第90話 後南朝を考える(2/4)
☆ 西陣南帝と岡崎前門主(続き)☆
1479年に西陣南帝の父と思われる人物が40歳くらいに見えたそうなので玉川宮家の梵勝や護聖院宮家の金蔵主より5~10歳若い。寺に入れられたのは1441年 嘉吉の乱後か。当時、蓮華光院院主だった道朝法親王の入滅が1446年。その跡を継いで院主になったのか。しかし次の院主の記録は不明?…抹消された??(2025/07/20)
西陣南帝の父(岡崎前門主)が京の寺に入ったのは幕府の命だろうから、吉野に隠れる小倉宮分家ではなく京の小倉宮家。すると聖承か教尊の子。教尊に子が居た話は聞かない。出家前の子とするには少々若すぎ?すると聖承の子?聖承には赤松に奉盗された同年代の末子がいた。連れ戻され寺に入れられたのか?(2025/07/22)
赤松満祐に擁立された足利義尊は嘉吉の乱後、船で伊勢に逃れ、京に入って管領 畠山持国に保護を求めるも赦されず討ち取られている。もし西陣南帝の父を赤松に奉盗された小倉宮聖承の末子(幼子)だとすると、一緒に京に戻り、南朝断絶方針を踏襲する持国によって蓮華光院に入れられた…といったところか(2025/07/25)
小倉宮聖承の末子が蓮華光院に入ったのを嘉吉の乱の翌年とすると5、6歳か?幕府の南朝系宮家断絶方針で寺に入れられるのは規定路線。この子が最後のひとりだったか。それだけに聖承は嘉吉の乱では赤松の誘いに乗って出家前の幼子を託したのかもしれない。乱後に寺に入ったのは規定路線に戻っただけか。(2025/07/26)
蓮華光院に入ったとして、その後どうなったのか。玉川宮梵勝らと同様、幼少期は寺の喝食として過ごしたのだろう。数年後に当時の門主 道朝法親王が入滅。十歳を過ぎたどこかの時点で門主に就任したか。では寺を出奔したのはいつ? 子の西陣南帝の年齢から逆算して享徳二年、十六歳くらいのときでは?!(2025/07/28)
寺を出た岡崎前門主は何処へ行ったのか。少し後に逐電した玉川宮(梵勝・梵仲)は奥吉野の天川村に入った痕跡がある(龍泉寺の後醍醐天皇木像は奥書に長慶院乃三世之宮の作とある)。また後年、西陣南帝は吉野奥で挙兵している。これらより、普通に考えれば後南朝の手引きで奥吉野に逃れたと思われる。(2025/07/29)
岡崎前門主が逃れた?奥吉野は分家筋の従兄?から子に代替りの最中。2年後に子の自天王が京から奪取した神璽をもって即位(?)する。本当の即位か不明だが、直前に隠岐で教尊が薨去したとの伝承もあり、自他共に小倉宮の嫡流となる。岡崎前門主が継がなかったのは、やはり一度仏門に身を置いたからか?(2025/07/31)
自天王即位(?)の2年後が長禄の変。赤松遺臣が神璽奪還のため味方と偽って自天王を討った。その後、神璽は護聖院宮家の円満院宮仁尊王または尊雅王(南天皇)が保有したとも伝わるが、再び赤松遺臣に討たれ神璽を奪われる。なぜ小倉宮家の嫡流たる岡崎前門主が全く登場せず、神璽を保有しなかったのか?(2025/08/01)
☆ 岡崎前門主について考え直す ☆
普通に考え岡崎前門主は奥吉野にいたと思ったが違うのか?長禄の変時、岡崎門主には既に4歳の子(西陣南帝)がいたはず。神璽が他の王に渡ったことをみれば吉野の後南朝は前門主の存在を把握していなかった可能性さえある。では前門主は誰の手引きで何処にいたのか?そもそも門跡寺院の門主だったのか?(2025/08/02)
そもそも岡崎前門主が出家・出奔したという記録は一切ない。玉川宮や護聖院宮の王子とて公家の日記に断片的に出てくるだけなので、前門主の記録が発掘されてないだけかもしれないが、現時点では嘉吉の乱後に京に居た気配がない。寺記から門主が抹消されたからか、それとも門主というのは偽りなのか…(2025/08/03)
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