第89話 後南朝を考える(1/4)
☆ 自天王と忠義王 ☆
自天王・忠義王兄弟の素性は昔から議論されてますが、後南朝が神璽を奪取した禁闕の変の実行部隊の旗頭として担がれた護聖院宮家の金蔵主・通蔵主兄弟(長慶・後亀山天皇の弟の系統)よりもっと玉としての価値の高い人物かと思う。尊秀王ということはあり得ないだろう。(2025/07/07)
自天王は後南朝の天皇に即位していたかは明確でない。神器の一つを持ち、御所は行宮と呼ばれ、鳳輦に乗っていたので天皇並の扱いは受けていたようだが、ではなぜ自天王と呼ばれるのか…即位出来ない身の上…つまり一度僧籍にあったからか?自天王に子が出来るのを待って即位させる段取りだったのか??(2025/07/08)
有名なのは長慶天皇の曾孫、梵勝・梵仲兄弟を自天王・忠義王兄弟とする説。玉川宮家から幼くして相国寺に入れられ喝食となったが、幕府の迫害から逃れるために出奔した。喝食なので受戒してないが仏門に身を置いている。辻褄が合うところも多いが、自天王より10歳以上 年長で年齢が一致していない。(2025/07/09)
やはり自天王は玉川宮家や護聖院宮家ではなく、後亀山法皇の嫡流たる小倉宮流なのか。法皇が吉野に出奔したとき嫡男 恒敦親王(小倉宮一世)が同行していれば子が生まれていたかもしれない。伝承も踏まえればそれが尊義王で、近江に匿われて小倉宮家の分家一世となる。自天王は分家二世といったところか(2025/07/10)
時系列だと
嘉吉元年6月:嘉吉の乱
嘉吉3年5月:小倉宮聖承 薨去
嘉吉3年?月:玉川宮某 出奔(出雲)
嘉吉3年9月:禁闕の変
足利義教は南朝系三宮家を断絶させるべく出家を強要。そこに嘉吉の乱で義教 横死。二年後、南朝嫡流 小倉宮聖承の薨去を契機に、後南朝勢力が禁闕の変を起こし神璽を奪取した。(2025/07/11)
引き続き時系列
嘉吉3年11月:小倉宮教尊 配流(薨去?)
宝徳3年?月:小倉宮教尊 隠岐で薨去?
宝徳4年正月:自天王が吉野で即位?
享徳4年2月:玉川宮梵勝、梵仲が出奔
小倉宮聖承の嫡子 教尊は禁闕の変の疑いで隠岐へ配流。自天王の即位(?)は彼の薨去に伴うものか。相国寺慶雲院主 梵勝の逐電はその後。(2025/07/14)
小倉宮家の分家筋?と思われる自天王・忠義王兄弟が討たれたのが長禄元年。既に小倉宮嫡流の聖承・教尊親子は薨去してるので、小倉宮の血筋は途絶えたはずだったのだが、十数年後、応仁の乱の最中に西軍の山名宗全が小倉宮の皇胤を新主として擁立する。いわゆる西陣南帝。誰の血を受け継いでるのか?(2025/07/15)
☆ 西陣南帝と岡崎前門主 ☆
西陣南帝が西陣に迎えられる二年前。楠木正俊らに奉じられた南主兄弟が奥吉野と紀伊熊野で蜂起。味方を増やしながら北進し壷阪寺に迎えられた(高取城 越智氏の関与が疑われる)。この頃から西軍が南帝擁立を模索。元楠木氏の河内を領する畠山義就は反対するも押しきられ、京の北野松梅院に迎えられた。(2025/07/16)
南主兄弟が吉野/熊野で蜂起したということは西陣南帝は自天王同様、吉野で育ったのか?関係は不明だが少なくとも息子ではない。南帝の父は岡崎前門主。次男と一緒に南帝に帯同している。自身が僧籍にあったので嫡男を南帝に据えたのか。この岡崎前門主の素性がわかれば南帝の素性も解決するのだが…(2025/07/17)
岡崎前門主は岡崎門跡とも呼ばれる東山の蓮華光院の門主だったと思われる。この寺は皇族等が門主を務める門跡寺院である。院主を兼帯された時期もあるほど大覚寺と関係深い。ちなみに南北合一で京に戻った後亀山法皇は大覚寺の小倉御殿に隠遁した。恒敦親王に始まる小倉宮の名もこれからと思われる。(2025/07/18)
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