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第80話 播磨国紀行(1/3)赤松氏①

☆ 赤松円心 ☆


赤松氏を訪ねて播州の旅。まずは三木の常厳寺にある赤松円心公墓所。京で亡くなり建仁寺久昌院に葬られたあと、故郷の苔縄城近くの法雲寺に供養塔と廟が建てられました。常厳寺の墓所はこの地の赤松氏庶流 別所氏が建てたものらしい。傷みがひどかったため法雲寺の供養塔を模して近年 建て替えたそう。(2025/06/17)


背後に見える複数の石が古い墓石かと思われます。(2025/06/17)


☆ 赤松則祐 ☆


次は赤松円心の三男 赤松則祐。父 円心、長兄 範資が立て続けに亡くなり家督を嗣いだ。西仙寺に墓があるとのことで訪ねましたが、お寺の話では墓ではなく御位牌。御開帳の日のみ お目にかかることが出来るそうです。境内には徳川家康の孫である千姫と夭逝した幸千代 母子 所縁の五輪塔もありました。(2025/06/18)


当時「則祐」を何と読んでいたのでしょうか。私は以前投稿したように考えています。(2025/06/18)


兄の赤松範資も弟の則祐も諱の読みは「のりすけ」とされる。ただし則祐は「のりすけ」であり「そくゆう」でもある??……彼が出家した比叡山では諱を音読して僧名とする事例が時折見られる。同時代に比叡山で諱を音読みして僧名にした?と思われる人に吉田(卜部)兼好や殿法印(二条)良忠などがいる。(2025/05/04)


比叡山に入った赤松則祐は天台座主であった護良親王の側近となり、元弘の変では親王に従い一旦還俗する。しかし還俗後も気に入った法体姿で通したと氏寺の宝林寺に伝わっており、再び帰依したかは不明だが、以後も「そくゆう」で通したと思われる。後に足利将軍家に倣って臨済宗に帰依して妙善となる。(2025/05/04)


☆ 赤松氏範 ☆


写真は播州清水寺です。赤松円心の四男、赤松氏範の墓があります。氏範は護良親王の子 大塔若宮を奉じて南朝に帰参。後に若宮とともに南朝に反旗を翻し賀名生の御所を焼く。楠木軍が駆けつけたため兄 則祐の元に逃亡。だが再び南朝に帰参して挙兵。幕府勢の追討を受け、この寺で一族とともに自害した。(2025/06/21)


播州清水寺がある辺りの地名は平木。楠木正儀を祖先とする一部の人たちは播州で平木姓を名乗ったが、この辺りに土着していたのか。楠木氏が朝敵と見なされていく応永の乱以降、楠木氏は姓を隠し改名せざるを得なかった。数ある楠木氏を祖先とする人たちの苗字では(楠木姓を除き)平木姓がもっとも多い。(2025/06/23)


☆ 赤松義則 ☆


臨済寺にある赤松義則の墓。父は赤松則祐、母は佐々木道誉の娘です。則祐48歳のときの子で大変遅い。僧籍にあって、妻を娶るに際して還俗したということか? 則祐が亡くなり義則が家督を継いだのは14歳。叔父 赤松氏範の幕府への挙兵では討伐軍に加わり、氏範自害後に引き取って播州清水寺に葬った。(2025/06/24)


今日は赤松義則の命日(忌日)。嘉吉の乱で有名な赤松満祐の父で、赤松則祐の嫡男です。身体が極端に小さく、三尺入道と呼ばれました。その身体的特徴は息子の満祐にも遺伝しているそう。(2025/10/11)


※次ページ 2/3 へ続く

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