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第62話 勝手に推察 楠木氏 4/5

※素人の勝手な推察です。ご注意ください。


☆楠木石切場と赤坂☆


大字太子の飛地である楠木石切場を囲うのが興福寺大乗院領の山田荘(大字山田)。延元二年にここで南北両朝が戦い、北朝方が勝ったことが北朝伊藤義明や楠木一族の安満了願の軍忠状でわかっている。幕府方が楠木方に攻め込んだということか。楠木石切場辺りが楠木の拠点として続いていたことを伺わせる('24/10/05)


楠木の祖先かもしれない橘安基(保基)は赤坂郡司と"号す"とある。これが「赤坂に住む石川郡の郡司」という意味なら、平安後期から水分赤坂と二上山麓の両方を拠点にしていたのだろうか。それとも水分赤坂から一旦、二上山麓に拠点を移し、金剛砂や辰砂の採掘に手を広げて再び水分赤坂に戻ったのか…('24/10/06)


さておき、石切場に始まった鉱物採掘が後の楠木の戦を性格付けたのかと。採掘場が山城や砦に利用された可能性もある。千早城の坑道の逸話も採掘場だったからかも。さらに、その技術がこの地に棚田を生んだのかもしれない。そして、採掘場で働く坑夫、山の民、農民など戦の素人でも出来る戦を生んだのか('24/10/07)


☆石川氏と楠木氏☆


かつては楠木氏の主家だったかもしれない河内源氏は、嫡流が河内を離れ、この地を継いだのは源義家の五男義時。源平合戦後も石川氏として河内で勢力を保つが、一族離散で徐々に衰退。それでも家名は続き、正成の千早籠城前には本拠に近い叡福寺付近に布陣した楠木氏に従って挙兵。親しい関係だったのか('24/10/08)


湊川の合戦後に河内に侵攻した足利方に対し、楠木党は石川氏の本拠の壺井丸山に出陣して防戦している。石川氏もただでは済まない場所なので、共に戦ったと思われる。一方、楠木氏は石川氏に酬いるかのように河内源氏の壺井八幡宮の社殿を修復したり、奉納を行っている。やはり両氏の良好な関係が伺える('24/10/09)


元弘の変、当初における石川氏嫡流は、後醍醐天皇の綸旨で笠置山に駆けつけた石川義純・義忠兄弟らと思われる。一族を率いて行宮を守護すれども敗れ、義純は自害。義忠は脱出して小山氏の下で潜伏するなど大打撃を被った模様。この時は楠木氏との連携は窺えない。楠木氏に与するのは正成の再挙兵のとき('24/10/10)


石川氏と楠木氏を結びつけるのが石川判官代(石川次郎)。両氏共同で造ったという大ヶ塚城の城将だが、石川義純・義忠後の棟梁だったかは不明。そもそも大ヶ塚は楠木一族の大塚惟正の出生地。正成の叔母が大塚氏に嫁ぎ生んだ子とされる。もしかして大塚氏は石川氏の庶流で、大塚惟正が石川次郎なのか?('24/10/11)


続く

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