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現場で揉め事があった日の翌朝。
目を覚ますと、ケンジは布団の上に起き上がり携帯電話で誰かと話をしていた。私が目を覚ましていることには気がついていないらしく、頷いたり手を振ったりしながら小さな声で会話を続けている。
やがて電話を切った彼は、私が起きていることに気がつき、気まずそうな顔をした。
「おはよう、ケンジ。今の電話は何?」
私はケンジが携帯電話と私を気にしているのがわかったので、そのことには気がつかないふりをして、わざと眠そうに電話の内容のことを訊ねた。
「うん……親方から……現場のこと」
ケンジはたどたどしい手つきで携帯電話を枕の下に隠しながら答えた。
「親方さんが、何だって?」
私は彼の隠蔽工作につき合うことにした。彼の微笑ましくて一生懸命な姿を、もう少し見ていたかったからだ。
「……えっと……昨日、揉めたことが長引きそうだって」
「それで?」
「えっと……今日は来なくていいってさ」
話すことよりも隠蔽工作に力と集中力を傾けながらケンジは答えた。
「今日は休みなんだ?」
私が訊ねると、ケンジはしばらくぼんやりした後、ああそうか、と呟いた。どうやら隠蔽工作に夢中で、今までその事に気がついていなかったらしい。
「そっか。今日は休みなんだね」
彼は嬉しそうに布団に潜り込んだ。
「休みだ、休み!」
学校が休みになった小学生のように喜ぶケンジの隣で、私は彼の給料について考えていた。ケンジの仕事は基本的に日当で給料を支払う方式だ。今日の分の給料はどうなるのだろうか。
私はケンジの『親方』という人物について何も知らないが、多少感情的になる時があるとはいえ、ケンジに対してもきちんと給料を支払っているのだから、良識ある人物ではあるようだ。現場のこともよく知っているわけではないが、依頼主と揉めれば一時的に作業を中断するのは至極当然のことだし、そういった前例もあるだろう。
取りあえず、次に現場に行く時は周りの人の話を聞いて、今日の分の給料を貰えるのかどうかを確かめるように言わなくてはいけないだろう。そんなことを考えていると、布団の中でケンジがじゃれついてきた。
「今日はゆっくりできるね」
嬉しそうにケンジが言った。
「そうね」
私は苦笑して、思考を中止することにした。
「それにしても、やっぱり持ってると便利よね」
彼の上に覆い被さりながら耳元で囁く。
「何が?」
「……携帯電話」
私は手を伸ばして、ケンジが枕の下に隠した携帯電話を抜き取った。ケンジの身体が緊張したのがわかった。
「私が小さい頃には考えもしなかったわ。こんな風に電話が使えるようになるなんてね。最近じゃ皆使い始めて、何処にいても着信音が聞こえるから鬱陶しかったけど……あると便利だってことは認めざるを得ないわね」
私はふて腐れているケンジに微笑んだ。
「テレビのリモコンと同じね。別になくてもやってこれたし、なくなっても深刻な事態が引き起こされるとは思えない。でも、あるとやたらと便利だわ。こうやって人間は簡略化を求め、怠惰になっていくのね」
「使えって言ったのはアヤナじゃないか……」
ケンジは反論した。
「それにアヤナが、よくわからない難しい言葉を使うのも嫌いだ」
「ごめんごめん」
私はふざけるのをやめてケンジにキスをした。
「でも、こうやって布団から出ないで電話ができるっていうのは便利よね。面倒な事に二人の時間を取られなくてすむもの」
「今日はずっと一緒にいられるよ」
「だからこそよ」
私はケンジの瞳を覗き込んだ。
かつてこれほど、誰かの瞳を長く覗き込んだことがあるだろうか。これほど言葉に頼らずに、心を通わせた事があっただろうか? 少なくとも彼に出会うまで、私はこの世界にそんな方法がある事さえ知らなかった。私達は言葉を使う事なく思いを伝えあうと、深く結び合わさった。
ふと、自分の手に携帯電話があることに気がついた。
少し指先を動かして番号を押せば、大学の研究室に電話をかける事ができる。
私は少し躊躇った後、電話を離し、更に深くケンジの愛撫に溺れた。
「外に行かない?」
朝食の後、ケンジが言った。
「だって、こんなにいい天気なんだからさ」
窓の外には青空が広がり、建設中の赤い鉄筋の上に入道雲が発達している。
「……そうね。たまにはいいかもね」
私は頷いた。
窓から光が射し込み、部屋の輪郭を白く輝かせていた。
夏の明暗には艶かしい所がある。光と闇は液体のように波打ち、揺らめきながら決して混ざりあう事はない。
光は光として存在を続け、闇は闇として存在を続ける。
夏の闇は海原のように広がり流れていく。深くなるにつれて微妙に色を変え、その奥を見通す事はできない。
夏の光は強いものではない。ただ量が多いだけだ。
幾つもの光の粒子が結合してヴェールを作る。光のヴェールは水面を舞う雪のように漂い、積み重なっていく。幾重にも幾重にも積み重なり、あらゆる輪郭を消していく。冬の光が全てのものを鮮明にしていくのに対して、夏の光は全てのものの姿を曖昧にし、溶かしていく。
部屋にある食卓の上にも光のヴェールが舞い降りてきた。光は漆黒の表面を漂い、硝子のグラスに打ち寄せ、砕けた。周囲に打ち返す光が波紋を起こし、渦となる。私が気紛れにグラスを指で弾くと、光の波紋が揺れた。




