第81話 播磨国紀行(2/3)赤松氏②
☆ 赤松満祐 ☆
赤松義則の嫡男で家督を継いだのが嘉吉の乱の主役 赤松満祐。六代将軍 足利義教を騙し討ちし、幕府の討伐軍に城山城を包囲され自刃しました。残念ながら城に行けず写真はありませんが、本丸や麓には乱で討ち死にした一族の供養塔が多数ある模様。満祐の供養塔は赤松氏の菩提寺 法雲寺にあるそうです。(2025/06/25)
嘉吉の乱の被害者が万人恐怖の将軍、足利義教。赤松満祐は京の私邸で義教を討ったあと、討死覚悟で一戦交えようと討伐軍を待ち構えていたが現れず、はねた首を槍先に掲げて播磨に凱旋。将軍家所縁の播州安国寺(写真)で盛大な法要を行った。寺の北側にあるのが首塚。ただし、首は京に返したとも伝わる。(2025/06/26)
嘉吉の乱で強いリーダーを失った幕府は二か月も赤松討伐の要諦が定まらなかった。その間、赤松満祐は国境を固めるとともに、乱の体裁を整えるべく足利直冬の孫 足利義尊を見つけて大将に擁立。さらに南朝系宮家を奉じた義戦に見せようとしたのか、小倉宮聖承の幼子(末子)を京から(播磨に?)連れ去る。(2025/06/27)
坂越(赤穂)にある小倉御前の墓。後亀山帝の子 小倉宮恒敦か、はたまた孫の小倉宮聖承か。ただ何れもこの地で薨御したとは考えにくい。そこで出てくるのが、赤松に連れ去られたと聖承が言う末子。嘉吉の乱の直後、赤松満祐の求めに聖承が名代として子を託したというのが真相か?ここで亡くなったのか?(2025/06/28)
☆ 赤松政則 ☆
赤松満祐の弟(義雅)の孫、赤松政則の墓がある長円寺(墓は柵で見られず)。嘉吉の乱で取り潰された赤松家の浪人たちは政則を立て、後南朝が奪い去った神璽の奪還を条件に赤松家の再興を幕府に願い出て実現させます。初め加賀半国の守護に返り咲いた政則は応仁の乱に乗じて山名から播磨を奪還しました。(2025/06/29)
再び坂越(赤穂) 小倉御前の墓。これには別の云われもある。臣従すると偽り奥吉野の後南朝に潜入した赤松遺臣たちは、小倉宮を称する南朝皇胤 自天王兄弟を殺害し神璽を坂越に持ち帰る。幕府からの御家再興の吉報を坂越で待った赤松政則は自天王たちの悪夢にうなされた為、ここに供養塔を建てたという。(2025/06/30)
加西市 清慶寺にある南帝御首塚。御家再興のため赤松遺臣が後南朝の若い帝を討って播磨に持ち帰ったのは神璽だけではなかった(?)。持ち帰った南帝の首を埋めたのがこの寺。土が盛られた塚の上に江戸時代になって供養塔が建てられた模様(首塚之記)。塔には仁尊親王と刻まれている。自天王の諱なのか。(2025/07/01)
☆ 赤松祐尚 ☆
陽松禅寺にある赤松祐尚の墓と小谷城への登り口。赤松政則が山名宗全から播磨を奪還すると一族の祐尚が小谷城主に任ぜられ、この寺も建立した。後年(戦国時代)、城は尼子晴久に攻められて落城。祐尚も討死したとされるが50年以上の時を経ており、かなり長寿の人物となる。なお満祐にも同名の弟がいる。(2025/07/02)
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