第50話 楠木紀行 叡福寺
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☆叡福寺と石切場と楠木氏☆
#楠木紀行 No.12
聖徳太子廟のある叡福寺。この辺りが大字太子ですが、二上山の西の麓にも大字太子の飛び地があり、点在する楠木石切場跡の分布と重なっているようです。大字は既に平安時代の記録に現れる地所なので、少なくともそのころまでは叡福寺が石切場の権益を持っていたということでしょうか。('24/06/16)
#楠木紀行 No.12補足①
平安後期、貴族や寺社の荘園は管理と防衛のため、荘雑掌(荘官)が武装化して武士団になったり、逆に武士団を雑掌職として雇うようになります。鎌倉末期には雑掌の一部が悪党化するのですが、楠木氏も叡福寺から石切場の雑掌を任されたことがきっかけだったのかもしれませんね。('24/06/16)
#楠木紀行 No.12補足②
楠木正成の一、二代前の時代、楠木氏は東大寺が保有する、本拠の東条から遠く離れた播磨国大部荘の雑掌職(荘官)にもなっています。何故、こんな離れた地の雑掌を頼まれたのか不思議に思っていましたが、もしかすると叡福寺と東大寺の寺社の繋がりがあったからかもしれません。('24/06/16)
☆叡福寺の太子廟☆
#楠木紀行 No.13
叡福寺と言えば、忘れてはいけないのが高師泰。四條畷の戦いで楠木正行・正時兄弟が討死した直後に、末弟の楠木正儀が守備する東条に侵攻。その折、師泰は兵糧供出を拒否した叡福寺を焼き討ちし、聖徳太子廟まで焼いてしまいました。('24/06/17)
#楠木紀行 No.13補足①
高師直は吉野山を、高師泰は聖徳太子廟を焼き、極悪兄弟のように言われますが、当時としてはあり得ること(もちろん、よくないことですが)。楠木正成も足利尊氏との戦に際して平等院と宇治の町を焼いてます(辛うじて鳳凰堂は残りましたが)。('24/06/17)
#楠木紀行 No.13補足②
楠木合戦注文や増鏡には、楠木正成が聖徳太子廟辺りを基地に、四天王寺あたりまで討って出ては引き返すを繰り返したとあります。太子の古い未来記が太子廟から出てきており、太平記にある未来記など各種逸話も、太子廟(叡福寺)と太子堂(四天王寺)が錯綜してる可能性もあります。('24/06/18)
#楠木紀行 No.13補足③
太子廟(叡福寺)辺りを基地に出陣した楠木正成の軍には石川判官代が率いる百騎など周辺の武士も加わっていました。石川氏は叡福寺近くを本拠とする河内源氏の末裔です。楠木氏が叡福寺のみならず河内源氏、平岩氏など、この地の実力者と良い関係を築いていたことを窺わせます。('24/06/18)




