↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
69/95

第69話 "仮説" 楠木氏の正体(2/8)

☆楠木石切場と楠木氏☆ ※Xの誤記訂正済


その橘某が小字楠木の石切場を管理したことで楠木の一族と呼ばれるようになったのでは?という推論なのだが、前出の通りこの辺りには楠木氏の痕跡も幾つか伺え、しかも楠木氏の衰退に合わせたかのように南北朝時代に石切場が再び廃坑となる。叡福寺から石切場に関する古文書が出てくれば面白いのだが… (2026/07/17)


東大寺が焼けても基壇(土台)の石は使えそうだが、実は熱爆裂で損傷し新たな石が必要だった。二上山には楠木石切場の他に幾つも石切場があるが、現時点、考古学的にこの時期の稼働が確認されたのはここのみという。落慶法要以降は基壇向けの切り出しは収束し、全国で流行する五輪塔向けにシフトしていく(2026/07/18)


補足:熱爆裂で損傷した理由は、大仏殿の基壇表層の石材が、脆くて湿気を吸い込みやすい二上山の凝灰岩(白石/松香石)だったため。


東大寺再建では宋から伊行末を招き、花崗岩の加工に先端技術を導入。東大寺再建後は石工集団が生まれ、石の用途として五輪塔を全国に流行させた。発掘調査で楠木石切場には五輪塔の半製品の加工場があったことが判明している。半製品は近くの飛鳥川から石川→大和川で運び、各地へ出荷したと思われる。(2026/07/19)


つまり中世の石材の加工・流通革命のど真ん中に楠木氏がいたのかもしれない。時代が下ると石切場の凝灰岩だけでなく赤坂の辰砂、金剛山の金剛砂などの採掘に手を広げ、拠点を赤坂に移し、水運も支配。異様に多い山城も採掘場と考えれば辻褄が合う。この頃発生した赤坂の棚田も採掘技術が寄与したのか。(2026/07/20)


日本最古の官道、竹内街道沿いの大字山田小字梨堂の梨堂はナシンドと読み、楠氏堂(ナンシドウ)がなまったものと考えられている。梨堂と楠木石切場は古道「ろくわたり(鹿渡り)の道」一本で繋がる(徒歩15分)。楠氏堂が何だったのか不明だが、石切場の管理を請け負った当時の楠木館跡だったのかも知れない(2026/07/21)


楠木石切場の名称は発掘調査の際、小字楠木から付けられた仮称で、当時何と呼ばれたかは不明。大字や小字は平安時代中期から後期にかけて付けられた地名だが、鎌倉時代以降も新たに開墾された場所などには開墾者や所有者が小字の名となることは珍しくない。楠木氏と小字楠木、結局どちらが先かは不明。(2026/07/22)


ただ、楠木石切場がある竹内峠は河内と大和の国境で、魔を防ぐ境木として楠が大切にされていた。現在も県境の太子町と葛城市は何れも楠が自治体木である。また楠木石切場の所有者かもしれない叡福寺には聖徳太子の葬儀に纏わる大乗木(楠)の伝承があり、楠木氏より小字楠木の地名が先でもおかしくはない(2026/07/23)


次ページへ続く(楠木氏と幕府の関係をご覧ください)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。