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第92話 後南朝を考える(4/4)

☆ その後の西陣南帝 ☆


それから20年後、後南朝の王が伊豆国三島に現れ、北条早雲が諌めて相模国に向かわせた。これが後南朝最後の記録とされ、あとは各地に残る伝承に頼らざるを得ない。三島の王と美作の王との関係は不明。加えて尾張の伝承も考慮が必要。西陣南帝、弟宮、さらにその子たちが各地に散っていた可能性もある。(2025/08/18)


真偽不明ですが、美作後南朝家は大名として入封した森家の隠れた庇護を受けて江戸時代初頭まで続いたとか。徳川幕府を恨む後水尾天皇が美作の王(?)に譲位したというトンデモ話も伝わります。宮家存続のため親王宣下を画策したのか。ともあれ美作後南朝は幕府の知られるところとなり悲劇が起きたそう。(2025/08/20)


寛永十一年、美作後南朝 八代目 高仁王(?伝承では後水尾天皇から譲位され天皇に即位していたとか…)は幕府によって廃位され、九代目 良懐王(?)は親王号を剥奪される。徳川綱吉の時代、その良懐王が備前国西大寺の祭礼見物に出かけた際、従者(幕府に寝返った?)に討たれ、嫡流の血統は途絶えたそう。(2025/08/22)


美作後南朝最後の良懐王は備前西大寺の祭礼を見物するため美作吉野川を舟で下っていたところ(徳川幕府の謀殺?)従者に刺され舟は転覆。岸に上がるも傷は深く、飯岡の民家に助けを求め「我は王なり」と言って絶命した。地元の民は哀れみ、この地に遺骸を葬り『我王様』として拝んできたと伝わります。(2025/08/25)


江戸時代初期、美作後南朝の植月御所があったとされる美作東部は森家 津山藩19万石が治めていた。その政庁が姫路城も凌ぐ77の櫓を持つ日本三大平山城の津山城。津山藩初代 森忠政(森蘭丸の弟)が入封すると、かつての支配者 山名氏の鶴山(つやま)城跡に巨城を築いた。入封を助けたのが美作後南朝家とも(2025/08/27)


津山藩の森家は元禄十年に四代 森長成が江戸滞在中に急死。末期養子に立てられた森衆利は江戸への途上、発狂して幕府を批判したとかで相続を認められず森家は改易される。この年、美作後南朝 良懐王が親王号(?)を剥奪され、後に弑されている。一説に美作後南朝を保護したことで幕府に潰されたとも。(2025/08/29)


美作後南朝は偽史と言われる。信憑性を貶めているのは、自天王の長禄の変が美作で起こり、代々の後南朝天皇が美作で続き、京の後水尾天皇から譲位されたりと非合理な話が出てくる点。美作に何らかの後南朝の出来事があったとして、それを伝え残そうとした人たちが実体以上に着飾らせ過ぎた結果なのか。(2025/08/30)


例えば美作後南朝では天皇や親王が登場するが、実際のところはせいぜい王を名乗った程度ではないだろうか。また高仁王が幕府を疎む京の後水尾天皇から譲位されたという話は、後水尾天皇への高仁王の拝謁を森家が仲介しようとしただけのことかもしれない(会うと小倉宮家の正統として箔が着くとかで)。(2025/09/01)


纏めると、南朝後裔 小倉宮聖承の末子が赤松満祐に報じられ京を出奔。美作に匿われたが赤松氏滅亡。吉野後南朝崩壊後、末子の子が山名宗全によって西陣南帝に立てられるも応仁の乱終結。美作は敵方となった赤松の所領となり南帝らは戻ること叶わず放浪。山名が美作を奪還。やっと帰郷。そんなところか(2025/09/03)

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