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第70話 "仮説" 楠木氏の正体(3/8)

☆源頼朝と東大寺☆ ※Xの誤記訂正済


ここまでは楠木氏と石切場、東大寺再建との関係を推察してきた。ここからはさらに東大寺と源頼朝の関係から導かれる楠木氏と幕府の関係を推察してみる。過去にも楠木四郎や落首『楠木の根は鎌倉に…』について言及してきたが、東大寺という要素を考慮すると、これまでとは異なる関係が見えてきた。(2026/07/24)


東大寺再建は1181年から1203年。石材を最も必要としたのは大仏殿の基壇で、大仏開眼供養の1185年までには既に石材切出しは最盛期。一方、源頼朝が東大寺支援を表明するのが1184年、御家人の派遣が1186年以降。つまり石切場再興を仕切った者を頼朝が東国から送り込む余地はなく、地元の者と考えられる。(2026/07/25)


補足:基壇の修繕は、損傷した凝灰岩を削り直したり、新たな凝灰岩を二上山から調達して置き換えたりしたと考えられる。


頼朝は1184年に東大寺再建の支援を表明した後、1186年からは寄進だけでなく建築や運搬の監督、警護のため御家人も派遣している。また、1190年の一回目の上洛時は318人の随兵を率いて京で行進したが、1195年の二回目の上洛時は奈良にも足を延ばし、246人の随兵を従えて東大寺の落慶法要に参列している。(2026/07/26)


補足:調べ直して随兵の数を以下のように修正。

一回目(1190年) 先陣180騎+後陣138騎

二回目(1195年) 先陣123騎+後陣123騎

以後に出てくる"番手"は後陣の中の順番。


☆頼朝上洛の随兵☆


源頼朝の上洛一回目。48番組中42番手の随兵として忍三郎・五郎と共に楠木四郎の名がある。忍氏も含め前後は武蔵七党の面々が多く、楠木四郎も武蔵の武士と推察されてきた。吾妻鏡を調べると、武蔵七党が確実視される随兵は一回目で24人、二回目が22人。このうち両方の上洛とも随兵に選ばれたのは7人。(2026/07/27)


源頼朝の二度の上洛のどちらも随兵となった武蔵七党7人のうち6人は奥州合戦などで武功を上げるなど吾妻鏡に記載があるが、忍(鴛)三郎だけ源平合戦後から二回目の上洛までの間(随兵を除き)吾妻鏡に武功どころか名前すら一度も出ていないことに気付いた。にも関わらず二回も名誉ある随兵に選ばれている(2026/07/28)


さらに源頼朝の上洛一回目の随兵で、源平合戦後から上洛一回目まで吾妻鏡に名が出ない武蔵七党は、忍(鴛)三郎(42番手)以外にも8人おり、このうち7人は行列後陣の40番手~45番手に集中している。さらに彼らに混じって武蔵七党でない者が複数いる。奈良?の三輪寺三郎(41番手)は二回目も随兵となっている(2026/07/29)


これは一体どういうことか。忍(鴛)三郎らは吾妻鏡に名がない間、東国から離れた所で奥州合戦と同等の功を上げていたことになるのではないか。それが東大寺再建ではないか。忍氏の本拠は利根川と荒川に囲まれた水運拠点。物流に長けた忍氏が東大寺に派遣され再建資材の運搬管理を行っていたのではないか(2026/07/30)


次ページへ続く(楠木四郎の正体をご覧ください)

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