第72話 "仮説" 楠木氏の正体(5/8)
☆なぜ楠木四郎が御家人に成れたのか?☆
後白河院の圧力で叡福寺が石川義兼の石切場下司を解任できたとしても後釜が問題。源頼朝が東国御家人を送り込むことはまず不可能。1185年の地頭補任では畿内で強い反発にあい、平家没官領を除き翌年撤回する有り様だった。また石切場という特殊性もある。東と西で石質も違い、土地勘や人脈も必要となる(2026/08/07)
何より下司の交代で東大寺再建に影響を及ぼすことは出来ない。一方で石川義兼のままでは再建に必要な石切場を人質に、寺社領の横領から手を引かない可能性がある(事実、手を引くのは5年後の頼朝の再上洛時)。この手詰まり感の状況で浮上したのが、下司代の楠木四郎を引き込むことだったのではないか(2026/08/08)
実際に石切場を仕切る下司代の楠木四郎を下司にすれば、石切場運営に少しの影響も及ぼさず、石川義兼だけ排除できる。そのため石川氏被官の四郎に御家人の身分を与え独立させたと想像する。もちろん軋轢は生じるし世間の目もある。ただ東大寺再建という大義名分の下なら世間の見方は変わるのではないか(2026/08/09)
普通なら、楠木四郎は欲に走り主家を棄てた裏切者と世間に見られるところだが、東大寺再建という大義名分があれば、悪いのは石川義兼で、楠木四郎は東大寺のために決断した正義の人となる。この世論作りには東大寺の協力も必要。というか、そもそも東大寺が絵を描いた可能性すらあるのではないかと思う(2026/08/10)
重源を東大寺大勧進職に就けたのは後白河法皇。重源の最大支援者は源頼朝。重源が東大寺再建に宋から招いた伊行末の石工集団は楠木石切場にも入り込んだだろう。つまり重源は間接的だが石切場監修に関与した可能性もあり、法皇と頼朝の困り事を解決すべく、楠木四郎を使って筋書きを書いた可能性もある(2026/08/11)
伊行末の石工集団を補足すると、礎石などに必要な六甲山の硬質な花崗岩の加工技術を求めて招聘したが、二上山の軟質な凝灰岩も含め石材全般の総合監修を行った可能性が高い。楠木石切場からは規格化された建築石材(化粧板等)や五輪塔の半製品が見つかっており、工程・物流に変革を与えた可能性がある(2026/08/12)
源頼朝が上洛の随兵から河内源氏の石川義兼を外し、郎党の楠木四郎に御家人の身分を与えて随兵に加えたのなら、頼朝にとっても上洛は畿内の武士達に威厳を見せつける絶好の舞台となっただろう。一方で地頭職と下司職を失った石川氏はこれが切っ掛けで威勢を失い、楠木氏が台頭する契機になったと考える(2026/08/13)
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