第71話 "仮説" 楠木氏の正体(4/8)
☆楠木四郎の正体☆ ※Xの誤記訂正済
であれば、頼朝上洛一回目の40~45番手の随兵は武蔵七党&東大寺枠だったとも考えられ、忍三郎・五郎と共に42番手になった楠木四郎が石切場を再構した河内の武士でも問題ない。大仏開眼の1185年以降も他の建物で石材は必要。石材輸送で忍兄弟と関係してたなら合手(相棒)として編成されたとも推測できる(2026/07/31)
結果、楠木四郎こそが楠木氏の祖先とのシンプルな構図も浮かぶ。ただ、どういう身分だったかが問題。随兵というと地頭になった御家人のイメージだが単純にはいかない。石川郡は八条院、大乗院、叡福寺領らが入り組む難しい土地。記録に残る地頭は石川氏ら数人のみ。平家没官領もあるが問題がある(後述)(2026/08/01)
想定する楠木四郎の立場では河内で地頭になるのは難しいだろう。ただ、源頼朝が畿内を掌握する際、地頭以外の荘官にも御家人の身分を与えている。東大寺再建では木材、金属、石材など資源を支配した武士もおり、取り込みを図っても不思議ではない。楠木四郎は資源型の荘官の御家人になった可能性もある(2026/08/02)
ただ、単純に楠木四郎が石材供給で源頼朝の信任を得て資源型の荘官御家人になり、頼朝上洛の随兵になったのだろうか。上洛パレードは高度な政治的意図がある。少数の畿内武士は数合わせではない。畿内への影響力浸透の為、一人一人に意味があったと思われる。楠木四郎の選出はどういう意図があったのか(2026/08/03)
☆河内源氏の石川義兼☆ ※Xの誤記訂正済
これを解く鍵が源頼朝の同族で河内源氏の本領を承継する源(石川)義兼。(石切場は下司代の楠木に任せたからか?) 1184年に天野谷や長野荘の平家没官領を武力で勝手に横領している。しかし頼朝はこれを利用する。1185年の地頭補任で義兼を本領の石川荘と共に天野・長野の地頭に任じて自身の影響力を強めた(2026/08/04)
これだけ見れば楠木四郎でなく主人筋で地頭の石川義兼が源頼朝上洛時の随兵になるべきだが外れている。実は義兼は頼朝上洛前にまたもやらかしていた。平家の旧領だけでなくその周囲まで悪質な横領を行ったため、八条院や金剛寺が後白河上皇に訴え、頼朝が激怒。後に天野谷等の地頭は返上させられている(2026/08/05)
楠木四郎が御家人となり源頼朝の上洛一回目の随兵になったのは、石川義兼への処罰の副次的なものだったのではないか。後の天野谷の地頭解任では金剛寺から下司職も外されている。楠木石切場でも利益は四郎の主で叡福寺下司の石川義兼に入っていたはずで、これを取り上げようとして生じたとも推測できる(2026/08/06)
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