いていた。
名を賢狼院。精霊の孤児院である。
──その台所。
早朝にも関わらず、調理の音が淡々と響いている。
鍋を振るう一人の青年──フィン。彼に背後から声が掛かる。
「……今日は雨が降るね」
妙齢の美女──エグナ・ファオランが言った。
腕を組み、入り口に寄り掛かっている。
胡乱な視線をフィンの背中に刺し、重ねて言う。
「アンタが剣より鍋を振るうだなんて、アタシはまだ夢の中らしい」
フィンは目線だけ振り返り、すぐ手元に戻した。エグナのアッシュグレーの髪は艶やかで、寝癖は見当たらない。
つまりいつもの冗談。そう判断した。
「朝から失礼だな、婆さん。俺が飯を作るのがそんなに可笑しいか」
若々しい外見のエグナを“婆さん“と呼ぶ。淡々と。不自然な力みはなかった。
証拠とばかりに鍋が鮮やかに振るわれ、食材が舞う。根菜、青菜、複数のきのこ。ジュワリ。熱と香りが弾けた。
エグナは肩を竦める。
「しばらく見ない姿だ。そりゃ可笑しいさ。吉兆と凶兆、どっちだろうね」
「きっちり一年前に見ただろ。年に一度の特別な日だ。今日くらいは孝行するさ」
カットした赤い果実を追加し火力を強める。
パチチ。油が跳ねた。慌てず、タレを加えて煮詰めていく。
「早く墓に入りたいのなら言ってくれ。回数を増やしてもいい」
十や二十じゃ効かないだろうが。フィンはそう付け足し、静かに鍋を揺すった。
水分が弾ける音に混じり、エグナは短く息を飲む。組んだ腕に力が入り、指先が白く染まる。
フィンは鍋を見ている。
エグナは腕を解き、浅く息を吐く。
「……そういや、今日だったかい」
「おいおい、冗談だろ?」
フィンは振り返った。予想した返答と違っていたのだ。
顔を合わせれば軽口を交わし合う。それが常だった。しかし今のエグナは張り合いがない。フィンの左の眉が歪む。
「俺たち全員の祝いの日だ。去年も祝っただろう」
「ちゃんと覚えてるよ……ちゃんとね。ちょっと寝ぼけてただけさ」
「ストイックな婆さんが寝ぼけてる? ははぁ、今日は雨が降るな」
してやったり。先の言葉を打ち返した。フィンは愉快気に口角を上げた。
フツフツとした音が弱まり、タレの香りが濃くなる。フィンは鍋に向き直って中身をかき混ぜた。
だからエグナが目を細めたのに気づかない。
「へぇ、言うじゃないか」
彼女も口角を上げた。嗜虐的に。
近づき、フィンの肩を掴む。
「雨が恋しくなるくらい、全身泥だらけにしてやってもいいんだよ?」
「もうガキじゃないんだ。天の水浴びは卒業したさ」
フィンは肩を払う。そのままの流れで火を止めた。
クルリと反転。
「飯より先に土を食うのもな」
未熟の味は舌の奥に残っている。頭に浮かぶ修練の日々。何度も見上げたエグナの顔。鋭利な琥珀色の瞳と引き結んだ唇。
目の前の彼女はどうか。美しさはそのままだ。だが覇気が無い。飯を食えばそれもなくなるか?
フィンは右手を差し出す。握られた木製のスプーン。味見だ。
エグナは希望に応え──薄い。それだけ返す。
フィンは近くの棚を開ける。調味料を探していた。
「……土の味ねぇ」
エグナは小さく鼻を鳴らす。頭に浮かぶ修練の日々。何度も見下ろしたフィンの顔。泥を吸った紺色の髪とギラついた深緑の瞳。
目の前のしなやかな背中に、かつて張子のようだった薄い体がダブる。
笑みが溢れた。
「美味かったろう」
フィンは調味料探しを中断した。
「ちょっと出てくる。仕上げの香辛料を取りにな」
鍋を掴み、向かう先は玄関。大股で向かう。
エグナは隣の棚から塩の入った瓶を手に取り、遠ざかる背中に放った。容赦はなかった。
「っと、危ない」
フィンは空いた片手で難なく掴み取る。探していた塩だ。何事もなかったように振り掛ける。
玄関前での仕上げ作業。あと数秒遅ければどうなっていたか。エグナは髪を掻き上げた。
「人の食事に土を盛ろうとするんじゃないよ」
「食事前に土の味を思い出させるからだ……それもとびきり苦いやつをな」
屈辱の味。その言葉が一瞬頭に浮かび、しかし口にはしない。代わりに塩の瓶を投げ返す。
エグナもサラリと受け取り、丁寧に棚に戻した。瓶が飛び交い、しかしやり取りは軽い。この程度はいつもの事だった。
フィンは鼻を鳴らしてから、調理台に戻る。後は盛り付けだけだ。鍋が傾き、並んだ五枚の皿に影が落ちる。
「いつも泥だらけだったアンタ達が、もう十五歳か」
「一年の区切りってだけだ。それと、誕生日なのは婆さんも一緒だろ」
コココッ。箸先が鉄を小刻みに弾く。湯気に乗って胡麻の香りが広がった。
「年寄りの惰性とは訳が違うさ。一生に一度の命名年なんだからね」
言って、テーブルに座り頬杖を付いた。
命名年は精霊界の慣習だ。精霊は十歳で成人とされ、十五歳になると成人後の働きを評価した姓を授かる。言葉の通り、命名される年である。
だから今夜15歳となるフィンは、未だ“ただのフィン“だった。
「婆さんのことだ、もう考えてるんだろ? アンタの“ファオラン“みたいに響きが良いので頼むぜ」
フィンは皿を並べながら注文を付けた。
基本、名付けは親が行う。中には上司や師、先代などが行う事もあり、自由度は高い。孤児であるフィンの場合、育ての親であるエグナの役目となる。
彼女は肘を付いたまま、目前に来たフィンの横顔をチラリと見遣る。
「考えてはいるけどねぇ……」
エグナの反応は鈍い。
フィンには心当たりがあった。
「責任重大だな。なにせ俺含めて四人分だ」
五名分の配膳を終わらせたフィンは、軽く皿の淵を撫でた。
一つがエグナの分。残る四つがフィンを含めた、賢狼院に住む院生達の分。計五名がここの住人だ。
彼ら彼女らは皆、孤児である。生まれが不確かなのだ。だから、祝いの日を後から調整できる。
「なんで、誕生日を揃えたりするかね。そりゃ、覚える分には楽だろうけど」
「……うるさいね」
エグナの眉間には溝があった。
皺寄せで今日に負担が掛かっている。フィンはそう推察した。
拾った日を誕生日にしてもよかっただろうに。そう思うも、口にはしない。記念日を覚えるのは苦手なのだ。それは、几帳面な長女の得意分野だ。
ふと、フィンは気づく。
「そういや、まだアイツら起きて来ないな」
フィンは早起きだ。朝食前に剣を降るため、誰よりも先に起きている。そして、他の兄妹も寝坊助ではない。バラつきこそあるが、大抵この時間には目を覚ましている。それを狙ってフィンも朝食を作っていたのだ。年に一回限定の、剣ばかりの長男から些細な労いである。
しかし気配はない。深く寝入っているのか、物音一つしない。フィンは天井を見上げ首を傾げた。
「こんな日もあるさ……待ってる間、剣を振ってくるかい?」
「誘惑はやめろよ。今度は俺が待たせる側になるだろ」
「よく分かってるじゃないか」
エグナは小さく笑った。
フィンは対面に座る。
「それで。なんでなんだ」
「……何がだい?」
「誕生日を揃えてる訳さ。暇つぶしに聞かせてくれ」
フィンは右手を解すように揉んでいる。視線もそこにある。本当に暇つぶしなのだ。
エグナはため息を吐く。
「……決め事なのさ。アタシだってどうかと思うよ」
「ここの責任者は婆さんだろ。次から廃止すれば?」
「無理だね。なにせ、女王様直々の御達しだ」
「はぁ?」
フィンは顔を上げた。今度は彼の眉間に溝が生まれている。
「なんだって女王が出てくるんだよ」
「様を付けな……年寄りには色々考えがあるのさ」
「年寄り呼ばわりの方がどうよ……」
「あの方はアタシと同じ、今年で五百歳だよ。年食ってるのは事実だろう」
「同い年だったのか……なら尚更、意見具申すれば良いだろ」
「身分差を考えな。この世界の頂点、その片割れだよ。それに、今は王様が不在だから孤高の最高権力者だ。同じ婆でも同じじゃないのさ」
「あのフワフワ女王が最高権力者ねぇ……」
フィンは記憶と照らし合わせる。童女のように低い背丈。体を包み込む程に長い栗色の髪。懐っこい笑み。浮かぶのは若々しいを超えて幼い女王の姿だった。
「婆さんの方がよっぽど“ぽい“けどな」
「外見に惑わされるんじゃないよ。精霊の全盛期は十歳で始まり死の直前まで続く。見た目は当てにならないよ」
「実感無いな。まだ命名も済んでないもんでね」
フィンはニヤリと笑った。催促。いや、つまみ食いとでも言うべきか。待ての出来ない犬に似ている。口にこそしないが、エグナから名を送られるのが楽しみなのだ。
エグナは長いため息を落とす。
「……月が昇るまで待つんだね」
「アイツらが起きるのを待つのと同じく、って訳か」
「そういうことさ。ここでの食事は家族全員で。命名も同じだよ」
「夜までお預け……朝食に手を付けるのも、まだ掛かりそうだな」
手持ち無沙汰。朝食も覚め始めている。しかし無理に起こそうとは思わなかった。今日が特別な日だから、ではない。明日もその先も、安心して眠れているのならそれで良い。その事実にフィンは満足できる。彼の目元は穏やかだった。
対して、エグナは俯き顔を顰める。前髪が垂れ影が降りる。
見え辛くなった彼女の表情を、しかしフィンは気づいた。そっと触れるように尋ねる。
「……やっぱり婆さん、今日様子が変だぞ。覇気がないって言うか……あー、大丈夫か?」
覗き込むように顔が近づく。
エグナはサッと髪を書き上げた。
「はッ……長く生きてりゃそういう日もあるさ。その分、自分のご機嫌取りだって上手くなる。変に気なんて使うんじゃないよ、気持ち悪いね」
「やっぱ剣振ってくるわ」
「その前にアタシの皿から手を離しな」
先のやり取りの焼き直し。皿を挟んだ軽いやり取り。互いの顔に影はない。
少なくとも、今は。
──ドンドン。扉が叩かれる。短く重い。二人は皿を握ったまま顔を見合わせた。
「……俺、最近は誰もノシテないぞ」
「余罪が過分なんだよアンタの場合。もっと上手くやりな。街じゃなくて森の中でね」
「まさか庭に誰か埋まってないよな?」
「さぁ、どうだろねぇ?」
扉が再度叩かれる。
互いにため息を吐き、皿をテーブルに戻す。
「仕事じゃないのかい」
「ここに案件は持ってくるなって突っぱねてる」
「力と立場の使い方が雑だね……」
扉が再度叩かれる。今度は声も飛ぶ。溌剌とした声だ。
「早朝に失礼! フィン殿はいらっしゃるか!」
若々しく、威圧感はない。好感を持たれ易い声だ。平時であれば。
今日は特別な日だ。そして、普段と異なる日でもあった。まだ兄妹が夢の中なのだ。
フィンはキッと目尻を釣り上げた。
「アイツらが起きるだろうがッ」
「モタモタしてるからさ……ほら、アンタをお呼びだよ。早く行きな」
「婆さんも椅子と同化してたろう」
「婆さんだからね」
エグナは都合よく年寄りを自認して、シッシッと手を振った。
「……まぁ、また叫ばれても困るしな」
扉を開ける。
男が立っていた。体はガッシリしている。しかし童顔が印象を若くしていた。声のイメージ通りのフレッシュさがあった。
彼はフィンを見て──ビッと直立。その勢いのまま目をバチリと開く。そして発声。
「ッお、おはようございみゃすフィン殿!」
「……みゃす?」
首を傾げるフィン。背後で息の漏れる音が響く。エグナだ。
男にも聞こえたのか、森の中で第二の太陽がカーッと浮かび上がった。




