第61話 勝手に推察 楠木氏 3/5
※素人の勝手な推察です。ご注意ください。
☆楠木氏移住説☆
楠木氏が北条被官で河内に来たなら、機会は宝治合戦後か霜月騒動後。前者は三浦氏が滅ぼされ河内が北条守護国となったタイミング。正成挙兵の84年前だが、果して無名な楠木氏でも入植が人々の記憶に残っていたのだろうか。後者は歴史事象の整合問題に加え、赤坂等は観心寺七郷ではないという問題も残る('24/09/29)
霜月騒動後に比べて宝治合戦後があまり話題にならないのは、楠木氏の拠点が水分・赤坂である理由を説明しきれないからかと思う。水分・赤坂は河内の守護所や国府からも離れたへんぴな金剛山の麓。なぜ、この場所に入植したのか、なかなか説明が難しそう('24/09/29)
☆楠木氏土豪説☆
河内の土豪説に立った場合、楠木の名がどこから来たかが最大の問題。河内には楠木の地名がないと言われてきたからだが、小字楠木という地名の発見で、土豪説もまだ検討の余地はありそう。ただ、小字を名字とするのは小さな一族。橘義範の子孫を楠木氏とするならあまり似つかわしくはないようにも思う('24/09/30)
続く
☆楠木石切場と苗字☆
謎を解く鍵は、聖徳太子廟がある叡福寺かもしれない。というのも、その地所は大字太子小字楠木で、古代から続く石切場を指していたから。しかも大字山田の中にぽつんとある大字太子の飛地です。ということは「字」が広がる荘園普及期(平安後期)に石切場を所有していたのは叡福寺だったのかもしれない('24/10/01)
楠木石切場は二上山に幾つか存在する石切場の一つ。石棺や石塔に用いる凝灰岩が採れた。1998年の発掘調査で古墳後期から中世まで使われた、採石場に加え加工場や鍛治炉も備える大規模な遺構と判明。二上山の石切場を支配したという物部氏が滅んだ後、蘇我氏→聖徳太子→叡福寺の繋がりで所有したのか?('24/10/02)
平安後期から鎌倉時代は荘園の雑掌を武士が担った時代。勝手な想像だが、同様に叡福寺は楠木石切場の警備と管理を近くの河内源氏に託したのではないか。そして河内源氏棟梁の命でその任に着いたのが橘義範またはその子孫だったと。結果、楠木の名を早い段階から苗字的?に用いた可能性もあるのかなと…('24/10/03)
☆楠木石切場と赤坂☆
楠木石切場の付近には梨堂(楠氏堂)の地名や、楠木氏の城と伝わる二上山城、楠公鎧掛松など、楠木の痕跡があり、この辺りが楠木氏の拠点であったことが伺える。時代が下ると二上山の凝灰岩から金剛山の金剛砂や辰砂の採掘に手を広げ、拠点も金剛山に近い水分・赤坂に移したのではないかとも考えられる('24/10/04)




