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レポート  作者: 篠森京夜
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 昼食用の簡単なお弁当を作って、私達は外に出た。

 朝から干しておいた白いワンピースは陽光の匂いを漂わせ、暖かな肌触りが心地よかった。何かを身に纏っているのはいい気分だ。自分の体が確かにそこにあるという事が感じられ、肌と擦れあう生地が実感を確かなものにしてくれる。

 私は子供っぽい気分になって、バレリーナのように廊下で一回転してみた。

 ワンピースの裾が広がり、円を描く。

 少しバランスを崩して止まると、勢いのついた裾が体に巻きついた。

 ……私はおかしなことをしている。 

 子供っぽい気分と表現したが、それは嘘だ。私は子供時代にこんな気分になったことはない。まして気分に浸った行動など人間の奇妙な習性の一つとしか思っていなかったし、そんなことをする必要があるとも思えなかった。

 今でも必要性を問われれば何処にもないと答えるだろう。

 だが、何となくわかる気がする。理論的に説明することはできないけれど、実感として理解できる。どんなプログラムや経験が組み合わさっているのか、どのような環境要因が働いて引き起こされるのかはわからないが、確かに『何となく長めのスカートで一回転してみたくなる時』は存在するのだ。

 ケンジは下に降りて、管理人の老夫婦と話をしていた。

 ここに来て一ヶ月、何度か彼等と話す機会はあったのだが、私には未だに彼等が何を考えているのかわからない。全く意思の疎通が図れないし、行動パターンが読み取れない。

 いや、生活の形態という意味でのパターンならば、わかり過ぎる程にわかっている。彼等は絶えず離れる事なく、常に同じパターンで生活している。私がわからないのは、如何にして彼等がその生活に至るようになったのか、彼等が何を考えながら同じ行動を反復しているのかだ。

 不思議な事に、ケンジは彼等と話すことが出来る。

 傍目から見る限り、全く噛み合っていない言葉のやり取りなのだが、ケンジは彼等と意思を疎通し、会話をすることが出来る。彼は老夫婦から夕食を分けてもらったり、そのお返しとして、アパートの壊れた所を修繕したりもしているのだ。 

 これに限らず、ケンジにわかっていながら私にはわからない事はかなり多いようだ。

 ケンジが老夫婦と話している間に外に出ることにした。薄暗い廊下を横切り、玄関の扉の前に立つ。

 扉を開けた私の目の中に飛び込んできたのは、凄まじいばかりの光だった。

 白く輝く砂利道、黒く影となった建造物。幾重にも積み重なったヴェールは全ての輪郭をぼかし、白と黒以外の色を消し去ろうとしていた。むせ返るような熱気と砂煙がなければ、私はその景色を雪景色だと思ったかもしれない。

 真夏の太陽は南東の方角から照りつけ、乾燥した砂利道に短い影を作り出している。しばらく歩いてから振り返ると、追いついてきたケンジの向こうに真っ青な空と、灰色のアパートが見えた。

「綺麗な空」

 私は向かい風の中、乱れる髪を押さえながら空を見上げた。ケンジから借りた麦藁帽子がなだらかな半円を描き、青の絵の具を塗りたくったような空を切り取っている。

「とても深い色……鮮やか過ぎて、暗く見えるくらい」

「変な言い方」

「そうね」

 私はケンジの姿を見つめた。白のTシャツと青いジーンズ、そして頭には私と同じ麦藁帽子を被っている。日焼けした肌が白いシャツと対照的で、顔にかかった影は彫の深い顔立ちを際立たせている。

 小麦色の肌に白いシャツと麦藁帽子、白く輝く砂利道と夏の青空。

 まるで、一枚の絵のような光景。

 私はこの時間を切り取って、永遠に残しておきたいと思った。今ならわかる。どうして人間は絵や写真という形で多くの瞬間を切り取り続けたのか。そして、ファウスト博士が何故、悪魔との賭けに負けたのかも。

「アヤナ……どうしたの? ぼんやりして」

「別に何でもないわ。風景に見とれてただけ」

 ケンジは私の答えに周囲を見渡し、変なの、と呟いた。彼にとってはこの風景は見慣れたものでしかないのだろう。

「なんかさあ……アヤナ、最近変だよ? なんかぼーっとして」

「そうかな?」

「アヤナはさ、オレより頭がいいんだから、オレみたいにぼーっとしてちゃダメだよ」

「そう?」

「そうだよ。そうじゃないと病院に入れられちゃうよ?」

「……うん」

「気をつけなきゃ」

「うん」

 ケンジは真剣な顔で言った。

「確かに最近、私の頭は変になったかもね」

 私は目を伏せて呟いた。

「ほんの些細なことでもとても嬉しくなったり、吃驚したり……今までとはまるで違う。このままどんどん感覚がおかしくなっちゃうのかしらね」

「よくない。よくない。そんなの病院に入れられちゃうよ」

 ケンジは慌てたように声を上げ、彼が昔に出会ったという、余りに多くのものが見えすぎたり、聞こえ過ぎたりしてしまった人達のことを話してくれた。彼が昔の話を自分からするのは初めてだ。

「だから、よくない。皆、病院で死んじゃうから」

「大丈夫よ、ケンジ。私は病院に行かないし、死んだりもしないわ」

「本当?」

「本当よ」

 確かに時々、自分でもよくわからない感情に胸が張り裂けそうになる。でも、ケンジと話したり体に触れたりするだけで、その不安は治まってしまう。

 だから、私は大丈夫だ。

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