第60話 勝手に推察 楠木氏 2/5
※素人の勝手な推察です。ご注意ください。
☆楠木四郎と楠木氏☆
この橘公高(ならの橘四郎)が、源頼朝上洛時の随兵、楠木四郎との説もある。だとすれば、鎌倉に下った橘公長の系統と、河内の楠木正成の系統の共通祖先(橘義範なのか、その子や孫なのか)に、既に楠木という名字、または後に名字となる副次的なものがあったのではないかと想像が膨らむ。('24/09/22)
平安末期から鎌倉初期は名字が普及する時代。だが鎌倉に遅くに下った橘公長親子は、初め東国に名字とする領地を持たず、本姓を名乗ったものと思われる。しかし、源氏一門にも本姓を使わせない頼朝の下で急速に名字が浸透し、橘公高は一族に伝わる副次的な楠木の名を、ある時期、用いたのかもしれない…('24/09/23)
吾妻鏡の楠木四郎の次が105年後の河内楠入道。なぜ東国に楠木の名が一度だけなのか。河内移住説での説明ならまだしも、これを河内土豪説で説明するとなると……一旦楠木を名乗った橘公長の息子達も任地に赴くと小鹿島氏、薩摩氏など領地名を名乗り、楠木を使う必要がなくなったから…といったところか('24/09/24)
☆遠江・駿河の橘氏と鎌倉幕府☆
一説に橘公長の出身地とされるのが遠江国。橘諸兄の孫、橘入居が遠江守となって以降、遠江および隣国駿河は、多くの皇別橘氏が受領に預かるとともに、藤原純友を捕らえた橘遠保も遠江掾となり、土着の子孫も下位の国司に任用されたりもしました。頼朝挙兵時の駿河目代も遠保の子孫と思われる橘遠茂です('24/09/25)
橘公長が遠江出身とされる理由の一つが、鎌倉下向の際、縁者を頼って遠江に逗留したため。近い血縁がいたか不明だが、この遠江・駿河の武士たちも幕府に組み込まれたと思われる。さらに東国には前九年の役に参陣した橘孝忠の子孫など他の橘氏もいたはずで、それなりに本姓橘氏が幕府にはいたと思われる('24/09/26)
☆楠木の落首☆
落首「楠木の根は鎌倉に成ものを枝を切りにと何の出るらん」は、橘氏武士の本流を幕府とし、無名の楠木正成を支流とみて詠んだという程度ではないか。特に東国に下った橘公長・公業親子はそこそこ有名で、子孫も多い大族だったので、当時の京の人々は、この系統を橘遠保の嫡流とみていたのかもしれない('24/09/27)
仮に楠木四郎の子孫が河内に移住していたとしても、ほぼ記録にも残らない無名な楠木氏の出処を、京の人が落首で笑うほどに周知していたのだろうか。落首自体は楠木氏が移住した、していないに関わらず、橘公長系など幕府の橘武士に対し、単に橘の支流とみられていたという程度の意味合いではなかろうか('24/09/28)
続く




